寄書 不潔家屋は移転せざるべからず

   神戸栄町一丁目 松雨生

   

   貧民の不潔家屋は繁昌なる市府内に存在せしむべからずとは文明国

   一般の議論にして蓋し今度大坂長町其他の不潔家屋移転論の起りし

   も元この議論に原因せしものなるべく尚ほ当度悪疫の流行せしなど

   も大いに助因となりしならん貴社新聞紙に於て二度まで之れを議論

   せられし如く松雨生は此事の最も必要なるを知るものなり尚当局者

   の熱心に此希望の満足を計らるゝにも拘はらず連合会は之を不可と

   して二度までも否決したるは如何なる理由ありて然るか実に残念の

   至りといふべし抑も今回貧民移転の目的たるや一は以て悪疫を予防

   して公安を維持し一は以て不潔の家屋を取り払ふて市区の体面を改

   むるにあり如此きの事の最も必用にして其必要の正当理由あるは今

   更喋々を要せざるなり今試みに朝日新聞の報道する処に従ひ反対論

   即ち移転を不可とする人々の理由とする所に付きて松雨生が思ふ所

   を述べ其反対論旨の理由とする所は決して正当の理由にあらざる事

   を證せん

   議案の不完全なる事東成郡を加へざる事其事を府会に付せざる事と

   の三者は其可否共に松雨生の言を欲せざる所のものなり(如此きは

   元来論旨の要点ならず)故に之れに付きては議論せずとして先づ以

   下数条の点に付きて議論すべし

   第一 民力凋衰によりて不可とする事 此反対説は甚だいはれなき

   事なり反対論者は既に其移転を可なるを許せども目下民力凋衰によ

   りて其費用の負担に堪へずとの意ならんか如何に大阪府下の民力凋

   衰したるにもせよ日本第二の市府たる大坂人民にして此移転費用の

   如き金員を拠出するに差支へるものならんや縦又或は今日の民力に

   堪へずといふも之を年々悪疫流行の為此費用に幾倍するの損失を蒙

   るものに比較して考ふるときは其得失は明白ならん不急の土木など

   こそ民力凋衰の時に起さぬがよけれども此移転の事に至ては決して

   不急の事にあらず寧ろ至急の要事なりと謂はんのみ

   第二 市町に空処を生じて体面を欠く事 小生は市町に空処あるを

   望むものなり空処の生じても決して心配するに及ばざるなり何とな

   れば此空地を以て一大公園地となして府民の快楽を取るの場所とせ

   ば可なり元来大坂には公園地と称すべき程のものは中の島のみにて

   是其余り賞すべきものにあらず去れば今空処のあるを幸ひ一大公園

   となすときは南北の二公園相対して大坂の市府に一段の美観を添ゆ

   るならん況んや南地は府下の最繁昌の地なれば公園地に遊ぶものゝ

   数多かるべく随ふて近辺の商家にも利益あるなり

   第三 比較上長町より悪疫者を出さゞる事 長町なるものは人民の

   交通なき土地なるが長町の人民は他処へは一切で出ざるものが若し

   如此きものなれば随分此説も信据すべきものなれども其事実を探ぬ

   れば此長町の人民こそ最も多く他処へ出るものなるべし去れば之が

   為め他処に伝染して発病するものゝ沢山あるべく随て此発病者より

   数人へ伝染する事もあるべし不潔の家の主人他出して悪疫を発して

   其家族どもの主人の家に在る時に既に発病の徴ありしを知らずして

   我が家には悪疫者なし不潔は悪疫の原因ならずと云ふは推測の誤最

   も甚だしきものといふべし

   第四市区の改正を待ちて之と共にすべき事 朝日新聞にもいふ如く

   市区の改正は未来の出来事にして只噂のある位のものなり十年の後

   ちになるか百年の後ちなるか不分明の事なり未来の出来事の想像は

   実に雲煙の如く(モシ一定の理由あらざりせば)朝日新聞が親属相

   続の比喩妙といふべし決して市区改正は当てにはならずまた当にし

   て待つにも及ばず市区改正をするにも区群ともに一括して一市をな

   すにあらず大坂の市府は左のみ広ろからずして可なり今日の四区丈

   けにて十分なり村も郡も取り込むに及ばずとすれば今日之れを移転

   するも其場処には不都合なく同様手数をかくる事ならんには如此き

   事は一日も早やきがよろしきものなり扨長町の空地は前説の如く公

   園地となせば不都合なし

   松雨生の反対論者の理由に付きて議論する所如此し実に反対論者の

   説は左のみ価値なきものなり故に曰ふ反対論者の説は一も正当の理

   由あるものにあらず不潔家屋は断じて移転せざるべからず嗚呼人民

   の思想は宜しく文明の新しき空気の流通によりて変化せざるべから

   ず因循姑息して小利にのみ汲々として万世の大利を忘るゝが如きは

   大坂府民の万々あるべからざる事なるを信ずるなり

   

   

   著者:神戸栄町一丁目 松雨生
   表題:寄書 不潔家屋は移転せざるべからず
   時期:18861023/明治19年10月23日
   初出:朝日新聞
   種別:寄書/不潔家屋/長町取払/