ションベンガード

最早、この名前で呼ぶ人は少ないかも知れないが、長年にわたって呼び習わされてきたと思われる。
1933(昭和8)年に「中央公論」で発表された武田麟太郎の小説「釜ヶ崎」に登場しているからである。
電車の狭いガード下で、そこは誰彼となしに小便すると見え、コンクリートは湿気で壊れ、白い徽《かび》ようのものがひろがっているが、烈しい臭気に彼も亦、そのことに気がついて、小口貸金手軽に御用立てます、と云う広告を読みながら、排泄するのであつた。
 
そこを抜けると無料宿泊所があり、そのあたりには、午前中からもう夜の宿の心配をしなければならぬ浮浪者たちが、いつでも事務員が出て来て受附けるならば、すぐ列を作ってならべるように支度をして――蹲《うづくま》って考えたり、立話をわいわいやっていた。
 
小説家は、そのあたりが葱畑《ねぎばたけ》であった時のことを、思ひ出していた。
今はそんなにションベン臭くはなく、ガードの東に立つ大きな木の方が目立つ。
上の写真は、多分、2017年の撮影だと思うが、木の様子がはっきりしないので、2012年撮影のもの(下写真)を紹介しておく。
 
 なぜ5年も前の写真かというと、今(1918年)3月冬で、葉がなく、比較にならないから。
 1976年
今から40年前の、同じ場所の写真がある。今話題にしているニセアカシアは、電信柱に隠れる程の太さでしかない。この時点ですでに、傾いて生えている様子が見て取れる。
太さも10センチくらいではなかろうか。40年で今の太さまでなった成長速度を考えると、植えられて10年と経過していないように思われる。
 
電車の後ろに見えるのが「あべのハルカス」青色電車は左(霞町)へ向いて走っている(ガード西側より撮影)。
オレンジ電車も左(今池)へ向いて走っている(ガード東側より撮影)。(共に2018年3月撮影)
ガードの大きさ(小ささ?)が判ってもらえるかと思う。
下写真は1976年、ガード下の南側壁面は映画館・大衆演劇場のポスターで埋め尽くされている。北側壁面は三つ上写真で見るに、政治集会のポスターで埋め尽くされている。一種の棲み分け??互いを尊重し、重ね張りはしていない。
2016年9月まで、ガード下壁面はレンガの元の色であった。左が北面、右が南面。
 
  
2016年、西成特区関連事業(落書き対策)で塗装が施された次第。
  
1976年と2012年の写真を見比べると、お地蔵さんの祠が、別物になっているようだ。位置は変わっていないようだ。
  
お地蔵さんは2体祭られていて、首のない方が元から祭られていたという。「みほ」というのは、この祠を守りしている人の亡くなった娘さんだそうだ。首がないのは、随分と前に酔っ払いがいたずらをして、首から上が行方不明になったからそうで、その後、柵囲いしたという。
 
 さて、武田麟太郎の小説に登場したションベン臭いガードと、ここで紹介しているガードが同じ場所であることの証明ですが、事は簡単で、阪堺線の霞町駅から今池駅までの間にあるガードはここ一ヵ所しかないからです。
 それでは、説明が味も素っ気も無いようなので、もう一つ根拠を上げます。小説「釜ヶ崎」の主人公である小説家は、ガードを西から東に越えます。そして、「そこを抜けると無料宿泊所があ」る、と書いています。現在、その位置には、「西成区保健福祉センター分館 」があります。ちょっと前までは「大阪市立更生相談所」でしたが。
 1932(昭和7)年8月の「大阪市社会施設分布図」(大阪市社会部編) によれば、その場所に「今宮保護所」があったと記されています。
 『今宮保護所-西成区東田町 昭和42月 定員120名無料 霞町』。これが小説に登場する「無料宿泊所」のことです。
 
 ちなみに、今宮保護所の北側には、「今宮簡易宿泊所」がありました。
 『今宮簡易宿泊所-西成区東田町 昭和71月 定員300名一泊一銭(大阪救護協会経営) 霞町』。これは後に市に寄贈され、今宮保護所の分館となり、今宮市民館となり、東田保育所となり、2018年はひと花センターとなっています。
1947(昭和22)年3月 今宮市民館開設 市立今宮保護所(昭4.2無宿者の保護収容施設として設置したが、昭21.11閉鎖)残存建物を改修開設。改修費 468,000円。済生会今宮診療所及び保育施設を併設。所在地-西成区東田町74 (大阪市民生事業40年史)