中村 順さん 釜ヶ崎原爆被爆者の会 会長

1988(昭和63)526日 「釜ヶ崎被爆者の会」15周年 読売新聞
 西成区愛隣地区で暮らす被爆者たちの組織「釜ヶ崎原爆被爆者の会」(中村順会長、41人)は、25日西成市民館(同区萩之茶屋2)で結成15周年記念集会を開催。「国の援護を勝ち取り、原爆の恐ろしさを語り継ごう」と、改めて誓い合った。(注:被爆者援護法の制定は1994(平成6)年)
  
 写真に、「釜ヶ崎労働者生活協同組合」の看板が見える。釜ヶ崎生協の設立準備会は、1973年10月開催とされているから、この写真はそれ以降ということになる。
 天満荘は火事でほぼ住めなくなるのだが、その時期は1978年4月16日釜ヶ崎解放会館開きの前だったのか後だったのか・・・・。「阿修羅の部屋は水浸しで、多くの資料がパーになった。釜日事務所も同じ」という会話をしたような気がするので、会館開きの前か・・・。
 「朝日ジャーナル」で団体紹介の連載があり、釜ヶ崎原爆被爆者の会も紹介されていたと「思い込んで」いるのだが、それは1794年か5年だと思う。その時使う予定で撮影されたとすれば、1975年前後の写真だろうということになる。でも、顔立ちからすれば、すべてが同じ時期の撮影ではないようにも思える。(HP管理者は、短い時期だが、この生協の前で、露店のお握り屋をしていた事がある)
 
 
 
 カマ・ティダ -大阪西成- 砂守 勝己・著
フト思い出して、ゴソゴソ探すと上の写真が出てきた。沖縄生まれの写真家砂守勝己の写真集「カマ・ティダ -大阪西成-。出版は1889年だが、撮影はもっと前。
 『恋するアジア』第18号掲載南の海の道へ」に砂守勝巳さんのことが書かれているのをネットで見つけたのだ。
「ある日、新聞で、釜ケ崎の被爆労働者が、援護法の設定を求める集会を開くという記事を目にした。さっそく釜ケ崎に行った。何か撮れるかもしれないと思った。会の会長は「不精髭で目ン玉だけが異様に大きい男」で「雪駄ばき」だった。活動を写真に撮らせてくれ、と言うと、ほう、と侮るような感じの返事だった。日を置いて会うと「そんなに撮りたいんやったらドヤに住んだらどないや」と言われ、釜ケ崎に住むようになった。生活費は日雇いで稼いだ。自由気ままな暮らしだった。そのような生活も1年に及ぶと彷徨うばかりの自分に焦りを生じ「一刻も早く現状を抜け出したい」と思うようになった。
 この記述にある記事が冒頭のものであるとすれば、1988年ということになるのだが、どうも違うようだ。74年大阪写真専門学院に入学。75年に卒業し写真家として活動を始める。82年に大阪、釜ヶ崎のドキュメントによる個展「露地流転」(キヤノンサロン銀座、大阪、広島他)を開催、84年同じく大阪・釜ヶ崎に取材した「大阪流転」で『プレイボーイ』誌(集英社)主催の第3回プレイボーイ・ドキュメントファイル大賞奨励賞を受賞。1889(平成元)年に写真集『カマ・ティダ―大阪西成』(IPC)を出版。
釜ヶ崎での撮影は、どうやら1978年から1988年にわたってのことらしい。
白黒写真は、どうやら砂森さんとは違う人が撮影したものであるような気がする。