空中写真に見る釜ヶ崎

よく知られていることだが、釜ヶ崎は戦災で焼け野原となっている。
 西成区史に綴り込まれている戦災地域図
 釜ヶ崎地域の戦災状況について、写真資料は極めて少ない。「大阪における愛徳姉妹会の社会福祉事業50年史」(冨田一栄編・社会福祉法人愛徳姉妹会・1984年12月刊) に貴重な写真が収められている。
 3月13日空襲で焼失した聖心セツルメント。現在の西成警察裏公園。不確かですが、環状線に沿って立ち並んだ家屋が焼け残っている事、市営今宮住宅は残ったことを考え合わせると、南方向から北に臨んで撮影したものではないかと思われます。

 1937(昭和12)年

 「1937(昭和12)年度小額給料生活者失業応急事業の一として実施したる本市に於ける不良住宅地区調査報告書の別冊」に収められている図で、今宮警察署の左に聖心セツルメントと書かれているのが、上記写真の場所です。
 焼ける前の聖心セツルメントの写真
 事のついでに、昭和初期の釜ヶ崎周辺の地図を2枚紹介しておきます。

1927(昭和2)年

地図種別:旧1万地形図、リスト番号:700、図名:大阪南部(ここでは一部分のみ紹介)、測量年1927(昭和2)年、発行年月日:1930/06/30(昭和5年)
測地系:日本測地系、作成機関名:大日本帝國陸地測量部国土地理院web地図・空中写真閲覧サービス

1932(昭和7)年

地図種別:旧1万地形図、リスト番号:703、図名:大阪南部(ここでは一部分のみ紹介)、測量年1932(昭和7)年、発行年月日:1935/02/28(昭和10年)
測地系:日本測地系、作成機関名:大日本帝國陸地測量部国土地理院web地図・空中写真閲覧サービス

1942(昭和17)年

 1942(昭和17)年

1945(昭和20)年

 上の写真で「焼失を免れた2階建て長屋」に注目されたい。聖心セツルメント焼け跡の上に見える2階建ての建物と同一のように見えるが、位置関係がおかしいようにも思える。他にも焼け残りの建物があったようだ。

1948(昭和23)年

 1945年の米軍写真は見当たらなかったが、1948年の写真は、次に紹介する2枚の内のいずれかであると思われる。
整理番号:USA、コース番号:R500、写真番号:9、撮影地域:大阪西南部(ここでは一部分のみ紹介)、撮影年1948(昭和23)年12月30日
撮影計画機関:米軍国土地理院web地図・空中写真閲覧サービス
整理番号:USA、コース番号:R500、写真番号:10、撮影地域:大阪東南部(ここでは一部分のみ紹介)、撮影年1948(昭和23)年12月30日
撮影計画機関:米軍国土地理院web地図・空中写真閲覧サービス(撮影高度・撮影縮尺・カメラ名称・焦点距離は写真番号9と同一)
 「甦る我が町-西成区版」所収

1952(昭和27)年

地図種別:旧1万地形図、リスト番号:705、図名:大阪南部(ここでは一部分のみ紹介)、測量年1952(昭和27)年、発行年月日:1956/06/30(昭和31年)
測地系:日本測地系、作成機関名:地理調査所国土地理院web地図・空中写真閲覧サービス

1950(昭和25)年頃

▲「西成区政誌」所収の土地区画整理萩之茶屋工区地図。

1953(昭和28)年

  
同じ1953年の航空写真とされているが、どうも時期にズレがあるようだ。国際新聞社のものには、萩之茶屋小学校の西南隅の建物が写っていない。

1961(昭和36)年

整理番号:KK614YZ、コース番号:C1、写真番号:167、撮影地域:近畿(ここでは一部分のみ紹介)、撮影年1961(昭和36)年5月22日
撮影計画機関:国土地理院国土地理院web地図・空中写真閲覧サービス
▲新街区を赤、旧道路を青で示したもの。区画整理の進行具合を水内俊雄さんが「スラムの形成とクリアランスからみた大阪市の戦前と戦後(立命館大学人文科学研究所紀要・83号)」に、大阪市役所建設局発行の事業所報からまとめたものを一覧表でまとめておられる。以下に釜ヶ崎関係だけを紹介。年月日は「事業所報」の発行年月。
昭和38年12月3日 馬淵、水崎、西入船の不法占拠は一掃された。地区全体では335戸、297世帯。
昭和39年1月10日 紛争の多発地帯である釜ヶ崎職業安定所横の道路、延長120メートル上の不法バラック24戸、38年12月26日までに2戸をのこして一掃
昭和40年8月30日 萩之茶屋工区東田町の火災跡立退交渉を急ぐ。建築の復旧が早く、処理に立ち後れを生じた。前回の轍を踏まぬよう鋭意努力中。
昭和42年4月28日 西成区東四条1丁目今宮中学校南側公園予定地上の集団不法占拠(109戸)の内20戸が全焼。バラック密集地帯としては西成区内最大の規模を形成しており区画整理事業の障害はもとより常に社会不安をもたらす根源となっている。
昭和44年1月16日 萩之茶屋工区の設計変更認可になる。愛隣地区労働施設等建設計画に伴う事業計画変更。
昭和44年6月1日 再三暴動を起こし、世間の注目をあびた愛隣地区の浄化のため、愛隣会館建設と道路整備が計画。指示のあった建物移転は完了。

1967(昭和42)年

整理番号:KK669Y、コース番号:C4A、写真番号:4、撮影地域:大阪(ここでは一部分のみ紹介)、撮影年1967(昭和42)年2月7日
撮影計画機関:国土地理院国土地理院web地図・空中写真閲覧サービス

1969(昭和44)年頃

▲西入船町に「愛隣総合センター(工事中)」とある。その下に「西成労働福祉センター」(現在の三徳寮、元は「四恩学園」所在地)。その右に「今宮市営住宅」(現在の夜間宿所)。東入船町の東阪堺線を挟んで「太子地蔵」とあるが、現在はない。東田町の下に「市立愛隣会館」「愛隣学園」。「仏現寺」もまだ存在、公園になっていない。
「市営今宮住宅」は、東入船町22 に所在。(昭和4年建設で78 戸、中層耐火構造。70年当時家賃150~360円と記録されています(大阪市営住宅一覧。1971 年版には今宮住宅の記載はありません)。昭和初期に建てられた、日東町や下寺町の市営住宅と同じ外観・構造で、それらの住宅同様、戦災を免れた建物ということです。釜ヶ崎は戦災で丸焼けといっても、全ての建造物が焼失したのではなく、耐火構造の建物などは残ったということの証し。  
 地図右側、「山王町二丁目」の下に、「市設山王住宅」(山王町2-60)とあります。これは1946(昭和21)年に建設されたもので 91戸。家賃140~200円。木造の共同住宅。
▲長らくセンターに勤めておられた上畑さんが、西成労働福祉センター屋上から撮影された何枚かの写真をつなげたもの
右端奥が「萩之茶屋小学校(校庭拡張工事中)。手前の屋上は、撮影者が立っている西成労働福祉センター屋上。中央左手は「市立今宮住宅」その建物の左上奥にかすかに見えるのは「通天閣」。ようするに、西成労働福祉センター屋上から南海本線高架方向にはじまり新今宮駅方向までをぐるりと眺めたことになる。上の地図では「西成労働福祉センター」と表記されている「ン」の字あたりに立って撮影したものと思われる。
因みに、ここでいう「西成労働福祉センター」は1963年5月に開所したもの。1970年に、あいりん総合センターに移転。
完成予想図(住吉区苅田の土地と交換で四恩学園が移転した跡地に建設)上の写真は、完成予想図の一段高い北側建物屋上から撮影したと思われる。

1975(昭和50)年

整理番号:CKK748、コース番号:C18、写真番号:154、撮影地域:大阪(ここでは一部分のみ紹介)、撮影年1975(昭和50)年3月4日
撮影計画機関:国土地理院国土地理院web地図・空中写真閲覧サービス

1985(昭和60)年

整理番号:CKK851、コース番号:C12A、写真番号:13、撮影地域:大阪(ここでは一部分のみ紹介)、撮影年1985(昭和60)年6月6日
撮影計画機関:国土地理院国土地理院web地図・空中写真閲覧サービス