俺たちの正月は俺たちで作ろう(関西救援連絡センター 第22号 72.1)
 

=釜ヶ崎越冬対策の記録=

12月25日から20万円という金額と30名近い人材を騙使して行なわれた越冬対策は、1月5日深夜のおにぎり配布を最後として幕を閉じた。

―使用した米280キログラム、配ったおにぎり900個―という物量も、修羅場と化した冬の釜ヶ崎では、まだまだ不充分なものであった。それは、行路病人(行き倒れ)発見を最重点としてのべ200人ものパトロールを編成したにもかかわらず、2名(未確認として他に3名)の死者が出たことで明らかである。そしてそれは越冬対策の抱えたどうしようもない限界であった。

☆獲得目標の中に

@現実に倒れ死んで行く労働者を、自分達の手で救う Aその現実を行政の責任として、徹底的に追求する B一方的な〈救う〉〈救われる〉関係だけに終らせぬため、共同性を追求する。

この三点は越冬対策を準備する過程で確認されていた。そして参加者の思想的違いを前提とし、超一党派としての実行委員会が組織されたのである。@の獲得目標を実行委の最大の結束点とし、盛り上る討論の中で一致できる行動が決定されていった(パトロール、炊き出し、医療……)。そして@とBを現実のものとするために大テントの設営が計画され実現された。それれは「対策」を単に「対策」として終らせぬためのものであり、さらにスポーツ等の文化運動により補足されるものとなった。

「俺達の正月を俺達で作ろう!」と書かれ、釜ヶ崎中に張りめぐらされたステッカーは、越冬対策が慈善事業や人道主義者の救済活動とは本質的に違うものであることを証明していた。
 

★切迫した状況の中で

現場での越冬対策は想像以上に厳しいものであった。健康相談を目的にしていた医療班のテントは、病院斡施所の観を呈していた。しかも普通の病人ではない。何度も病院をトンコ(逃亡)した経歴を持った者がほとんどであったのだ。釜ヶ崎労働者であるが故、病院では冷遇され、逃げ出さざるを得ない状況に置かれる。トンコすることが解り切っていても、救急箪を呼ばざるを得ない、そういう形で現われた釜ヶ崎問題に医療班は直面させられて行った。しかも、こと緊急を要するのである。

パトロールにおける労働者との対応は微妙な問題を含んでいた。青カン(野宿)している者、倒れている者、それは物乞いでも浮浪者でもない。れっきとした労働者なのである。労働者の心理を傷つけず、おにぎりを受け取ってもらい、テントに収容することは技術的にも慎重さを要し、釜ヶ崎を熟知している者が当らねばならない。「オッチャン、メシ食ってないんやろ」という声の主が女であったり、学生丸出しであったりすると全てはくずれ去ってしまう。

医療、パトロールで解決を要された技術的な問題こそが、実は、本質的な釜ヶ崎問題なのである。
 

☆裏切った行政

テントを設営した翌日の31日。大阪市民生局は施設送りの窓口を閉ざし逃亡してしまった。各施設に256名もの労働者を収容し、これ以上は無理というものの、それは実行委、ひいては釜ヶ崎労働者全体への裏切りであった。電話電報、あらゆる抗議方法を取ったが、もぬけのからでは話にもならなかった。

テントは膨張した。病弱者、老人を優先的に入ってもらい、健康者はテント周辺でたき火を囲んでの青カンを余儀なくされた。

炊き出し班においては、三升炊きの釜一つで300食近い食事をこなさねばならなくなったのである。

行政の裏切りによって、青カン者をテントに迎えることもできずテント設営によって中止していたおにぎり配布を再開せざり空ぽ得なくなったのである。
 

☆盛り上った文化運動

非常に過重な労働を強いられることになった各分担のなかで、文化運動だけは驚くほどの成果が上げられて行った。

31日夜行なわれた飛び入りのど自慢大会は、600名もの労働者の参加を見た。ステージの上は歌う順番待ちの労働者で埋めつくされた。エノケンの物マネから藤圭子が、次から次へと間断なく飛び出してくる。警備のため待機していた60名の機動隊員もその盛況さには驚いたことだろう。

ソフトボール、もちつき、すもう大会。どれをとってみても、その成果は予期せぬことであり、同時に、釜ヶ崎における娯楽の貧困を物語っていた。
 

☆越冬対策の教えたもの

―〈救われた〉労働者が〈救う〉立場へと転換する―そんな現実が様々な分担の中で展開された。炊き出しの調理責任者になった人は、昨年の越冬対策における被救済者であったのだ。パトロールにも労働者は参加したし、青カン用のたき木の多くは労働者の手で集められたものであった。

たき火を囲んで若き乙女?と釜ケ崎労働者が談笑する。越冬対策開始当初一部に見受けられた学生あるいは過激派?への偏見は、そういう状態の中で消し去られて行った。越冬対策に参加したメンバーは何かを得、何かを釜ヶ崎に残して行ったのである。

越冬対策の持つ限界は、同時に着実な運動の必要性を示していたといえる。いくらパトロールを厳重にし、情宣を徹底したところで切迫した状況におかれ真の救援を必要とする労働者はわれわれの目の届かぬ所で死んで行ったのだ。

釜ヶ崎における運動は〈救援〉の概念をも含んだものでなければならないだろう。そして〈救援〉そのものが運動であり、闘争足り得る質を持つことが要請されているのだ。

 

                                      釜ヶ崎越冬対策実行委員会事務局