第2章 大阪市のスラム対策
第4節 大阪市のスラム対策
§1 不就学の子どもたち
大阪市とその周辺における工業生産は、多くの貧民を労働予備軍として従えていた。特に紡績業などの機械制生産では、他県からの労働力の流入が多かったが、マッチ工業などの資本の有機的構成の低い産業では、地元に滞留する貧民が重要な労働力であった。
農商務省商工局編「職工事情」のうち、「燐寸職工事情」によると大阪府下13のマッチ工場の明治33年9月から35年1月までの職工は、総計5,330人となっていて、年令別構成比は、10歳未満4%、14歳未満15%、20歳未満39%、20歳以上42%となっており、マッチ工場では学齢未満の児童が約20%を占めている。
明治5年「学制」が発布され、欧米の教育制度を模範とした全国民の就学を目標として小学校の普及発達を図るべく義務教育がはじまり、同19年の「小学校令」により義務教育4年制の制度が創設され、同40年義務教育6年制が成立した。
義務教育が軌道にやっと乗りだしたのは、明治20年頃で、不就学の子供など決して珍しいものではなかった。しかし、日露戦争を経過した明治40年代になると事情は異なってくる。就学率は、明治20年45%(男60%、女28%)から、明治45年(男98.8%、女97.6%)と向上している。義務教育はよほど進み、それに取り残された児童は、社会の底辺にあるこどもに限られてくる。
明治40年ごろ、貧民窟のこどもを対象とする学校が、夜学校で発足し、尋常小学校またはそれに類する各種学校である。教育の機会を与えるため、大阪市南部を中心に、市立の夜学校があいついだ。
1)明治時代
校 名 | 創立年 | 位 置 |
愛隣夜学校 | 明治29 | 北区上福島北3丁目 |
累徳夜学校 | 39 | 南区天王寺勝山通1丁目 |
鳴尾篤志学舎 | 40 | 北区曽根崎中1丁目 |
勝山夜学校 | 42 | 南区天王寺勝山通3丁目 |
心華小学校 | 42 | 北区北野茶屋町 |
愛染橋夜学校 | 42 | 南区愛染橋詰 |
有隣尋常小学校 | 44 | 南区木津北島2丁目4 |
徳風尋常小学校 | 44 | 南区東関屋町 |
@ 累徳夜学校
日露戦争のさなか、明治37年に浄土宗第6教区校付属の尼衆校出身の尼僧の協力のもとにつくられた累徳婦人会が設置した。同会は、日露戦争の出征軍人家族の訪問、傷病兵の慰問、戦死者の追悼などをおこなっていた。
たまたま戦争中市内の寺院に分宿していた予備兵が文字を知らず、家郷への音信すら僧侶に頼んでいるのを見て感ずるところがあり、貧民教育を企画して南区天王寺生玉前町光正寺に仮教室をおいて、付近の貧困児童を集めて修身、国語、算術などを教えた。38年4月に南区天王寺勝山通1丁目東立寺に移転し、累徳夜学校と称したが、39年4月私立累徳夜学校を許可された。修身・国語・算術、唱歌の4科目で、尋常小学校に準じた教育をおこない、女子のためには随意科として裁縫を加えた。
大正2年5月、竹原友三郎らの援助を受けて南区大道4丁目に移り、同年12月学則及び校名を改正して、私立累徳尋常小学校と称するようになった。
A 心華小学校
藤井素雲の設立。後援者は高倉藤平。長柄の貧民窟にできた学校。私立心華尋常小学校(北区北野茶屋町)は、心華婦人会の活動の一環として、貧困のため就学できない付近の貧民子弟を対象に、尋常小学校程度の学科を授けるため、43年6月開校した。45年4月には、裁縫専修科をおくほどであった。同校の修業年限は6カ年、毎週18時間で、簡易実用を主とした内容で夜間事業をおこなった。校内には浴室を設け、男女児童を隔日に入浴させた。このようにしてしだいに学校はその実をあげ、大正5年には簡易商業補修学校を附設した。これには尋常小学校卒業の男子だけを収容し、誠実勤勉な小売商人の養成をはかった。
貧民学校の代表例は、私立徳風尋常小学校と私立有隣尋常小学校であろう。この両校の校区は今宮、木津付近で貧民が多く、早くからマッチ工場で働いたり、放任されたままかえりみられなかった。難波署長天野時三郎は、これを憂えて土地の有力者である新田長次郎(新田帯皮製造所)と久保田権四郎(久保田鉄工所)らの協力をあおいだ。その結果、久保田は徳風尋常小学校を今宮広田町に、新田は有隣尋常小学校を木津北島町に開いた。開校は徳風が44年7月、有隣は同じく6月である。
これよりさき、40年1月府知事高崎親章は、郡区役所および小学校あてに、全国平均より低い府下の就学率を高めるため、簡易就学の方法を指示した。その方法は、年長児童のくりあげ卒業、年長児童の特別学級、夜間と日曜日の簡易教育の三つで、徳風、有隣をはじめ多くの私立小学校の採用したのは最後の方法であった。
B 有隣尋常小学校
普通民家3棟を借り、児童130人を2学級に編成して夜間に受業した。45年3月校舎を新築し、木津、西浜方面の児童を集めて、後には1,2年には昼間、3年以上には夜間受業をした。大正元年、校内に浴室を設け、毎週2回以上全員入浴させ、付近の父兄も無料で入浴させた。
費用出資者・・・・新田帯皮製造所(新田長次郎)
難波署長天野時三郎警視(後の大阪市社会部長)が企画
当初 午後7〜9時 夜間貧民教育で
C 徳風尋常小学校
欠食児童のため校内に無料食堂を開き、朝夕2回食事を支給している。大正5年9月から9年3月までに、この恩恵に浴した人員は延べ23,838人、延べ日数878日、米28石5斗にのぼった。同校では事務を巡査が兼務し、欠席児童の家を訪問しては通学を督励した。
費用出資者・・・・久保田鉄工所(久保田権四郎)
難波署長天野時三郎警視が企画
当初 午後7〜9時 夜間貧民教育
徳風保育所・徳風施薬院(施療施薬をおこなう)を併設
乳幼児、学童から成人までの総合施設として発足
D 愛染小学校