第1章 釜ヶ崎の歴史
第1節 釜ヶ崎変遷史
§3 釜ヶ崎騒動史
その後、新世界歓楽街、天王寺公園、美術館、植物園、ジャンジャン横丁、弓場、碁会所、ゼット・ゲーム等庶民の町が発展するに従って、さらに大阪人の郷愁そのものである通天閣の赤い灯に誘われるかの如く釜ヶ崎は急速に、着実に「ドヤ型スラム」を形成していく。紅灯の地飛田とも関連することはもちろん、この外、関西線、南海、阪堺、市電等の交通機関の発展に負う所も大であろう。大正6年に村島帰之の「ドン底生活」が出版された後、釜ヶ崎の住人が日本橋の米問屋に押しかけたことによって大阪の米騒動は口火を切ったと言われており、ドヤは50軒をこえていた。大阪においても米騒動以後、方面委員制度を採用するなど大正11年頃の大阪の社会事業は、常に全国水準を上回った黄金時代であった。
この後昭和を迎えるまでに大阪全市には労働者を止宿させる簡易宿が350軒もあり、人夫請負業、口入屋なども70軒を数え、1ヶ月の斡旋数2万人とも言われていた。一方労働者達は大盛メシ7銭をはじめ朝食10銭、昼食14銭というのが当時の生活であった。このように大正時代に釜ヶ崎は成長し、当時の大阪南に歓楽と貧困とが隣り合い縞模様のように通天閣を遠巻きにしていた。昭和に入ると旧市域の浪速区にはその影がうすらぎ、釜ヶ崎はいよいよ大型化する。やがて長町とか名護町という呼称は、人々の口から消えて「釜ヶ崎、飛田」という名の方がクローズアップされ、「長町から釜ヶ崎」という移動がほぼ完全になってくる。
さて金融・農業恐慌を経て日本は風雲急を告げ、やがて満州事変、2.26事件と続き、泥沼の太平洋戦争へと突入して行く。この暗い時代もドヤと人口は増えていくが昭和20年3月14日の焼夷弾により釜ヶ崎は焼野原と化す。敗戦後9月9日、市立今宮保護所が閉鎖され、梅田厚生館が開設される等あわただしい中にも、不死身のドヤ街は、戦前にも増した複雑な人間模様を内につつみこんで、ヤミ市場として力強く立ちあがった。廃墟の中にドヤがメシ屋とともにスラム企業の雄として根をはるのはこの時代である。次に朝鮮戦争を契機とする神武、岩戸景気を横目に見て、日本の高度経済成長の度合と密接に関係しながらドヤは150軒を越えた。しかし世間の関心や、為政者の顔は別の方向にむいていたのだ。
そして迎えた昭和36年8月1日夜からの釜ヶ崎事件は、4日間釜ヶ崎一帯を文字通りの暴力の街にした。西成警察署は暴徒の目標となり、東田町交番等2ヵ所は焼き払われ、その鎮圧に近畿の警官6,000余を投入した。戦後の暴動としては、まさに安保闘争時の国会デモ以来の事件であろう。そしてこの事件の中心である労働者(アンコ)達こそ、大阪港で、ビル建設場で、巨大企業の下請現場で、重労働や危険労働を強いられつつ、今日の繁栄を下支えしていることはあまりにも知られていないのである。
この事件で釜ヶ崎の名は日本中はもちろん、諸外国までも知られ、それだけ関心を持つ人が増えたのは事実である。しかし残念ながら興味本位の病理現象面のみが前面に打ち出され、釜ヶ崎ドヤ街の本質が、問題の焦点が十分に理解されていないのも事実である。
集団不法事件 | |||||
No | 発生年月日 | 時刻 | 原因 | ||
1 | 昭和36年8月1日 | 21:00 | 第1次釜ヶ崎暴動 | 交通事故の被害者(労務者)の取扱いに対する不満から | |
2 | 昭和38年5月17日 | 19:00 | 暴動事件発生 | (長雨による求人減から)長雨のためアブレが増加し、求人車に先を争って乗ったのを降車させたことから | |
3 | 昭和38年12月31日 | 7:00 | 第2次暴動事件発生 | (年末による求人減から)大晦日のため、求人が少なかったことに不満を持ち、通行中の車輌に投石したことから | |
4 | 昭和41年3月15日 | 18:00 | 暴動事件発生 | (酒店での労働者の無銭飲食から)酒屋の店員と労務者が酒代のことでけんかしたことから | |
5 | 昭和41年5月28日 | 23:00 | 暴動事件発生 | (火災現場へ消防車の到着が遅いということから) | |
6 | 昭和41年6月21日 | 20:00 | 暴動事件発生 | (パチンコ店の店員と労務者が玉が出ない、出たでけんかしたことから) | |
7 | 昭和41年8月26日 | 22:00 | 暴動事件発生 | (果物店でくさったスイカを売ったということから) | |
8 | 昭和42年6月2日 | 22:00 | 暴動事件発生 | (飲食店主と労務者が代金のことでけんかしたことから) | |
9 | 昭和44年4月27日 | 暴動事件発生 | (公園で観劇中の群衆に投ビンしたことから) | ||
10 | 昭和45年12月30日 | 6:30 | 暴動事件発生 | (年末による求人減から) | |
11 | 昭和46年5月25日 | 18:00 | 暴動事件発生 | (長雨による求人減から) | 以後、新左翼系グループが煽動する (11回以降) |
12 | 昭和46年6月13日 | 8:00 | 暴動事件発生 | (簡易宿所管理人の労働者に対する乱暴から) | |
13 | 昭和46年9月11日 | 20:40 | 暴動事件発生 | (果物店アルバイト店員の労働者に対する乱暴から) | |
14 | 昭和47年5月1日 | 17:40 | 暴動事件発生 | (愛隣メーデー行進中に逮捕された労働者の釈放をめぐって) | |
15 | 昭和47年5月28日 | 6:15 | 暴動事件発生 | (西成労働福祉センター就労あっせん現場での労働者と暴力手配師のトラブルから) 暴力手配師と過激派労務者とのトラブル |
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16 | 昭和47年6月23日 | 8:00 | 暴動事件発生 | (手配師から引っ越し作業という約束で紹介を受けたところ、競輪のノミ屋をさせられた。労働者と黒い手配師との衝突から) | |
17 | 昭和47年6月28日 | 夜 | 暴動事件発生 | (過激派学生、労務者の逮捕の抗議して) | |
18 | 昭和47年8月13日 | 夜 | 騒動事件発生 | (赤軍派主催の釜ヶ崎祭での過激派労働者の煽動から) | |
19 | 昭和47年9月4日 | 未明 | 爆破事件発生 | (浪速署水崎町派出所で) | |
20 | 昭和47年9月11日 | 騒動事件発生 | (過激派労務者集団「釜ヶ崎共闘会議」の指揮で新世界、住宅街までゲリラ活動 | ||
21 | 昭和47年10月10日 | 早朝 | 騒動事件発生 | (釜ヶ崎共闘会議と手配師グループが武装トラブル) | |
22 | 昭和47年10月15日 | 夜 | 騒動事件発生 | (釜ヶ崎共闘会議の振るまい酒に酔って) | |
昭和47年11月15日 | 午後 | 茨木で(土建会社) | (茨木まで“メシ代を出せ、ドヤ代を出せ”と釜ヶ崎共闘、押しかけ就労) | ||
23 | 昭和47年12月26日 | 19:30 | 爆破事件発生 | (あいりん綜合センター3階便所) |
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