新今宮小中学校が廃校になっても
関西キリスト教都市産業間題協議会 小柳伸顕
1.釜ケ崎とタイ・スラムの校長先生
もう6〜7年前になりますが、タイ人のプラテープさんが、釜ケ崎を訪問したことがあります。
地域を一巡して、開口一番話した言葉が大変印象的でした。いまでも何かの折りにふと思い出します。
「ここは、クロントイより難しいですね」
プラテープさんは、タイ国の首都バンコクにある最大のスラム・クロントイの小学校の若い校長さんです。人口400万の約4分の1はスラムに住むというバンコクでも特別規模の大きいのがクロントイスラムです。釜ケ崎の比ではありません。近年、港の再開発で規模が縮小されているとは言え、その広さは優に釜ケ崎の5〜6倍はあるでしょう。 プラテープさんは、そこで生れ、育ち、生活し、スラムを変革しようと今日まで闘ってきた人です。
でも「スラムの天使」と言われるように大変小柄な女性で、どこにあのエネルギーがかくされているのかと思います。
プラテープさんは、スラムを変革するのはまずはスラムの明日を担う子どもたちだと考えました。そこで彼女が最初に手をつけたのは子どもたちの教育でした。
スラムの中に学校などありません。まず自分の家を開放して子どもたちの教育を始めました。やがて自分も夜学校で学び教師の資格をとった人です。 自宅で始めた学校は除々に大きくなり、やがて私立の小学校にまで発展しました。
その努力が認められて、アジアのノーベル賞と言われるフィリピンの大統領マグサイサイを記念するマグサイサィ賞をもらっています。スラムの小学校は、バンコク市も認めるところとなり、バ ンコク市立の小学校になり、今はそこの校長さんを勤めています。
小学校をそこまで育てたのはプラテープさんの努力もありますが、それ以上にスラムの人々がプラテープさんの意図を理解し協力したからです。 その意味で、さきにあげたプラテープさんの一言は、決して学者のことばではなく、スラムを人間らしく生活できる場にしようと努力している人のことばです。それだけに重みがあります。
プラテープさんは、この言葉のあとにこんな意味のことを言いました。 「クロントイと比較するとき、釜ケ崎は道もきれいです。建物も立派です。いろいろな施設や行政機関も整っています。しかし、肝心の問題は、それらによって深くおおい隠されているように思います。その点、クロントイはまだ問題や矛盾が直接みえます」
もちろん、プラテープさんは、わたしたちの釜ケ崎についての種々な説明の後で、こう話したのではなく、いわゆる彼女の直感で言ったことと思います。
クロントイスラムと釜ケ崎ではいろいろな共通点もあります。住人たちの仕事は、港湾労働、建設、清掃関係。暴力団もいろいろ活動しているようです。治安の目も光っています。5人以上で集会などすることが禁じられています。そんな活動をすれば共産主義者と官憲からみなされます。プラテープさんの活動もしばしば共産主義者の運動とみられ、弾圧も加えられました。
でも大きな違いは、スラムの住人が家族持ちだと言うことです。スラムの中を歩くとあちこちの家から子どもたちの顔がのぞいています。しかも、その顔が明るいのです。しかし、建物は実に粗未です。
バラック小屋と言ったところで、いま日本国内では見出すことが出来ません。強いてあげれば、20年前の釜ケ崎、それもいま労働福祉センターが建っているあたりに似ています(参照雑誌「少年補導」1960年10月号、「同上」1965年2月号の子どものグラビヤ)。 表面だけが整い、統計や数字だけが重んぜられると、事柄の本質は隠くされていくようです。
2.200人の不就学児たち
プラテープさんの指摘ではありませんが、「おおい隠され、難しくなっている」問題の一つに釜ケ崎の子どもたちの問題があります。
今年3月、釜ケ崎の不就学児のために1962年建てられた市立新今宮小中学校は、その22年の歴史をおえ廃校になりました。理由は、今春最後の中学卒業生3人が卒業して、児童・生徒数がゼロになったからです。 新聞は、そのことを写真入りで報道しました。何人かの人々は、これを読んで、ああ、釜ケ崎の子どもたちの問題もこれで解決したと思ったかも知れません。しかし、それは誤解です。新今宮小中学校の廃校は即これから釜ケ崎では一人の不就学児も生れて来ないという保証ではありません。ましてや釜ケ崎の子どもの問題が解決したり、なくなったことを意味するものではありません。
たしかに次に紹介するような事例はなくなりました。少々長くなりますが、1960年初頭の釜ケ崎にはこんな事例があったのでここに引用します。
「わたし達は案内されて、ある一軒の”ドヤ”を訪れた。
ベニヤの安っぼい扉を押して土間に立つと、天井の低い薄暗いジメジメした”たたき”の通路をはさんで、西側にマッチ箱のような区面がならんでいる。一つの区切は、およそ四畳半位。廊下の入り口には障子もない。室内はまる見えだ。
だが、この四畳半位の室が、また風変りな作りになっている。ちょっと農家の”かいこ棚”そっくりに、室の両側に二段ベットが合計四ッある。
その一つは、広さ畳一枚半位。寝台の上では、首をまげて座っているのがやっとといった状態である。
汽車の三等寝台より、一寸広いだけの空間に、なんと親子三人が生活していた。
父親も母親も、病弱な身体にむちうって日雇いに出ては辛うじて息をつないでいるという。 今年七つになるという一入息子は、むくんだような顔をして、学校へも行かず、外へもあまり出ずに一人ぼっちで一日中この狭いベットの上で、ごろごろしている。 この子供にとって学校というものは、どこかの世界の”オトギ話”にしかすぎないであろう。ただ、親とともに生きているというだけの毎日、それも日に日に肉体と精神をむしばんで行くような生活、人間としてのすくいは、どこにも見られない。
こんな子どもたちが、この同じ”ドヤ”にも十何人といる。学校へまともにいっているのは、ただの二人だけという話。
もっとも元気な仲間は、ベットでゴロゴロしないで、あちらの路地裏、こちらの物置で、小悪党ぶりを発揮して、子どもらしいエネルギーを、なげかわしい方向に発散している」(傍線は引用者)
これは、1959年夏から60年にかけて実施された 大阪社会学研究所の釜ケ崎実態調査に参加した土田英雄氏の報告の一部です(参照「少年補導」1960年10月号)。
これを裏付けるような天王寺補導センターの実態調査もあります。
天王寺補導センターが、1960年1月〜6月まで、浪速区の馬淵附近、西成区の東萩・東西入船、(現在の萩ノ茶屋二丁目、三丁目)、東田(現在の太子)附近の街頭補導で発見した不就学児(含む長欠児、未就学児)は累計100人にものぼります。
この実態調査の目的は、「不就学児をなくすることが少年犯罪をなくすることの有力な対策」にありました。少年非行対策としての実態調査であって、子どもたちの教育権の保障のためでなかったことは、この調査が教育委員会の手ではなく、警察の手で行われたことが物語っています(「少年補導」1960年10月号)。
これは、ある意味で1962年、すなわち1961年の釜ケ崎第一次暴動を契機として創設された新今宮小中学校の前身、あいりん小中学校の性格とも深くかかわっていると言えないでしょうか。
1961年8月1日から一週間続いた暴動後200人の不就学児が発見されたと言われています。「不就学児−少年犯罪−犯罪防止のため就学−あいりん小中学校の創設」だとすれば、不就学の子どもたちがあまりにもかわいそうです。 不就学児が再生産されていった背後には、教育行政の不在があります。
戸籍・住民登録のはっきりしない子どもたちは当時、就学を拒否されていました。戸籍にせよ、住民登録にせよ、子ども自身には責任がありません。むしろ子どもの教育権を保障する側にこそ責任があったのです。
いまひとつは、釜ケ崎の子どもたちが登校したとき、学校内で起きた差別です。「臭い」「きたない」といった対応です。これではせっかく登校した子どもたちも再度、不就学へ追いやられてしまいます。 教育行政不在が沢山の不就学児を生み出し、その非行対策(一種の治安対策)としてあいりん小中学校が出来たという見方も必ずしも誤りとは言えません。 釜ケ崎の子どもたちに対する教育行政があり、学校内差別がなければ、それぞれの校区の小中学校が、これらの子どもたちを受け入れたはずです。
たしかにこれは、今日だから言える結果論ですが、あいりん小中学校の誕生と存在は、釜ケ崎における教育差別でした。その証拠は、大阪市教育委員会が市立学校しかも義務教育の市立学校をつくりながら、10年間も独立校舎をあいりん小中学校のために建設しなかったことです。独立校舎を建設なかった背後には、子どもの教育権よりも非行対策の一環としての「教育」の顔がみます。
ただ、一言つけ加えますと、初期のあいりん小中学校の教師たちは、教育委員会の「対策としての教育」とは別に、子どもたちの教育権のために献身的な努力をおしみませんでした。決して「非行対策」のために働いたのではありません。その点は当時の教育を語るあいりん小中学校の年報「あいりんの教育」が雄弁に物語っています。 そのような教師たちとともに子どもたちがあいりん小中学校で学んだことも否定出来ません。
次の表は、そこに在籍した子どもたちの数です。
年度 小学校 中学校 合計 1962 56 25 81 63 95 48 143 64 94 43 137 65 112 40 152 66 114 35 149 67 88 27 115 68 75 32 107 69 73 37 110 70 58 34 92 71 49 21 70 72 46 17 63
1973年には、やっと独立校合が完成して、校名もあいりん小中学校から新今宮小中学校に変わりました。学校創立11年目の出来事です。
なお、1962年から1983年までの卒業生は、小学校177名、中学校150名計327名でした。(統計は1984年3月、新今宮小中学校が廃校に際し発刊した「あいりんの教育22年」からの引用)
3、日雇い労働は子どもの生活を左右する。
しかし、釜ケ崎の子どもの問題は決して就学問題に終始しません。むしろ、就学を不可能にしていることの方が大きな要件です。
次に紹介するのは、釜ケ崎の子どもがかかえている課題の一つです。この子どもがかかえている問題は、決して学校教育の力だけでは解決できません。そこに釜ケ崎の子どもの問題の難しさがあります。
この事例は、1972年の出来事です。
「A子(12歳)、B男(8歳)、C男(7歳)は、日雇労働者の父親と暮らしている。
父母は、10年前にこの地区に住むようになり、B男とC男は、この地区で生まれた。父母はよくけんかし、ある時期は、父がアルコール依存症として精神科病院に入院し、ある時期は母が家出するという不安定な夫婦であった。
1970年にな ってついに母は家出し、別の男と同棲するようになった。それ以来父は、三人の子どもを抱え、生活扶助を受給しながら暮らしていた。
児童福祉司が最初に訪問した時は、3人とも眠っており、学校に行っていなかった。老朽アパートの一室六畳で、部屋は湿気がひどくべったりとしている。数回訪問するうちに、やっと父と会うことが出来た。A子は、あいりん小学校に就学したが、長欠になっており、B男は小学校一年に就学しなければならないが、手続きができていない。C男は就学前であるが、保育所に入所していない。
A子の長欠の原因は、弟たちの世話のためである。 よく話を聞いてみると、どの子どももいまだ出生届が提出されていない。夫婦も内縁関係で届出がされていない。
最初ぶっきらぼうであった父も、しだいに打ちどけて話すようになり、子どもの戸籍のこと、就学のこと、保育所入所のことなどを話し合うようになって、一年がかりでその問題は解決した。」
この事例は、釜ケ崎地区担当の児童相談所の児童福祉司からの報書です。この報告は、児童福祉司をはじめ地域の子ども関係者が、釜ケ崎の子どもの遊びや生活保障のために「あいりん子ども研究会」を作り、地域の子どもの実態調査をした報告書「あいりんの子どもたち−子どもセンター建設にむけて」(1974年1月刊)の一節です。
幸いこの子どもたちの場合、児童福祉司の努力で、戸籍、就学上の問題は全て解決しました。しかし、父親が働きに出ると次の問題が起って来ます。
朝夕、弟を保育所に誰が送り迎えに行くか。父親が、オールナイトの仕事のときは、子ども三人でどのように暮らすか。これらは、戸籍、就学の保障とは別に未解決の問題です。 子どもの就学保障は、釜ケ崎では子どもの生活保障には直結しないのです。
父子家庭の場合、父親が日雇労働者であることから来る子どもたちの生活上の不安定は、決して父親の個人的な努力や子どもたちの努力では解決されるものではありません。 日雇労働の労働条件は、朝就労し、現場で仕事を始めるまで不確定です。残業になったり、あるいはオールナイトになることなどは朝の就労できまります。子どもの生活を優先させると就労の条件は著しく悪くなります。それは、また経済的な急迫を親子に強います。労働条件を優先させると、結局そのしわよせは子どもたちに来ます。このしわよせは、また子どもたちの長欠や不就学を結果します。
ここには、不就学‐少年非行‐犯罪対策としての就学とは全く別の問題があります。しかも、親たちの日雇労働に由来する子どもの生活の不安定さは、この事例の10年後の今日もなお未解決です。少年非行が大声で言われる陰で忘れられています。否、あえて無視されているとさえ言えないでしょうか。
この子どもたちの最近の状況については、新今宮小中学校前ケースワーカー岡繁樹さんが、「釜ケ崎のこどもの健全育成−現状と課題」(1980年参照「あいりんの教育22年」)で紹介しています。
これらの記録を読むとむしろ、児童福祉司の紹介した事例より解決が一段と困難になっていることを知らされます。あらためて、釜ケ崎の子どもの生活保障とは何かと考えさせられます。
4、遊び場のない子どもたち。
そんな事件が、最近また起きました。1984年6月26日の朝刊(朝日)は、こんな見出しで事件を報じました。
「カギッ子二人踏切死、父子家庭、身元5時問わからず−−関西線遮断機くぐり抜け」。
6月25日午後、大阪天王寺公園近くの踏切で、二人の少年が電車にはねとばされて即死しました。二人とも釜ケ崎を校下にもつ萩之茶屋小学校の子どもです。一人は片山悟君小学校一年生。もう一人は神保裕志君小学校四年生です。2人は、24日の父親参加日の代休日の25日、近くの天王寺公園に遊びに行き、その帰途事故にあったのです。
事故後、警察は5台の広報車を走らせて、身元確認を急ぎました。2人の身元が判ったのは、事件5時間後の午後9時でした。それは、片山君も神保君も父子家庭で、父親はともに仕事に出かけていて、夜帰宅して子どもがいないので捜しに行き、はじめて事件を知ったのです。
この事件は、いろいろな要素が何重にもからまっていますので、単純化できません。しかし、あえて問題を整理し、その一つをとり出すとすれば、子どもたちの放課後、それも不在家庭の子どもたちの生活保障です。
生活保障の一つに子どもたちの遊びをあげることが出来ます。 釜ケ崎の中に子どもの遊びを保障する場はあるでしょうか。規則の上では、釜ケ崎の中に四つの児童公園があります。
釜ケ崎の北から花園公園、萩之茶屋北公園、同中公園、同南公園別名三角公園です。しかし、そこでは子どもたちは、ほとんど遊んでいません。花園公園と北公園では、まず見かけません。理由はあります。両公園 とも三メートル近くの金網がたてめぐらされ、出入口の扉には施錠錠があります。とくに花園公園は、子どもたちのために作られたように見えますが、その設計はよく見ますと野宿労働者対策つまり労働者が公園内で寝起きなどできないようにコンクリート、大きな木、石がふんだんに使われています。遊ぶ空間などほとんどありません。また一ケ所だけ開かれた扉にも鎖がつけられ、二〜三○センチ以上開かないように工夫されています。その横には、警察と町内会の使用上の注意があります。
子どもたちが、公園から逃げ出す方が、自然ですし人間らしいです。 ですから、子どもたちは別の公園へ行こうと思いますが、中公園は、ほとんど労働者が野営に使っています。南公園即三角公園は、大人たちの遊び場で、子どもたちが入って遊べません。いきおい球技のためには他の広い公園ヘ、また自由に遊びたくて天王寺公園へ行くことになります。
ちなみに釜ケ崎における一人あたりの公園面積は、0.20平方メートルで、大阪市平均1.01平方メートルの5分の1です。
大阪市は、釜ケ崎に住む人間を−それは子どもも含めて−大阪市民の5分の1人としか認めていないということです。 もちろんこれだけ広場がない上に、公設の児童館もありません。子どもへのサービスと言えば、西成市民館の行う子ども会活動だけです。三つある学童保育所(子どもの家、こどもの里、山王青少年センター)はすべて民間の努力で維持運営されています。行政からの補助金は、年間100万円にもみたないのです。保育所の数(公立三ケ所、私立四ケ所とあおぞら保育)に比べるとき、いわゆる児童生徒に対する行政のサービスの貧しさが目だちます。 このような遊びに対する保障の貧しさが、今回の手どもたちの死の遠い原因の一つであると言っても過言ではありません。
子どもたちの生活の保障は何も遊びに限りません。生きていくこと全体に対する保障で、遊びや就学もその一要素と言うことができます。
5、むすびにかえて
新今宮小中学校の廃校といった現象だけを見ていますと、何か物事が解決していっているような錯覚をおぼえます。しかし、釜ケ崎で日々起きる子どもたちに関する事件を追っていきますと、状況は日々悪化していると言う方が正しいようです。
不就学児も発見されますし、長欠児もあとを断ちません。 次の例などは、その典型ではないでしょうか。
釜ケ崎の近くの公園でテント生活をしている父子が発見されました。子どもは、民間の児童館職員の熱意で、その職員の家から学校へ行かせました。ところが、子どもは学校でいじめられ登校拒否です。その職員の熱意はむくわれません。それだけではありません。公的機関即行政機関は、その熱意をさかなでするような働きかけを父子にするのです。父子を分離して、「子どもは施設に入れる」と言うのです。
これでは、20年前に逆もどりしたとさえ言えます。しかも、そのような父子を分離しようと一番熱心なのは、驚くではありませんか、何と大阪市公園局なのです。公園局の目的は唯一つです。公園をきれいにしたい。まさにこの父子は「クリーン作戦」の対象なのです。
行政機関にとってこの親子は、人間ではありません。「モノ」なのです。この親子がどう生きて行くかよりも、公園が「クリーン」になることが緊急の課題なのです。
この話を聞きながら、かつてといっても25年前ですが、不就学児が警察の手で調査され非行対策として「処理」(当時のクリーン作戦)されたことを思い出しました。いまは同じことが、もっと巧妙に大阪市公園局の手で行われているのです。恐しい時代と言わねばなりません。
あらためて、ブラテープさんの言う「ここは、クロントイより難しいですね」という言葉をかみしめています。(1984・7・25)