釜ケ崎略史
かつて釜ケ崎は、なにわ江の渚がつづく、「難波・名呉の浜」と呼ぱれた漁村であった。また、江戸時代の今宮村一帯は、青々としたそ菜畑がひろがる、のどかな農村地帯であった。
紀州と大阪を結ぶ紀州街道沿いには、1615年(元和五年)に旅人宿許可を得て、はたごが軒を連ねた。1633年には力役者用木賃宿許可(力役者とは、油しぼりや、米つき、酒造りなどに従事する農村からの出稼者)が、更に、1865年には、長町に無宿人宿泊許可が与えられた。
江戸末期には、封建支配体制の動揺・弱体化に伴って農村や下級式士が、江戸や大阪などの都市に流入して来た。こうした状況のもとで、長町には大量の「無宿人」が集中的に居住しはじめた。
明治期に入って、資本主義的生産様式が導入され、強行的富国強兵政策をテコとして、侵略型の帝国主義国家が形成され肥大化していった。
それまでの封建的身分制度にしぱられたままでは、自由に使える労働力は調達できないため、職業選択の「自由」化をテコとして自由に全国どこへでも移動できる流動的労働者を創出しようとした。その結果、流動的、低コストの労働力商品として、土地をうぱわれた農民たちが都市に流入して来た。
その頃の長町には、この都市に流入して来た労働者が多数居住し、安価に使えたために、周辺にはマッチ工場などがつくられ、そこでは「職工事情」にも記されている様に、前期的で過酷、劣悪な労働者の生活がくりひろげられていた。また、仲仕、行商、くず拾いなどの雑業に従事する者も多かった。
金もなく、仕事にもアブレて長町の安宿にもとまれない人々は、更に南の水崎町(その頃はまだ湿地帯)にバラックをたてて居住した。こうして長町は更に長くのびてゆく。
1889(明治21)年、長町が衛生的にも、治安面でも、ますます劣悪になってゆくのを恐れた大阪市は、市内での木賃宿の営業を禁止した。(この頃は、現在の浪速警察の北、高速道路あたりまでが大阪市内)
1898(明治30)年には、関西線の内側までが大阪市になり、木賃宿は更に南へ、今宮郡大字釜ケ崎字釜ケ崎へ移っていった。
1904(明治36)年、現在の新世界のところで第1回内国勧業博覧会が開催されることになった。これを契機に長町スラムが撤去されることになるのだが、その 理由としてば、堺筋道路の拡張、博覧会会場に通じる沿道の整理のためとされていたが、本当は、天皇が通る沿道に長町のようなきたないスラムがあってはおそれ多いということで、強制的に撤去されたのである。
その結果、長町地区の住民は、その南の今宮村字釜ケ崎に移り住むこととなり、ここから、スラムとしての釜ケ崎の歴史が始まるのである。 おりしも1894年には、日本帝国主義は清国への侵略戦争に勝利し、朝鮮半島における権益を手中におさめ、引き続くロシアとの帝国主義戦争へとつき進もうとしている時期であった。
急速に発達した、にわかづくりの帝国主義は、その基礎となるぺき労働力を貧農階層や朝鮮人労働者に依存していたのだが、釜ケ崎は、そのような仲間をむかえ入れて、本格的なスラムを形成してゆく。
この帝国主義化の過程で、軍需産集である鉄鋼、造船を始めとして、建築土木産業も肥大化してゆく。
朝鮮を植民地化することにより、朝鮮人民を強制徴用し、タコ部屋に監禁して鉄道建設や、軍事施設へ動員し、その成果として、資本は急激な蓄積を押し進めて行った。
1918(大正7)年に富山の一漁村で勃発した米騒動は全国に波及したが、大阪での暴動は、釜ケ崎の木賃宿住人2,700人をはじめとする、今宮村住民の蜂起から始まっている。
戦後、アメリカ帝国主義の軍事的、経済的テコ入れによる日本資本主義の復興過程にみあって、釜ケ崎も「復興」し、変わってゆく。
戦争直後、日本資本主義は生産設備の壊滅的打撃と、原材料、資材の絶対的不足によって、再生産不能の状態にあった。しかし、1950年に始まる朝鮮戦争において、日本は、アメリカ帝国主義侵略軍の兵站基地となり、いわゆる「特需ブーム」が起こり、それにつれて、釜ケ崎も労働者の街として再生する。
そして、その後、池田内閣の高度経済成長政策から、東京オリンピックを経て、万博にいたるまでの、いわゆる日本資本主義の強蓄積過程は、必然的に急激な労働力の需要をもたらし、その結果として、単身労働者密集居住地区としての釜ケ崎が成立する。農民、炭鉱労働者、自営業者、等々が、生業をうばわれ、生産過程より駆逐されて、釜へと流入してきた。
現在、このせまい釜ケ崎地区(○・62平方キロメートル)に、おおよそ、4万1千人の人間が居住し、そのうち日雇労働者は約2万人と推測される。
この街の歴史は、日本資本主義の歴史の陰の部分とも言えるのだ。