関連新聞記事紹介―2
浮浪者ご難続出 深夜寝込み襲われ
7件発生/2人、が殴られ死ぬ ・中区周辺 神奈川新聞・1983.2.8.
国鉄、関内駅北口のマリナード地下街通路が浮浪者のたまり場になり問題となっているが、先月中旬から同地下街や中区内の公園などで、浮浪者に対する暴行、傷害事件が相次いで7件も発生。2人が死亡した。
うち4件は若い男のクループによる犯行で、被害者はいずれも酒を飲んだり寝込んでいるとこを突然襲われ、殴るけるの暴行を受けている。死者が出る悪質な事件に発展したとあって伊勢佐木、加賀町両署は同一犯人グループの仕業ではないかとみて捜査している、
学生風グループの犯行?
最初に事件が起きたのは先月12日夜。福島県生まれ、住所不定、無職Aさん(57)がマリナード街通路で、仲間3人と酒を飲んでいたところ、学生服を着た5人組の若い男がが「一杯くれないか」と言って近づき、いきなり殴るけるの暴行を加えた。Aさんは頭などに、一週間のけがを負った。
この後、2、3件の傷害事件が続き、今月4日には、中区長者町5丁目の銀行夜間金庫前で、鈍器のようなもので頭を殴られた浮浪者が保護され、病院に運ばれたが間もなく死亡した。
5日夜には、山下公園の植え込みの中で、青森県生まれ、住所不定、無職須藤泰造さん、(60)が死体で発見された。全身に暴行を受けており、ロッ骨が4本も折られていた。須藤さんは4年前から同公園に”宿泊”する常連だった。
加賀町、伊勢佐木両署では横浜スタジアムやマリナード地下街での一連の事件を同じ学生ふうのグループによる犯行ではないかとみて捜査を進めているが、寝込みや泥酔状態で襲われていることから、犯人像がもう一つはっきりしていない。
県警などの調べでは、同区内の浮浪者は約100人。大半は生活保護など福祉による救済を拒絶、”自由”に生きる人々。中福祉事務所によると、生活保護法の適用は、あくまで当事者の申請が前提、浮浪者は同法の適用外にあるわけだ。それでも年2−3回、美化運動の一環として区役所で公園などをパトロールする際、福祉事務所員も同行して、浮浪者に生活保護申請を説得して回っているが反応はゼロ。違法行為をしているわけではないから強制排除もできず、お手上げの状態。
しかし傷害事件の続発にショックを受けた同区では近く、福祉事務所、民政局、緑政局、警察など関係機関を集め浮浪者対策会議を開く予定。 (写真)浮浪者がいっぱいの地下通路=マリナード地下街で
横浜の日雇労働者虐殺をめぐり
支配構造のあらわれ 1983.4.4.解放新聞第1115号「東西南北´83」
ファシズムの足音を思わせ
3月12日、大阪の部落解放センターで「横浜の日雇労働者差別ー虐殺糾弾、少年らを虐殺にかりたてる時代を撃つ3・12討論集会」がひらかれ、252人が参加した。これは、釜ヶ崎日雇労働組合、争議団が主催したもの。
集会での基調報告として、「少年らは、『風太郎狩り(ぷうたろうがり)』といって野宿者をさがしまわり、『町を汚しているからきれいにした』『なぜこんをことで逮捕されるのか』と主張している。虐殺された『浮浪者』とは、不況のなかで、仕事にアブれた日雇労働者であり、『弱者』切捨ての犠牲にされた病弱者、障害者、高年齢者である。新聞、テレビなとは、『浮浪者・浮浪者』とかきたて、奇異の念、差別を煽っている。なぜ凍てつく野外で寝ざるを得ないかの背景、本質をあいまいにしている。
少年らの『犯行』は、受験戦争のなかの切捨て、低学力、家庭破壊などの被害者が、『生産に役立たない者は死ね』という階級支配の鉄則を実行し、団結すべき民衆を分断し、本当の敵を見うしなわせる権力の手先に転落し、加害者となっている。
これはナチスかユダヤ人の大量虐殺に先がけての、『浮浪者』『精神』病者狩りや、日本の関東大震災の朝鮮人大虐殺にみられるように、ファシズムの予兆であり、首切り、福祉切捨て、軍事拡大の中曽根政権の支配構造のあらわれといえる。 差別と抑圧に苦しむ底辺の民衆こそ、敵にからめとられる少年たちのエネルギーを、奪い返すことができるのだ」との趣旨がのべられた。
大阪でも1/3以上が被害に
報告、意見発表のなかで「大阪の梅田、ナンバの地下街に野宿する58人に面接調査したが、22人、38%が暴行をうけ、中学生・高校生から殴られたり、毛布に火をつけられたりした、という。大阪市は、住居にしているダンボールに”3月15五日までにこの物件を処分する”という通告の張紙をして廻っている」。
横浜現地では『思いやりをもて』というお説教と学校の生徒管理が強化され、”環境美化“の名で青カン(野宿)排除がおこなわれている、との報告。
大阪釜ヶ崎では、不況のため工事がなく、就労率がひくくなり、市教組は主任手当の拠出分から、「あいりん地区の緊急教育援助資金3万円」を設けた、との報告もされた。
対行政闘争を全体で確認
また、「”浅草の7分の1の命の事件”と同じ権力犯罪」(西岡智矢田教育共闘議長)、「高校生のなかに校庭の外の小屋に住む日雇労働者に砂をかけ乱暴したことがある」(高校教諭)などの意見も出された。
集会では
@高齢者、障害者への軽労働のあっせん
A簡易宿泊所を居住と認め生活保護の適用を
B日雇健康保険の廃止反対、
などを行政側につきつけること決めた。(Ku)
浮浪者襲撃 8年前から
新たに少女ら60人自供
横浜・スリル満点、面白かった 1983.5.8.朝日新聞
3ヶ月前に横浜で、子どもたちによる浮浪者連続襲撃・殺人事件が起きたが、神奈川県警の7日までの調べで、浮浪者襲撃は実は、少なくとも8年前、昭和50年ころに始まり、その後も小学生、中学生らの間でずっと続けられていたことが明らかになった。同県警はすでに、浮浪者を襲ったとみられる少年、百数十人から事情を聴いており、このうち女子を含む60人近くが、「襲ったことがある」と認めている。先の事件では、襲撃した、子どもたちの家庭環境なとに問題がある、との見方が多かったが、事件が新たに大きく広がったことで、改めて、子どもたちがなぜ襲ったのか、その土壌、背景が問われるだろう。
刑事事件の立証は無理
警察の調べに対して、過去の浮浪者襲撃を認めているのは、横浜市中心部にある中、南、西、保土ヶ谷の4区内の、女子数人を含む未成年者。いま公立中学の生徒から、すでに大学生の者まで、年齢の幅は広い。
確認された範囲では、襲撃は50年ごろに始まった。いくつかの非行グループが「自然発生的」に浮浪者を襲った。グループ相互に連絡はなく「同時多発型」たったらしい。少年の中には、「小学校5、6年生のころから石を投げつけたりしていた」と話す者もいる。 襲撃は、石を投げつける、寝ているところを踏みつける、けって歩く、といった形をとった。しかし、被害を受けた浮浪者からの届けはなく、襲われているのを見かけたはずの大人からの通報も、記録されていない。同県警は、襲撃の日時、場所、被害者が特定できないため、刑事事件にはできない、とみている。
子どもたちは当時から、襲撃を「浮浪者狩り」「こじき狩り」などと呼んでおり、襲撃に出かける時は、「(浮浪者を)タコろう(殴ってタコのようにグニャグニャにする。という意味)」など誘い合っていた、という。 襲撃はほとんどの場合、グループの仲間だけの「遊び」として行われていたが、メンバーではないのに盛り場で遊んでいて誘われ、加わった少年もいた。
55年ころから約2年間、浮浪者襲撃をしていたあるグループは、当時の中学校在校生、卒業生6,7人がメンバ−。繁華街・伊勢佐木町のゲ−ム一センターなどに集まっては連れ立って出発、国鉄関内駅地下街や横浜球場周辺などで、寝ている浮浪者を次々と踏みつけながら走り抜ける、といった「遊び」を繰り返していた。
動機について、大半の子どもたちは「スリルがあっておもしろい」と答えた。少年らは調べに対し、「石を投げつけても、たいてい、浮浪者は反撃して来なかった」「反撃されたこともあったが、それもおもしろかった」などと話しているという。
浮浪者連続襲撃事件
横浜市中区山下公園などで、今年1月初めから2月初めにかけて、夜間、浮浪者が子どもたちの集団に襲われる事件がたて続けに8件起き、3人が死亡、13人がけがをした。2月11日から12日にかけて、犯行グループの同市立中学2、3年生ら少年10人が逮捕された。10人はすでに全国の少年院、教護院に収容されているが、殺人事件2件が未解決のまま残り、神奈川県警は、なお捜査を続けている。
(写真)連続襲撃事件から3ヶ月、事件後一時姿を消していた”浮浪者”は再び戻ってきたが・・・=横浜市中区の国鉄関内駅地下街で
非行へのエネルギーを解放へ
横浜・日雇労働者虐殺糾弾討論集会
抑圧される者の団結 求めるための第一歩 1983.3.20.社会タイムス
【大阪】管理と差別、荒れた社会の矛盾を一身に受けた子供たちを、弱肉強食の論理がむしはんでいるときにおこった横浜での日雇い労働者への虐殺。
3月12日、大阪の芦原橋・部落解放センターで「少年らを虐殺にかりたてる時代を撃つ」と題した討論集会が釜日労争議団の主催で行われた。 問題の深刻さを反映して、この集会には日雇い労働者、教育労働者、車イスの障害者などや市民運動の人びとをふくめて、多くの参加があった。
この日配られた資料の中には釜日労が大阪の難波、梅田、天王寺などの地下街で行った「アオカン者」の調査結果があきらかにされたが、具体的な数字をあげたこの報告によって、労働者襲撃が決して一部のものではなく、それをおこす社会総体が存任していることを示した。報告を抜すいして紹介すると
@中学生ぐらいの4人のグループが、こじき、こじきと、言ってレンガや石をぶっけた
A二、三人の中学生がパチンコの玉を投げる。見ていて誰も止めない(70歳・女)
B中津の方で自転車にのってきた中学生3人に殴られた。一ヶ月ぐらい前に、野田のえびす町では小学校5、6年生に、こじきが来た、いじめてやろう、と言って石を投げつけられた。パトカーや自転車の警官に言ってもとり合ってくれない(45歳ぐらい・男)
D友人らが7人ぐらいで寝ていたら、中学生が10人以上来て全員殴られた。日本橋でやられた人が入院したと聞いている(82年10月)ー。
事件のあった寿の仲間から事実経過が報告されたが「横浜というところは全国でも非行の少ないところ。校内での管理の強化が外に出てしまった」という点は、弱いものを求めてさまよう”風太郎狩り”と少年たちが呼んだことの本質をものがたっているようだ。
つづいて釜日労の仲間から「虐殺にかりたてる社会状況全般を撃つ、差別され、抑圧されるものどおしが手をたずさえて、団結の中で、新たな価値観、人間関係をかくとくし、自信を持って未来社会を提起しよう。魅力ある運動によって、ハケ口を求め、敵にからめとられようとしている少年たちをわれわれの側にうばい返すことができる」との基調報告を行った。
西岡氏は「日雇い労働者の襲撃は許しがたいことである。日本の労働運動は、国民春闘といいつつ下層労働者を切りすてていた。差別される民こそ、社会を確実に変革することのできる、選ばれた民だ。冷えた社会に『熱と光を」子供たちの非行へのエネルギーを解放へのエネルギーに』と訴えた。
彫刻家であり、西宮西高の定時制の教師でもある金城氏は、沖縄人としての視点から国家行事とともに起こった差別事件、1903年の勧業博での人類館事件を例にし差別とファシズムが一体であること、1980年に沖縄で方言論争がおこったことにふれ、「標準語を使え」ということによって個有の文化を奪っていく国家、それを守る部分へのアカ狩り的差別が行われる。ヤマトで起こった沖縄出身者の少年をナイフで刺した事件、沖縄出身者同士がその一人をリンチにして殺した事件は、いずれも自らの方言によってものを言えずに苦しい日々を送っていた、差別された日常がその事件に至った基底に存在していたことが述べられた。
全障連からは、生産性第一の社会の中にあって障害者の居きる条件がますます狭められてきていること、横浜の事件は同じマナイタの上に乗せられたようで背すじが寒くなる、と障害者解放運動の立場から差別に対して闘うことがのべられた。
会場からの参加者による発言は在日朝鮮人の高校の先生、矢田の解放塾、シノギ(路上強盗)にあった労働者など、発言があいついだ。 討論全体としては、それぞれの悩みの深いところへ突っ込んだものにはならなかったが、終了時間を30分延長してのこの集会に、”非行のエネルギーを解放へ”向ける思いを一体感として、虐殺にかり立てる時代を撃つたための共同の一歩をしるしたといえる。最後のまとめでも、今後も継続してこういった場を持っていくことが確認された。
(写真)殺された仲間へ黙祷が行われたあと横浜・寿の仲間からの事実経過の報告に聞き入る参加者
労働者の保護 府へ申し人れ
あいりん地区の労組など 1983.3.19.朝日新聞
横浜で起きた中学生らによるげ浮浪者殺傷事件に関連して、「あいりん地区」の労働者でつくる釜ヶ崎日雇労働組合など9団体が18日、労働者を保護するよう、府と大阪市へ申し入れた。
申入書によると「釜ヶ崎周辺でも少年による暴行事件が続いている。労働者の窮乏を個人的責任とし行政が社会的差別と偏見を追認しているからだ」と指摘した上で
@仕事を保障せよ
A福祉を切り捨てるな
B差別と偏見を除去する教育施策をとれーなど9項目の施策を求めている。
わしらも泣いとる・弱者襲撃
「あいりん」の底辺労働者 1983.3.13.朝日新聞
横浜で起きた中学生らによる浮浪者殺傷事件を、[あいりん地区」(大阪市西成区・釜ヶ崎一帯)の底辺労働者が同じ「抑圧される」者の立場で考える集会が12日午後6時から、大阪市浪速区の部落解放センターで開かれ、約200人の参加者は「根底には日雇い労働者に対する差別、偏見がある」と強調した。
この集会で、大阪市内の地下街などで野宿する底辺労働者を対象にしたアンケート調査が報告され、3分の1以上が、本人または友人が暴行を受けた体験を持つことが明るみに出た。
「根底に差別」と集会
集会は「あいりん地区」の労働者が作る釜ヶ崎日雇労働組合などの主催。まず基調報告で「浮浪者とは不況の中で、弱者切り捨ての犠牲になった高齢、病気、障害などを背負う日雇い労働者」と位置づけ。横浜の事件は日雇い労働者に対する社会的差別の風潮から生まれたもので「学校や家庭、就職から疎外された青少年が、社会の容認の下で引き起こした」とみる。そして同様の事件が「あいりん地区」周辺を始め各地でも起きる社会的土壌があると訴えた。
集会で報告されたアンケート調査は同労組員が9日夜、大阪の梅田、難波などの地下街や、天王寺駅周辺などで野宿する労働者を対象に実施。61人のうち22人が「自分自身暴行を受けた」「一緒にいた友人がなぐられた」などと回答。 暴行を加えるのは中、高校生や若者がほとんどで、最近数年間に現れた傾向だという。
この報告に関し、集会に参加した高校教諭から、学校内で日雇い労働者に生徒が砂をかけ乱暴した事例があったことが報告され、「成績偏重と管理強化で追いたてられた生徒がより弱い立場の者に対し迫害を加えている」と指摘した。
「あいりん地区」では、55年以降、うち続く不況で就労率が悪化。とくに去年春から初夏にかけて求人が激減し、約1万8千人の労働者のうち、高齢者や障害者など、最底辺層の約1,000人が地区内で暮らせず浮浪者となって流出している。この年末、年始の越冬期にも、例年の約1.5倍にものほる労働者が地区内で野宿した。
このため集会では@高齢者、障害者への軽労働のあっせん、A簡易宿泊所を居宅と認め生活保護を適用するB差別をなくす教育の実現−などを要求、行政当局に働きかけることにした。
大阪でも3割被害
いじめの実例アンケート
釜ヶ崎日雇労働組合が行ったアンケート結果は、不況の風にさらされた底辺労働者の暮らしの実態と、若者による”いじめの実例”を生々しく物語る。
[いじめの例]仲間7人と公園で寝ていたら10人ぐらいの中学生がきて、全員がなぐられた。仲間の一人は入院したらしい(36歳、男)
▽段ボールを集めているとき、自転車できた中学生3人にけられた(51歳、男)
▽2、3人の中学生が出会うたびにパチンコ玉などをぶっける。見ていてもだれもとめない(70歳、女)
▽小学生が「こじきが来た」と石を投げた。通りかかったパトカーにいっても取り上げてくれない(45歳位、男)
▽駅の近くで自転車に乗った中学生に囲まれ、けられた。駅員が助けてくれた。(五十二歳、男)
【横浜の事件について】回答48人中35人が「知っている」。感想は「学生が一番怖い、面白がっている。自分もやられると思う」「むちゃむちゃしよる。かりにも人間だ」。 [年齢別]回答42人中、五十歳以上が32人。七十歳代は五人で、80歳代も一人。
【野宿暮らし】段ボールや空きカン、古雑誌の回収でわずかな収入を得ているのが多い。残飯をあさって生きのびている人が48人中18人。野宿を始めたのは1年未満が12人。
(写真)不況でふえた底辺労働者の野宿。若者による”弱い者いじめ”は、殺傷事件が起きた横浜だけのことではない=右の写真は、大阪市北区の梅田地下街で
”浮浪者いじめ”大阪でも
中、高校生らが殴り、毛布に火
釜ヶ崎日雇労組調査 1983.3.13.毎日新聞
横浜市の中学生らによる「浮浪者」襲撃事件が教育関係者らに大きな衝撃を与えたが、大阪市内のターミナルに寝起きする自由労働者の4割近くが、中学や高校生らから殴られたり、くるまっている毛布に火をつけられるなどの暴行を受けていることが、大阪市西成区、あいりん地区の釜ヶ崎日雇労働組合の調査でわかり、12日午後6時から同市浪速区の部落解放センターで開かれた「横浜事件糾弾討論集会で、発表された。
調査は9日夜、大阪・キタやミナミ、国鉄天王寺駅や周辺の公園に野宿する労働者計58人に面接して行い、全体の38%、22人が「自分や友人が暴行を受けたことがある」と答えた。
特に悪質だったのは、浪速区の路上で寝起きしているダンボール回収業の男性(50)が昨年9月ころ、袋だたきにされ、重傷を負ったケースで、犯人は中学生風の8、9人組だったという。
このほか、ミナミの地下街で寝ていた労働者(60)は会社員風の若い男に小便をかけられ、文句をいうと「殺してしまうぞ」とすごまれた(今年1月)
▽キタの地下街では女性労働者(40)が中学生風の4人組にこぶし大の石やレンガ片を投げつけられた(同)
▽西成区の路上でも毛布にくるまって寝ていた労働者(50)が、高校生風の3人組に毛布に火をつけられた(57年一月)ーなど。
さらに、”横浜事件”後の今月初め、浪速区で、ダンボール回収作業中の労働者(36)が中学生2人組に、ミカンや空き缶を投げつけられ、注意すると「おっさんらも横浜のようにしたろか」とすごまれるなど、中学生らの「浮浪者」に対する差別意識は大阪でもみられ、同労組は「”横浜事件”は決して他人事ではない」と受けとめ、府教委などに差別意識をなくす教育の推進を訴えることにしている。
(写真)ダンボールなどを敷き、地下街で寝起きする人たち(阪神電車梅田駅西改札口付近で)
差別的攻撃の最前線に
社会が追いつめる 1983.7.14.毎日新聞夕刊
横浜・寿町の日雇い労働者殺傷事件は、被差別最前線を舞台に<ファシズムの予兆>を実感させる典型的な差別事件だった。
経済不況と政治反動が差別を強化し、しかもその差別はまず底辺層における<民衆分断>として現象するー。
このいささか図式的にすぎる記者の観念は、実際に横浜・寿町と大阪・釜ヶ崎(あいりん地区)を歩く中で徐々に具体的な焦点を結びはじめた。(八木 晃介記者)
深刻、日雇い労働者
世界人権宣言35年
横浜での殺害現場を見た記者の心臓はささくれ立った。現場3ヶ所のうち2ヶ所(伊勢崎町、山下公園)は終夜人通りが絶えず、襲撃殺害はかなり多数の人々に目撃されたはず。にもかかわらず、だれ一人としてその暴挙を止めなかった事実をどう見るか。
オカン(野宿)中の日雇い労働者を攻撃した少年たちは、検挙した警官に「街を汚しているからきれいにした」と語ったというが、目撃者たちの思いの中にもそうした意識がなかったかどうか。
事件後、寿日雇労働者組合(寿日労〕は「”たかが浮浪者”の死か」「俺たちは怒っている」と題するビラを市内中学校の生徒に配ろうとした。
「中学生諸君!俺達は寿の日雇労働者です」と書き出されたビラには、自分たちが現代の主要な社会関係から疎外された底辺労働者であること、少年たちも今日の差別選別の能力主義教育から落ちこぼれた被害者であること、それゆえ両者の利害は本来共通し、憎悪し嫌悪し合う根拠は何もないことを明らかにし、共に今回の悲劇を生み出した社会のありようを考えるべきだと、訴えていた。
だが、このビラ配布は教師たち(必ずしも管理職だけではない)に妨害された。教師たちは生徒に「ビラを受けとるな」と絶叫し、それでも受けとった生徒からはビラを奪い返して、労働者の目の前で破り捨てた。カッとした労働者が一歩門内に入るや、校内にいた私服警官に建造物侵入現行犯で9人が逮捕された。寿日労の鹿児島正明委員長は「すべて仕組まれた見せしめ弾圧だった」と身をふるわせて記者に語った。
一連の事件について横浜市教委は「差別はなかったと信じたい。思いやりが足りなかった」というが、必要なのは思いやりの道徳教育ではなく、反差別の解放教育であることはいうまでもない。
障害者は寿町でも釜ヶ崎でもすべて”アオカン”をしていた人に集中している。釜ヶ崎日雇労働組合(釜日労〕の深田一夫書記長や釜ヶ崎医療連絡会議世話人の北間敢氏によると、1973年の石油ショック以後、釜ヶ崎労働者は公共投資に9割方依存するようになったが、臨調行革路線で公共投資が削減され、完全失業者が激増しつつあるのが現状だという。
同時に、大阪築城400年まつりに向けた<クリーン作戦>が展開され、たとえば残飯にはタバコの灰を混入させてビニール袋に人れる運動が実施された結果、「残飯さえあされなくなった」(北間氏)といい、釜ヶ崎で生きられなくなった人々が梅田、ナンバ、天王寺に流れて”アオカン”するようになったという。しかし、ここでもクリーン作戦が展開され、大阪府警南署による顔写真の撮影、指紋採取に象徴されるように、治安対策的な予防拘禁の一歩手前にまで事態は進んでいるという。
大阪市内の”アオカン“人口は釜日労の調べでは1日平均ざっと2,000人。横浜市内の100人と比較すべくもない。「アブレとアオカンの増大がファッショ的風潮と合致して、我々が差別的攻撃の最前線に立たされるようになった」と深田氏と北間氏は口をそろえた。 「部落民を殺せ」というファッショ的な差別落書きが80年代に入って激増しているが、このメッセージは失業中の日雇い労働者に対してすでに現実の行動として具体化されているのである。
かつてナチスが<浮浪者狩り>(<浮浪者>は差別語である)を実施した時、ユダヤ人や障害者の大量虐殺と連動し、侵略戦争に直結した歴史はやはり教訓的である。
それは寿日労のビラにあるように、最初は底辺層の矛盾・分断として現象するが、やがては全勤労大衆にまで拡大された事実があり、だれもが無関心ではいられないはず。
寿日労はすでに「差別連続虐殺糾弾実行委員会」を作り、釜日労もこの15日に「釜ヶ崎差別とたたかう連絡会」を正式発足させる。地域共闘を中心とした反差別統一戦線をめざしているが、組織労働者の反応は非常に冷たく、被差別部落民衆、在日韓国・朝鮮人、障害者ら被差別層の結集も今一歩だという。
また釜日労は大阪府・市に対して就労保障、福祉拡大を要求しているが、いまだに正式の交渉さえ成立していない。寿日労も釜日労もいまは孤立状態だが、果たしてこのままでよいのだろうか。
浮浪者に”放火”
東京・酔った2人を逮捕 1983.11.30.読売新聞
30日午前1時40分ごろ、東京都豊島区南池袋の西部線池袋駅入り口で、住所不定、無職後藤繁男さん(57)が段ボールや新聞紙を上半身にかけて寝ていたところ、通りかかった2人連れの男がライターで新聞紙などに火をつけて逃げた。
通行人4人すぐ消し止めたため、後藤さんは無事。たまたま付近をパトロールしていた池袋署員が2人を追いかけ、殺人未遂の現行犯で逮捕した。 同署の調べでは、同区東池袋5の48、レストラン従業員石橋武(38)と同僚の練馬区、A(19)で、「酔っていた勢いで面白半分にやった」と自供している。
西成の路上 未明、浮浪者襲う
少年数人、面白半分にー殴られて2人けが 1983.5.21.毎日新聞夕刊
21日午前3時10分ごろ、大阪市西成区中開1の3の路上で、浮浪者5、6人が寝ていたところ、中学主か高校生ふうの少年6,7人がそれぞれ棒切れを持って一斉に殴りかかった。
浮浪者たちは逃げ出したが、うち住所不定、無職、安田勝彦さん(54)と同、内田博さん(46)の2人が逃げ遅れ、少年らに頭や腹などを殴られ、2週間ー3日のけが。
少年らは走って逃げたが、西成署の調べでは少年らはいずれも15、6歳。ズック靴をはいており、浮浪者に「お前ら野宿してんのか」というなり襲いかかったという。 現場は国鉄新今宮駅西約1キロであいりん地区のすぐ西側。
西成区内では浮浪者同士がけんかをすることはあったが、少年グループが集団で浮浪者に襲いかかったのは初めてという。 襲われた安田さんは「寝ていたらいきなり殴られた。取り囲まれて逃げるに逃げられず、頭を両手で抱えてうずくまっていたが、さらに2、3回殴られた。本当にひどいやつだ」と話していた。
あいりん地区の釜ヶ崎日雇労働組合は、横浜市の中学生らによる浮浪者襲撃に関連して、”浮浪者いじめ”の実態を調査、その結果を発表しているが、それによると、大阪市内のターミナルで寝起きする自由労働者の4割近くが中、高生ら少年に殴られたり、くるまった毛布に火をつけられて暴行を受けているという。しかし、今回のような具体的なケースは初めてで、同署は少年ゲループが面白半分に浮浪者を襲撃したとみている。
底辺労働者の差別と闘おう
浪速区で準備会開く 1983.6.6.朝日新聞
浮浪者も底辺労働者だ、底辺労働者への差別を問い直そうという「差別と闘う連絡会」の準備会が5日、大阪市浪速区の部落解放センターで開かれた。
横浜の浮浪者襲撃事件、大阪府警南署の浮浪者リスト作成問題などを契機に結成することになったもので、市民グループ、労組、学者、文化人ら約百人が出席した。 連絡会の呼びかけ人は、金井愛明・西成教会牧師、作家土方鉄さん、彫刻家金城実さん、森井ワ・関大教授、釜ヶ崎日雇労働組合など。
「労働者の生活意識」
あいりんで調査
きょうから大阪市大院生ら 1983.8.12.朝日新聞
大阪市西成区・あいりん地区・(釜ヶ崎一帯)の労働者が、どういうわけで釜ヶ崎に来て、どんな気持ちで暮らしているのかを探ろうと、大阪市立大学の大学院生や同地区に住む人たちが協力し、12日から生活意識調査を始める。
質問は就労状況から性生活まで硬軟取り交ぜた約250項目。本音が出る調査にして結果を秋にまとめ、行政機関などに改善要求するとともに、労働者自身にも考えるきっかけになれば、といっている。
調査をするのは、大阪市立大文学部の大学院生原和博さんら阪神間の大学生や地元労働者らでつくる「釜ヶ崎差別と闘う連絡会議」(準備会)のメンバー。 内容は「仕事」「遊び(酒・性など)」「健康・医療」「行政側への注文」「釜ヶ崎へのイーメージ」「過去の経歴」「浮浪者襲撃事件」の7項目。
就労の実態や簡易宿泊所の統計調査などは数多くあったが、今度の調査は労働者の人間的側面を浮き彫りにしようとしているのが特徴。
「遊び」では、一日の飲酒量や飲む時間、場所のほか、酒の上での失敗談を質問。競輪や競艇に行く回数や街頭とばくへのかかわりを聞き、単身が92%をしめる状況をふまえ「ストリップやトルコに行くか」とずばり問いかける。「イメージ」は労働者自身があいりん地区をどうとらえているかがテーマ。「他地区に住んでる人は釜ヶ崎を誤解していると思いますか」との問いのほか、釜ヶ崎の未来像を語ってもらう。「経歴」は、いつ、どうして釜ヶ崎に来たか、いま両親や家族との接触があるのかどうかといった労働者の過去、現在を浮かび上がらせる。
あいりん労働者
厳しい”正月の風”
臨泊受け付け三が日は中止
野宿ふえる恐れ 1983.12.26.朝日新聞
大阪市は、西成区あいりん地区(釜ヶ崎一帯)の労働者を野宿から救う越年対策事業として年末年始に臨時宿泊所を設け、例年、千数百人を入所させているが、過去8年間続けてきた正月三が日の申し込み受け付けを今シーズンから中止することを決めた。
「この3日間は本来、急病人のため特別に受け付けているのに、仮病を使って申し込む労働者が目立ち、市のサービスが悪用されている」というのが理由。
これに対し、同地区で労働者に手をさしのべている関係者は「福祉切り捨てのしわ寄せが一番弱い人たちのところにあらわれた典型。野宿者が増えるのは目にみえている」と反発、受け付け続行を求めている。
臨時宿泊所は、大阪・南港(住之江区)の市有地にシーズンごとに新設するプレハブ(今年は33棟)と、西成区天下茶屋1丁目、社会福祉法人「大阪自彊(じきょう)館」を充てている。開設期間は12月29日から1月9日朝まで。3食とベッドが無料で、ふろや診療所も利用できる。
入所申し込みは年末の29、30の両日だが、市はこれ以外に正月三が日にも急病人のための受付窓口を自彊館内に設け、この期間に発病し、あいりん地区内にある大阪社会医療センター付属病院で診察を受けて重症と判断された患者はすぐ入院、軽症者は常設の診療施設のある自彊館へ入所させる手続きをとってきた。
この制度を始めた50年以来、最初の2、3年間は自彊館への入所者が20−60人程度だったが、年々増え、今年、正月の場合、357人の申し込みが殺到した。 市民生局保護課はこの原因を「労働者が南港のプレハブ宿舎よりも環境、待遇のよい自彊館入りをねらって病人を装っているための現象」とみる。南港は繁華街へ遠く、食事は弁当。自彊館はあいりん地区に近く、メニューも豊富というわけ。
この決定に対し、14年前から野宿者にふとんを提供するなどの活動をしてきた、労組などでつくる「釜ヶ崎越冬闘争実行委員会」のメンバーたちは「29、30日の受付では、寝場所がなく困っていても「若すぎる」とかの理由で断られることが度々ある。市は4年ほど前から臨泊入所者の削減方針を打ち出しており、今回の措置もその線に沿った福祉の切り捨て策だ」と怒る。
本田良寛・大阪社会医療センター付属病院長も「中にはずるこい労働者もいるだろうが、工夫すれば防げるのでは。現実に病気や生活苦で臨泊を必要とする人が多いのだから、三が日の受け付は中止しないで欲しい」と話している。 (写真)あいりん地区労働者の一部が年末年始を過ごすプレハブの臨時宿泊=大阪市住之江区南港南4丁目で
不況憎し路上の正月
あいりん地区・野宿 最悪の500人 1984.1.4.朝日新聞
大阪市西成区のあいりん地区(釜ヶ崎一帯)で、この年末年始、野宿を余儀なくされる底辺労働者が不況のあおりで急増、「史上最悪」といわれた昨年の1.5倍ー2倍近くにのぼっている。
地元の労働組合、キリスト教団体が[あいりん総合センター」の軒下の通路に布団を敷 いて設けた仮眠所では、年末から連日3百人以上が野宿し、3日夜から4日朝にかけては5百人を突破する見込み。寒風にさらされて横たわる路上に、新春のはなやさは遠かった。
仮眠所は先月25日から設営、今月16日まで続く。初日の宿泊者は211人で昨年より約百人多い。27日夜からは連曰300人以上。1日夜から400人台に乗り、2日夜は460人がこごえながら一夜を明かした。昨年同期は、300人前後で200−150人多い。一組の布団に2人ずつ、くるまるが、ピロティの軒下だけで足りず一部は路上や、同センター南側のわずかな軒下まではみ出している。 また、キタやミナミのターミナル一でじ実施しているパトロールでも、連日、昨年の1.5ー2倍の299人ー585人の野宿者が確認され、一部が仮眠所に保護されている。
野宿者が急増した理由として地元の労組やキリスト教関係者は、うち続く、不況で若い層でも仕事先と「顔」がつながっていない限り就労が困難になっているうえ、
@大阪市が今年から正月三が日間、年末年始の臨時宿泊所入所申し込み受け付けを中止
Aキタ、ミナミで「浮浪者追放」のクリーン作戦が進み、段ボール回収などで生計を立てていた庇辺層の浮浪者化に拍車をかけた−などをあげている。
(おわびー記事中のキタ・ミナミは釜ヶ崎とその周辺のパトロールコース・北回り、南回りのこと。この年は越冬実メンバー内でも、「それはどっちのキタ・ミナミのことや」と確かめあう状態だった。説明者の説明不足が誤りの原因。おわびし、訂正します。
(写真)寒風吹きつける中、路上で眠る労働者ら。3日午後10時、大阪市西成区萩之茶屋1丁目で
さよなら あいりん学園(新今宮小・中学校)
子ら見守り22年 来春閉校へ
減った家族連れ 他校でも受け入れも 1983.11.16.朝日新聞
西成区のあいりん地区(釜ヶ崎一帯)で、住民登録をしていないために就学できなかったり、家庭の事情で長期欠席している子どもを教育し続けてきた市立新今宮小、中学校(同じ校舎に併設)が来年3月末で、実事上、閉校する。 36年8月の第一次釜ヶ崎暴動をきっかけに生まれ、一時は約150人が学んだが、現在、中学3年生が四人だけ。この四人が卒業すると、22年の歴史にピリオドを打つことになる。
”あいりん学園”の異名もあった同校の児童がなぜ減ったかについて、市教委や関係者は、
45年の万国博を契機にあいりん地区の簡易宿泊所がほとんど単身者用になって家族連れが少なくなった
▽あいりん地区を通学区域にする小、中学校が、住民登録のない子どもを受け入れるようになった
▽親が子どもの就学に理解を示すようになったーなどを挙げている。
同小、中学校に残る記録によると、36年ごろ、あいりん地区には不就学や長欠の子ども、が約200人いた。この子らに対する学習指導や子ども会活動などは元教師や学生ボランティアらの善意に頼っていた。
暴動後、市教委が教育面からのあいりん対策として37年2月1日に開校。既設の市立萩之茶屋小と同今宮中学校の分校として、西成区萩之茶屋1丁目にプレハブ校舎が建った。小学生39人と中学生15人が第1期生。
同年8月、同区太子1丁目に完成した市立愛隣会館(当時)の4、5階に引っ越したあと、翌38年4月、あいりん小、中学校として独立。
48年12月、現在地の西成区萩之茶屋1丁目に新築された鉄筋四階建て約3,200平方メートルの校舎に移転、現在の校名に変わった。
児童、生徒が多かったのは30年代後半から40年初めにかけてで、ピークは40年の152人(小学生112人、中学生40人)。市教委の就学相談員が地区を回って不就学童を探し、親を説得して登校させていた。能力に応じた授業をし、散髪や入浴、洗濯などの生活指導もした。
児童、生徒数は49年に50人をきり、56年からは小学生がゼロになった。57年は中学生が10人いたが、卒業生や転校などで今春から中学3年生4人(うち女子1人)だけになった。
玉井由夫・大阪市教委学務課長の話 不就学児らを教育する独立校としての役目を果たしたと思う。一時的に休校にするか、廃校にするかは検討中で、結論が出るのは来年初めになりそうだ。
しかし、同じような境遇にある子どもがなくなるわけではなく、一般の小、中学校で十分な学習が受けられるよう考えていく。不就学や長欠児をみつけて相談にのるケースワー力ーも存続させる予定だ。
(写真)子らが減り、ガランとした新今宮小・中学校の校舎。来春閉校する=西成区で
都島に友渕中学校を新設
マンモス化解消へ市教委
今宮中学校などに分校も 1984.3.28.朝日新聞
大阪市教委は、新学期から新たに都島区友渕町1丁目に友渕中学校を開校するほか、平野西、萩之茶屋両小学校と今宮中学校にそれぞれ分校をつくる。人口増によってマンモス校化しているのを解消することなどがねらい。
新設される友渕中学校は校地面積15,000平方メートルに鉄筋コンクリーと4階建ての校舎で、普通教室13、特別教室などを持つ。1−3年生の6学級203人が4月から通う。地域の都島区友渕町は、これまで高倉中学校の校区だったが、市住宅供給公社の友渕コ−ポ、住宅・都市整備公団のリバーサイドともぶちのほか大手不動産会社が民間マンションなどをつくり、中学生らが大幅に増えた。新設校を作らないと、同校は今春、生徒数が28学級1,140人にふくれあがる、予定だった。 平野西小学校の分校は平野区背戸口1丁目に建設し、校地面積3,200平方メートル。鉄筋コンクリート4階建てで普通教室13、特別教室3。三年生の七学級、264人が移る。
また、萩之茶屋小学校と今宮中学校は、3月で廃校になる西成区萩之茶屋1丁目、新今宮小中学校の鉄筋コンクリート4階建て校舎を分校として活用する。当分の間、クラブ活動などに利用する。
´84釜ヶ崎・冬
沈黙の叫び、聞いてほしい
小柳 伸顕牧師 インタビュー 1984.2.9.毎日新聞・夕刊
この年末年始、日雇い労働者の街・釜ヶ崎では連日、4、5百人の労働者が寒風吹きすさぶ中でアオカン(野宿)し、少なくとも30人が<行路病死>したという。
行政はこ街を<あいりん=愛隣地区>と呼ぶが、死をも強制する人権無視の現実は悪化の一途をたどっている。以下は長年にわたっ釜ヶ崎の地域活動に従事してきた小柳伸顕牧師が語る<´84・釜ヶ崎・冬>の状況である。(聞き手=八木晃介記者)
<トンネルを抜けた>(レーガン氏)、<長い夜が明ける>(中曽根氏)などの言葉は冷えきった釜ヶ崎の空気に反響しない。
「私の実感は、逆に、暗いことぱかりですよ。行革の方針で日雇い健保が廃止されようとしている。日雇い労働者に<病気になったら死ね>と言ってるのと同じやないですか。
昨年末、大阪府と交渉したら、<元気に働いてる人が労働者で、それ以外は知らない>というんです。
仕事が極端に減っている今、高齢者、病者、障害者はまずアブレ(失業)ですよ。その結果、かなり重傷の結核患者もアオカンに追い込まれている。
大阪市に抗議しても<本人に治す気があるんですか>などというんですからね」
例年、<十日戎>過ぎるころから仕事が出てくるのだが、今年は相当にきびしい。仕事がないのだ。
「朝仕事に行って夕方賃金をもらって帰る就労が一番条件的によく、これを<ゲンキン>というんですが、今年はこれがほとんどない。
やむを得ず飯場へ行っても内容は相当ひどい。10日契約で行って10日間拘束されて仕事が5日間しかなければ、賃金は5日分だけ。
しかも市価より割高の食事代、トイレ使用などの衛生費、フトン代などは10日分さっぴかれるんです。
抗議しても暴力団がひかえていて泣き寝入り。暴力を背景にした重層的なピンハネ構造も放置されていますよ」
小柳さんも参加している釜ヶ崎差別と闘う連絡会(準備会)は昨年夏、かなり大規模な実態調査を行った。それによると、労働と収入の平均像は次のようになる。
平均日当7,000円、平均就労日数は月14日(この数字には、<白手帳>をもち日雇い雇用保険の認定を受けられ、しかも肉体的重労働の限度日数という含意がある)、従って月収は9万8千円。それに10日間の雇用保険が認定されれば4万1千円となるから、合わせて13万9千円の収入となる。
「調査では労働者1人の1日平均支出は食費とドヤ(簡易宿泊所)代だけで3千3百円。食べて寝るだけで1ヶ月10万円かかるんですね。
月に14日平均働ければなんとかなるが、病気になったりアブレたりすれば、完全にアウトです。
就労の賃金がないばかりか、雇用保険さえ打ち切られますからね。即アオカンです」
釜ヶ崎の労働者にとって骨身にしみてこたえるのが人々の予断と偏見、差別意識。
「昼間の釜ヶ崎をみて判断しないでほしいと思う。
昼間は仕事にアブレ、ふてくされて酒を飲んでる人も確かにいる。
私は早朝の労働者を見てほしいと思うんです。実にイキイキと現場に行く姿には労働者らしいさわやかさがある。朝の4時に仕事に行くナマケモノがどこの世界にいるもんですか。
それに同じ飯場で働いていても、東北などからの出稼ぎ労働者が差別する事実もありますよ、<オレたちには帰るところがある>と。
丸山真男さんのいう〈抑圧移譲の原理>が働いて、本来は手を結ぶべき者同士が差別を媒介にして分断されてるんです」
小柳さんは2月いっぱい、他のキリスト者と共に夜間パトロールを続ける。アオカンの労働者にフトン、靴下、みそ汁などを配って、少しでも働ける体力を維持してもらうとともに、横浜・寿町でみられたような襲撃事件を防止するために。
「シモーヌ・ヴェーユの言葉に<不幸は沈黙している>というのかあります。本当に叫び声をあげたい人々は沈黙してるんじゃないか。その沈黙の叫びを多くの人に聞いてほしいと思うのです」
(写真)こやなぎ・のぶあき 日本キリスト教団寝屋川教会牧師=1937年、北海道生まれ。1962年、同志社大神学部大学院修士課程修了。関西キリスト教都市産業問題協議会、釜ヶ崎委員会で地域活動を続けている。
日雇健保法廃止に反対
あいりん地区労働者
府庁までデモ行進 1984.4.14.朝日新聞
西成区あいりん地区の日雇い労働者ら約150人が13日朝、「日雇労働者健康保険法の廃止反対」などを訴え、同区萩之茶屋1丁目のあいりん労働福祉センター前から府庁まで約6キロをデモ行進。
日雇い労働者ら3千9百4十人から集めた同法廃止反対の署名簿の写しを民生部に提出した。
デモを企画した釜ヶ崎日雇い労働組合(山田実執行委員長)によると、デモは2月から取り組んできた日雇労働者の春闘第2弾。先月末に、日雇い労働者の最低日当を、雇い主との個別交渉で7千円から7千5百円へと5百円アップさせた。この成果のうえに、今回は「日雇い労働者の命と健康を守れ」と訴えている。
同労組の話では、今国会で審議中の健康保険法改正に伴い、これまで独立会計だった日雇健康保険が一般の政府管掌健康保険の一部に組み入れられ、治療費の本人負担も現注のゼロから1−2割負担となりそうだ、という。 とくにあいりん地区の場合、現行の保険制度に登録し、分担金をきちんと払い込んでいる雇い主はごくわずかで、「行政と業者の怠慢のしわ寄せを、日雇い労働者が受けることのないよう特別措置をとれ」と要求している。
(写真)日雇健保廃止に反対してデモ行進するあいりん地区の労働者たち=西成区萩之茶屋3丁目で
(上の写真は別のもの・同日センター前で)
日雇い健保の廃止反対訴え
国と初の直接交渉
あいりん地区労働者代表ら 1984.5.13.朝日新聞
西成区あいりん地区(釜ヶ崎一帯)の日雇い労働者の代表ら50人が12日上京、「日雇い健康保険の廃止反対」などを訴え、厚生省・社会保険庁の担当者らと初めて直接交渉した。交渉には、和田貞夫社会党代議士らが立ち会い、釜ヶ崎日雇い労働組合(山田実委員長)の組合員ら50人のほか、東京・山谷や横浜・寿町など各地の日雇い労働者の代表らも出席した。
政府が現在準備を進めている健康保険法の改正案によると、これまで独立会針だった日雇い健康保険が一般の政府管掌健康保険の一部に吸収され、治療費の本人負担も現在のゼロから1ー2割負担となる。
このため、出席した労働者らは
「改正が強行されたら、労働者の健康は一体どうなるのか」
「現行の保険制度ですら、雇い主の業者の8割までがきちんと登録せず、分担金も払い込んでいない」
「業者や行政の怠慢で、保険を受けられない労働者への救済措置を制度化するのが先決ではないのか」
「大阪府では現在、未登録事薬所で働く労働者にも健保を適用する救済措置を実施しているが、これを今後も継続せよ」などと訴えた。
これに対し、社会保険庁の奥村明雄健康保険課長らは
「日雇い健保の一般健保への吸収は行政改革のうえでも欠かせない。ただし、府で実施している特例的な救済措置はただちに取りやめるつもりはない」と答えた。
釜ヶ崎日雇い労働組合では、今月末に開かれる府議会に対しても四千人近い署名簿を添え、同じ内容の誓願を行う予定で、大阪総評や自治労府本部、あいりん地区で活動するキリスト教団体などに、誓願への支持を要請している。
日雇い労働者ら
「野宿150人、病人も 越冬施設ふやせ」
名古屋市役所へ押しかける 1984.8.4.朝日新聞(名古屋)夕刊
名古屋駅などを住まいとする日雇い労働者の組織「越冬闘争実行委員会」のメンバーが4日朝、越冬対策の充実を要求して名古屋市役所西庁舎に押しかけ、3人が不退去罪の現行犯で愛知県警に逮捕された。
市は例年、住所不定の労働者のため、12月29日から1月11日まで、港区の簡易宿泊施設船見寮を用意して収容、食事の面倒も見ている。だが、船見寮の定員は180人で、今冬は1月2日までにぎりぎり240人まで収容したが、あふれた労働者が不満を表明して市に抗議していた。
3日には労働者の代表と市の職員が中村区役所で話し会ったが、物別れに終わり、警官が出て強制排除。
これに怒った労働者ら26人がこの朝、市役所に押しかけた。 午前8時半すぎ、本庁舎前でビラをまいた一行は西庁舎3階の民生局保護課へ。前日、警察の力を使って排除した市側の対応に抗議するとともに、施設からあふれた約150人が野宿を強いられていること、80人ほどの病人が通院中であることなどの実状を訴え、「保護」を求めた。 しかし、市側は職務の妨害をタテに交渉を拒否。県警に出動を要請し、約40人の警官が駆けつけてにらみ合いになった。
労働者側は「ちゃんと回答しろ」「オレたちみんなに自殺しろとでもいうのか」などと気勢を上げたが、午前10時20分すぎ、退去の最後通告をした警官が実力行使に出て3人を逮捕。全員を庁舎外へ排除した。
仕事始めで晴れ着姿の女性もまじる庁舎は、労働者と、それを押し出す制服警官のもみ合いで異様な雰囲気。押し出された労働者らは庁舎前でシュプレヒコールをしたあと引き揚げたが、「日雇い殺しをやめろ」などと、話し合いを拒否する市の態度に怒りをぶちまけていた。
このあと、実行委員会のメンバー約20人が中署を訪れ、玄関前、「三人の仲間を即時釈放せよ」などと抗議、警官と一時もみ合い、午後2時すぎ引き揚げた。
「他県からも」
本山市長 名古屋市民生局の話では、12月29日に中村区役所内に日雇い労働者の臨時相談所を設け、3日までに316人が訪れた。舟見寮(港区)に240人、植田寮(天日区)に12人など、市の四つの福祉施設に計255人を泊め、26人を病院に入院させるなどの措置をとった。
舟見寮ではプレハブ簡易棟を一棟建て、前年より10人多い180人が泊まれるようにしたが、それでも110人(推定)が野宿しているという。
市が臨時相談所を設けたのは52年暮れから。この時、市職員に対する暴行で労働者1人が逮捕されており、今回の逮捕はそれ以来。
労働者たちが「保護申請に来たのに、なぜ逮捕する」と抗議したのに対し、本山市長は4日の年頭記者会見で「いくら話し合っても話がつかず、やむを得ず退去を求めた。逮捕したとは聞いていなかった。収容施設を増やしても、他府県からどんどんやってくるので、収容しきれない」と、対話ができないことを強調していた。
(写真)越冬対策について、名古屋市役所抗議に来た労働者を不退去罪で排除する警官=4日午前10時25分、名古屋市中区・名古屋市役所西庁舎で
ニュース前線
”労組キャバレー”奮戦す 1983.12.24.中日新聞
経理上のトラブルから解雇問題が起き、労使紛争に発展、ことし6月に機動隊まで出動した愛知県岩倉市のキャバレーがこのほど実質的な労組経営で再出発した。ホステスさんらが自主経営という異色さに忘年会シーズンも手伝ってまずまずのににぎわいぶりだ。
この店は同市役所東のフラミンゴ=北原善久さん(35)経営。再出発を機にそれまでの店名、ドミンゴを改めた。
解雇問題は、北原さんが店長だったことし5月中旬に起きた。当時の経営者が「税金を使い込むなど店の経理に背信行為があった」として、全従業員約20人に突然、解雇を通告。
これに対し北原さんら従業員側は「計画倒産をもくろんだもので、不当解雇」と反発、相談を持ち込んだ名古屋・笹島の日雇い労組、同労組と連携している大阪・釜ヶ崎日雇い労組の支援も受け、旧経営者側との交渉がスタート。支援労組員の不穏な動きを警戒して県警機動隊50人もネオン街に出動、北原さんや日雇い労組員ら四人が障害の疑いで逮捕されるなど紛争は拡大した。
その後、北原さんらが地位保全の訴えを名古屋地裁に起こし、赤鉢巻き姿のホステスさんが連日のように解雇撤回を叫ぶなど紛争は長期化の様相だったが、11月末「店の経営は任す」といった内答で和解が成立した。 北原さんが経営者となり、残る従業員(現在女21人、男5人)がフラミンゴ労働組合を結成して、店を再開したのは11月末。業界で恐らく初めてという実質的な労組経営は、経営ノートに経理状況を明示して公開するほか、ホステスの最低保証日給を引き上げ、1日でも休むとその週の日給を半減するといった旧慣行も追放した。 北原さんは「途中で店がおかしくなったら笑いものですから」と、これからが本番の気構えだ。(浦)
山谷事件アピール
わたしたち、「釜ヶ崎差別と闘う連絡会」(準備会)は、1983年2月の横浜寿町における労働者殺傷事件を契機に、同年6月結成し活動を続けて来ました。 今回、東京山谷と名古屋笹島における労働者および支援者への官憲の弾圧に対して、以下のような態度を表明し、みなさんの支援を呼びかけます。
昨年11月3日早朝の山谷では、警察庁の広域指定暴力団日本国粋会金町一家系西戸組(皇誠会)が、日雇労働者の闘う組織山谷争議団を「ナチス棒(伸縮式の金属棒)と催涙スプレ」で襲撃する事件が起きました。
西戸組は、1982年秋、山谷に事務所をかまえ、山谷を暴力的に支配しようとしました。西戸組は、戦前、差別事件を糾弾した水平社に暴力的に敵対した(いわゆる水国争闘。1923年)国粋会の流れを汲む右翼暴力団で、1983年11月2日、政治結社皇誠会をつくりました。
かれらは、「山谷地区の環境改善」をかかげ、手配師による路上トバク、労働条件違反、賃金未払い等と取り組む山谷争議団を当面の敵としました。 旧「明治節」11月3日を記念して、かれらは山谷争議団をつぶし、「靖国神社」にその報告参拝をこころみましたが、労働者の力に阻まれ実現できませんでした。
運動の拡大を恐れた権力は、労働者7名を「公務執行妨害罪」「暴力行為等処罰ニ関スル法律」で逮捕するという暴挙にでました。 計画が失敗するや西戸組皇誠会は、翌4日、山谷争議団のM氏等7名を名指した「絶滅 殺人」予告ビラを配布しました。。 11月4日夜、西戸組の攻撃にそなえて集まった山谷労働者と全国からの支援者たち32名を、権力は「凶器準備集合罪」「公務執行妨害罪」を理由にまたもや不当逮捕しました。その中には釜ヶ崎から支援にかけつけた労働者4名もいました。
以来1、2月末まで弾圧は繰り返されて、東束山谷では47名の労働者および支援者が不当にも逮捕され、内12名が起訴されるという労働運動への弾圧が続いています。
しかもこのような弾圧は、名古屋でも繰り返されました。1984年1月4日、越冬活動中の名古屋日雇労働組合委員長等3名が不当にも逮捕されました。 実に寄せ場では、51名の労働者と支援者が逮捕され、15名が起訴されたのです。
これを日雇労働者、寄せ場に対する弾圧と呼ばずになんと呼ぶことができるでしようか。 今回の山谷事件では次の3点を見落としてはなりません。
第一は、労働者の大量逮捕と起訴は、レーガン訪日に関する治安対策に名をかりた労働運動弾圧以外の何者でもありません。
第二は、権力が西戸組の動きを黙認するだけでなく、背後で弾圧の手段に利用していたふしさえあります。たとえば、「殺人予告ビラ」に対して何等手をうたないばかりか、西戸組の逮捕者が6名であることからもうかがえます。
第三は。西戸組皇誠会に代表される右翼天皇主義の登場です。
わたしたちは、これらの予兆を昨年2月の横浜寿の少年たちによる労働者殺傷事件にみました。野宿する失業中の労働者3名が殺され、13名が負傷させられたあの事件です。少年たちは事件後「スカッとした」と言い、ある者は「きたない不要な者を大人にかわってかたづけた」とさえ言っています。しかも社会もそれを是認するかのように、これに抗議する労働者に対して(たとえば生麦中学校にビラ配布に行った人々9名全員逮捕・1983年4月)、厳しい弾圧でのぞみました。
わたしたちは、山谷や笹島、寿での動向と労働者にかけられた弾圧は、釜ヶ崎労働者とその支援者への弾圧とうけとめ。強く抗議するとともに次のことを訴えます。
一、東京山谷・名古屋笹島における51名の不当逮捕、15名の起訴に強く抗議する。
一、15名の裁判闘争を支持し、支援することを求めます。
一、15名の保釈(保釈金合計2千3百万円)と裁判闘争のためのカンパ活動に協力を求めます
1984年4月11日 釜ヶ崎差別と闘う連絡会(準)
連絡先 大阪市西成区萩之茶屋2・5・23 釜ヶ崎解放会館二階釜日労気付
ファシズム潮流との前哨戦
天皇主義右翼・暴力団西戸組との闘い
階級的労働運動への襲撃
横浜での”予兆”は山谷で”明示”された 1984.2.27.日本読書新聞
山谷や釜ヶ崎での闘いに対して、暴力団が襲撃してきたことはこれまでもあった。例えば、1972年釜ヶ崎での、暴力団淡熊組系鈴木組の襲撃。73年山谷での義人党ー日の丸青年行動隊の襲撃などである。
だが今回の西戸組=大日本皇誠会の場合は、これまでのものとはいくつかの点で、内容を異にしている。
まず第一に、これまでの暴力団の襲撃は、既得権の防衛のためのものであったが、西戸組の場合は違う。
西戸組幹部は−検事の冒頭陳述によればー山谷争議団こそ山谷地区の秩序を乱しているとして、山谷争議団に対抗するため、1983年10月ころから「山谷地区の環境改善」(傍点著者)などを目的とした政治結社「皇誠会」の結成を企図し、同年11月2日には、「皇誠会」の名前入り街頭宣伝車を用意し、翌3日早か朝ら山谷一帯において街頭宣伝活動を開始した。
すなわち、きわめて目的意識的に労働団体と対決する姿勢が顕著な点である。
第二には、「山谷地区の環境改善」を目的とした政治結社「皇誠会」を結成した、とあるように、登場の仕方が政治的であることを特徴とする。皇誠会の名が示すように彼らは、天皇制イデオロギーと暴力をもって、「山谷地区の環境改善」をなそうとしたのである。
古くから山谷に縄張りを持つ義人党はすでに81年、「全国民声合同労働組合(全民労)を結成している。この全民労とは、労働組合とは名ばかりの、暴力団団関係の悪質飯場経営者による。”隠れ蓑”である。と同時に、その綱領の一つにある「民族のために皿を流す」部隊に、労働者を巻き込むことを目的とするものである。
構造不況
このようにみてくると、80年代に入ってからの寄せ場支配の再編過程には、右翼的イデオロギーにもとずく「政治」支配が目論まれていることがわかる。そして、こうした動向の背景の第一にあげることができるのは、打ち続く構造不況であろう。
寄せ場はこの間の合理化、減量経営、行財政改革による公共投資の抑制のあおりをまともに受け、極度に仕事が減り、疲弊化の途上にある。雇用形態にしても、好況期には主要であった、その日雇われてその日に賃金を受け取る「現金仕事」(日々日雇)の形態が減少し、飯場等に一定期間住み込んで就労する期間雇用、「直行」と呼ばれる臨時工的な形態が増えている。
また仕事の減少は、労働者間の競争を激化させ、高齢者、病弱者、障害者などの「弱者」を就労の機会から振り落していく。これらの労働者は、福祉に頼る以外になく、そうしなければ生存すら危くさせられるのである。
しかし、その福祉もまったく不充分であるばかりか、増々切り縮められている。さらに、日雇健康保険の廃止方向も画策されており、行財政改革の波は、日雇労働者を直撃し、その生存権さえ奪って、”行路病死者”を増している。
我々はこれを、野垂れ死攻撃と呼ぶ。
仕事にはありつけず、福祉からも見放され、病気であっても病院にも入れない労働者は、糧を求めて歓楽街などをさまよわざるをえなくなる。そこでは「浮浪者」という差別と侮蔑を受ける。
このような状況を背景として、昨年2月発覚した横浜寿町周辺での「浮浪者連続殺傷事件」、我々からみれば「日雇労働者差別虐殺事件」が起きるのである。犯人として逮捕された少年らは、「町を汚している」し、「おもしろかった」から、殴ったり蹴ったりしたという。そして「何でこんなことで逮捕されるのか」と言ったそうである。
排外主義
最近の新聞によれば、「高福祉は結果として悪平等をもたらす。個人の知恵、才覚、努力は正当に報いられるべきだ、という新保守主義の流れ」が、台頭しているらしい。いわば『強者の権利」を主張するものである。こうした主張は高度成長期が終焉し、不況期が長期化する中で、財政再建を至上の課題とする政治目的とも重なり、最近とみに強くなっているように思われる。
これが進化すれば、社会的淘汰を要求する「選民思想」へと連なり、排外主義へと結果する危険性がきわめて強い。先にふれた横浜での「汚ない。役にたたない者」として、野宿している日雇労働者を、差別・虐殺した事件こそ、近年の時代風潮−流行り言葉風にいえば、気分はほとんど”ファシズム”−を、もっともよく映すものであった。
だから我々は、寿日労を中心としたこの事件に対する糾弾闘争を通じ、同様な事件が全国で起きていることを釜日労・争議団の調査などで知るに至り、”ファシズムの予兆”をみる、と警告してきた。
横浜で野宿者を襲った少年らと、ナチス棒を振りかざして襲撃してくる西戸組の若者との距離は、きわめて近い。「環境浄化」という点ではまさに、両者は共通の認識を持っている。
我々は、西戸組の武装襲撃をファシズムの特徴である「プロレタリア階級に向けられた暴力」、左翼壊滅をねらう「突撃隊」の役割りを担うとみている。
まさに、横浜での”予兆”は、山谷で”明示”されたのである。 国際・国内情勢を詳しく述べることは、ここではしないが、「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根政権の誕生により、「55年体制」の崩壊は加速されている。
行財政改革、軍拡路線に加え、「教育臨調」なるものも内閣直属で設けられようとしており、これは「85年体制」をめざす、イデオロギー準備ともいえる。労働戦線においては、現代の「産業報国会」的様相の濃い、全民労協への銃一が促進されてきている。 世界的な不況と国際緊張の高まり、国内の政治・社会的再編の進行、このような情勢を背景として、大日本皇誠会=西戸組の階級的労働運動への武装襲撃が必然化された、とみるべきであろう。
いまや、暴力団の在り方も、情勢に見合った変身を迫られている。彼らもまた、生きのこるのに必死なのだ。右翼政治結社を名のり、左翼の撃退=環境浄化を任務としようとした西戸組の登場は、権力者−資本家に迎合したものともとれる。実際、権力−資本の側にとっても、自らが手を汚さずに、右翼・暴力団を利用するのは、よく使われる手だ。
侵略と戦争
だがしかし、今はそのような現れ方であっても、これが改憲を画策する潮流と大結合し、天皇制イデオロギーで総武装されるとき、ファシズムとして一挙にうねりを高め、侵略と戦争に突入していく危険性は、戦前の例をみるまでもなく、今もある。そうした意味からも我々は、西戸組の襲撃、国粋青年隊の登場を、過小評価してはいない。
全支配の矛盾が集中し、緊張度が激しい下層社会、その中でも特に寄せ場においては、支配の本性が真っ先に、赤裸々な形で体現される。
ここでの統治様式は全支配に先がけて貫徹されるのであり、だから、現在の我々の闘いは、まず下層社会で顕在化してきたファシズム潮流との前哨戦と位置付けられる。
闘いは長期化し、山谷の地においては、今尚対峙関係が続いている。勝利のためには、広範な包囲網を形成し、官憲共の弾圧を許さず、右翼・暴力団を孤立させることが必要だ。 我々日雇全協は、ひき続き前線において闘う決意であり、その任務を自覚している。我々の敗北は、ファシズム潮流を勢いづけてしまう、と言っても過言ではないだろう。 最後に、この絶対負けられない、闘いとしてある対皇誠会=西戸組闘争に、全国のみなさんが注目し、保釈金カンパ等、あらゆる形で支援−連帯されることを、訴えておきたい。
風間 竜次 全国日雇労働組合協議会(日雇全協)議長
ニュースの追跡・話題の発掘
レーガン訪日への予防検束?
山谷抗争の背景は
逮捕者 大半が新左翼系労働者
”暴・労の争い”に警察悪乗り・・・・の声 1983.11.8.東京新聞
不況風ひとしおの東京・山谷で、暴力団と新左翼系の日雇労働者組織が対立抗争を演じている。手配師業務をめぐって暴力団が失地回復をねらったらしい。
今月3、4日の騒ぎで逮捕者43人。ところが39人までが労働者側。「不公平だ。レーガン来日に合わせた予防検束ではないか」の声もある抗争事件の背景はー。
●うまみ失った暴力団
「いやあ、実際はシマ争いみたいなものなんですよ」 今回の一連の騒ぎを取り締まった浅草署の佐藤勉副署長が、さもうんざりといった様子で言った。
昔から暴力団の抗争といえば、相手は暴力団と決まっていたもの。それが”闘争慣れ”した新左翼系とはいえ労働者を相手とはどういうことか。このあたりに山谷地区が置かれている特殊な状況がある。
抗争を仕掛けたのは、暴力団国粋会金町一家西戸組。山谷地区には同系の金町一家金町企画というグループもいて、こちらは主に路上とばくを仕切っている。このため事件当初は「ばくちをめぐる労働者と暴力団が抗争?」という誤解も飛び出したが、西戸組の方は、勢力減の目立つ義人党に代わって1年前から山谷の手配師業務に参入しようとした新興勢力。争いのもとはあくまで「労働問題」だったのだ。
●不況と労組の板挟み
一方、相手方とされた山谷争議団は、これまで日雇い労働者の給与や待遇をめぐるトラブル相談に応じたり”生活闘争”に力を入れてきた新左翼系の労働者組織。メンバー約15人も自ら建設現場で働く日雇い労働者である。 この両者がなぜ対立する羽目になったのか。山谷争議団と並ぶ労組組織でもある山谷統一労組の布川明比古委員長の見方はこうだ。
「われわれも最初は一体何が起きたのかと思ったぐらいなんです。しかし考えてみれば暴力団もこのところの不況で、ピンはねしようにもうまみがなくなってしまった。そうなると日雇い労働者の味方をするわれわれや争議団が目の上のコブというわけです」
不況と組合攻勢の板挟みにあった西戸組が、組合をやっつけて一気に山谷内の覇権を確立しようとしたというのが布川委員長の見方だ。 現に、最初の仕掛けは3日早朝、労働者たちが”立ちん坊”と呼ばれる路上職探しをする涙橋(なみだばし)交差点で行われた。
●争議団に逆襲されて
この日、西戸組は、その名も「皇誠会」という右翼結社に衣替えし、靖国神社に集団参拝するだった。その前契機づけに、労働者たちの目前で争議団のメンバーをやっつけ、勢力を誇示するつもりだったらしい。ところが争議団に逆襲され、トラの子の宣伝車まで燃やされて計画はパー。あとは双方血みどろの抗争となってしまった。
西戸組としては、右翼結社「皇誠会」として政治的に山谷争議団を制圧したうえで、暴力団支配の昔に戻したかったのだと山谷関係者はみる。
それを裏付けるように、西戸組が4日夜まいたビラを見ると、「日本刀」とか「渡世人」とか「争議団を絶滅する」など物騒な表現があって暴力団丸出し。 西戸組側は金属製の特殊警棒や、3日に4人が傷害現行犯で逮捕された催涙ガス・スプレーで武装している。しかもビラは争議団幹部を名指しでテロ予告している。
あわてた争議団はビラがまかれ直後、急きょ赤ヘルメット、旗ざおで対抗しようとした途端に機動隊に包囲され、凶器準備集合罪で根こそぎ検挙されてしまったのだ。西戸組からはこの時は1人も逮捕されなかった。
●『明らかに狙い撃ち』
逮捕者の中には大阪、名古屋、横浜から駆けつけた全国日雇労働組合協議会のメンバーらも含まれていた。それが、山谷関係者たちが、「政治逮捕だ」とみる理由だ。
布川委員長が言う。 「私もあの場にいたらやられていたかもしれない。明らかに狙い打ちですよ。レーガンが9日に来るでしょう。われわれも反対集会の予定を組んでいたんだ。暴力団の挑発に悪乗りした予防検束としか考えられない」
大量逮捕と同じ日に、17時間も西戸組に不法監禁されていた争議団メンバーの捜索依頼に浅草署が消極的だったことも、住人たちのこうした警察不信を募らせている。
(写真1)4日夜、労働者への個人テロを予告してまかれた暴力団のアジビラ (写真2)労働者側に放火された暴力団の情宣車・・・3日、東京・山谷で