〈呼びかけ文〉
あらためて「釜ヶ崎差別」とのたたかいの道をさぐる
横浜市寿町日雇労働者虐殺を機に

1、はじめに

(1)寿町事件の衝撃

 中学生ら少年の集団が日雇労働者3名を殺し、13名に重軽傷を負わせた。 子どもたちは主張した。「町を汚しているからきれいにした」「おもしろ半分の遊び」「こんなことでなぜ逮捕されるのか」……と。
 これが大きく報道されたとき、人々は暗然とした衝撃を受けた。釜ヶ崎の労働者は「大阪でも似たような事件が起っている」と訴えた。また、中学生を教えている教師たちは、自分の教えている中学生の心の中に、こうした「暴走」を起しかねないものがあると証言し警告した。
 こうして3月12日に「少年らを虐殺にかりたてる時代を撃つ」討諭集会がひらかれ、200人が参加した。
 いま必要なことは、こうした事件について、あれこれと諭評するだけでなく、有効・的確な行動を起すことである。 行動のための指針が求められている。これはそのための一つのたたき台である。

(2)事件が浮きぼりにしたもの

@ 今日の中学生たちの胸中には、”めあてのない欲求不満”が渦巻いている。その不満のはけ場所が弱いところ、弱いところへと向けられている。
 そして大人たちは、そうした子どもたちの、”暴走”をみてみないふりをしたり、「どうしようもないもの」視したり、どうしたらよいか具体的な手だてがみつからずに手をこまねいて動かない。ここに今日の時代の危機がハッキリとあらわれている。「ファシズムの予兆」とみることもできる。
 しかし、それ以上に深い「暗黒の時代」ではないかという思いにかられる人もある。 ナチスは「浮浪者」、精神「病者」狩りを行い、次いでユダヤ人大量虐殺を行った。日本でも、関東大震災の時の朝鮮人大虐殺があり、「昭和」の軍人。右翼による「暗殺の時代」があった。
 しかし、それはいづれも大人の世界のできごとである。子どもたちが、これだけ人命に対して残酷・無神経になっている時代はかつてなかったのだ。それだけ子どもの心身が深く病み、傷ついているのだ。
 それは、それだけ今日の時代が暗いこと、大人たちの世界が絶望的なほど腐敗していることの反映なのだ。そうした自覚すらが、極く小数者のものでしかない「豊かな社会」に酔っている時代の反映なのだ。
A つまり、「豊かな社会」こそが問題なのである。どうして「豊かな社会」にあって、寿町や釜ヶ崎が存在するのか。 部落差別や在日朝鮮人差別がなぜ存在しつづけるのか。つまり、今日の「社会」の歪み、というよりは根本的な”非人間性”があばかれたといえる。
 かっては「暴動」という型でそれが麦面化した時もあった。「暴動」はそれなりに”健康”な側面をもっていた。 今日は少年たちによる「虐殺」という恐ろしい行為によって、「豊かな社会」という幻想がふきとばされようとしているのだ。
B 中曽根内閣は、日本を「不沈空母」とし軍事費増大、福祉切捨てをおこなっている。不況の中で倒産・失業が増大し、民衆の不満は出口を求めはじめている。自衛隊による軍事クーデター計画の発覚は、予防反革命的な性格すらおびている。
 「力ヘのあこがれ」と社会的「弱者」への嫌悪というファシズム的心理は、テレビのアニメの世界だけでなく深く社会を覆っている。
 「部落民はウジ虫だ、毒ガス室へ入れろ、皆殺しにせよ」という差別落書は、その陰惨な民衆の心の暗部を照らし出すものといえる。「障害者」差別やいわゆる「釜ヶ崎差別」も同じである。 今こそ、反差別・反権力・反戦の戦いの構築の時である。

(3)なぜ、あらためて「釜ヶ崎差別」を問うのか

 「ファシズムの予兆」「今日の時代の危機」を象徴するものとして、そして「豊かな社会」の幻想をあばくものとして横浜寿町事件があり、「釜ヶ崎差別」がある。現代をこうした視点でとらえなおすことは、それなりに意義がある。

 しかし、より現実的に考えてみたい。 いま「大阪城築城400年」が、自治体・財界を中心に大きなイベントとしてすすめられている。国鉄駅の新設や「大阪城国際文化スポーツホール」をつくったり、中国の泰の兵馬俑(よう)の展示やなにわ名店街を現出する大阪城博覧会や「世界の帆船まつり」など華やかムードの中に、大阪の地盤沈下を憂える人々が、こうした行事によって何らかの利益と大阪の繁栄を願っていることは明らかである。

 私たちは「築城400年」を推進する思想では、明日の大阪、日本、世界における人類の幸福はないと考える。逆に、巧みに危険なナショナリズムに人々がからめとられると考えている。 「大阪城」をめぐって、被差別部落、朝鮮人差別、釜ヶ崎差別等々がどういう構造をもっているのかを明らかにしたい。

(4)大阪城と差別・釜ヶ崎・侵略戦争

大阪城は一向宗(浄土真宗)の拠点石山本願寺の焼打後の跡地につくられたものである。1488年から1580年まで約200年間、「百姓の持ちたる国」として農民の自治国家がつくられていた。
 蓮如は布教の拠点として石山本願寺の寺内町をつくったが、1570年から10年間の攻防の末、加賀の一向一揆と共に圧殺された。 後に「えた」といわれる賤民身分のもとになった一向一揆の参加者を「かわた百姓」として、身分を百姓より下にしたのは豊臣秀吉である。
 秀吉は太閣検地で「かわた百姓」らの小作地を自作地として、地主層との対立を導入し、一揆等の集団的団結が出来ないようにして、年貢を直接代官所に納めさせ、地主の中間搾取を排除することにより60万人の膨大な家臣団を養う経済基盤を確立したのである。

 この経済力即ち搾取の上にたって二度にわたる朝鮮侵略をおこなったのである。 大阪城の築城と被差別部落の形成と朝鮮侵略はかたく結びついているのである。

 日露戦争前夜の1903年(明治36年)国威発揚として第5回内国働業博覧会が現在の新世界、天王寺公園一帯において開かれた時、当時西成郡今宮村であった今の釜ヶ崎地区に木賃宿が移された。これが都市スラムの「釜ヶ崎」の発端である。
 しかも、この勧業博覧会では、大阪城復興の模型が展示されると共に人類会として「アイヌ」「台湾人」「沖縄県民」等の女性を見世物として扱う非人間的な差別がおこなわれた。沖縄県民の抗議闘争が組織されたのはこの時である。

 中国侵略が本格化する1931年(昭和6年)「満洲事変」の時に犬阪城の天守閣の再建運動がおこなわれ、住友の25万円をはじめ市民の寄金150万円が集められた。だが鉄筋コンクリートづくりの天守閣は47万1,000円でつくり、6割相当の80万円で陸軍第四師団指令部(現・大阪市立博物館)をつくって陸軍に寄付することが条件だったのである。 大阪造兵工廠への1トン爆弾の雨はまだ記憶に生々しい。

 大阪城が、差別と民族抑圧と侵略と民衆への死を強制するシンボルとしての一面をもっている事を見のがしてはならないのだ。
 釜ヶ崎の子どもたちの教育にしても、「教育以前」の状態からいくらかの改善はあったとはいえ、本質は何も変化していない。見えにくくなっているにすぎない。
 私たちは、「どん底」を生き抜く人々の現実を直視することから、現状の虚偽をあばくとともに、真に、人間の解放につらなる社会への展望をさぐりだしていきたい。

2、釜ヶ崎労働者の現状とたたかい

(1)現状の特徴

@ 釜ヶ崎は全国最大の”寄せ場”日雇労働者の町である。高度成長時代に労働力市場として膨張してきた”寄せ場”は、70年代のオイルショック、構造不況の到来とともに仕事が減少し、縮小、分散化が進行している。
 就労部門についても、合理化が進む製造、運輸等への就労は絶対的に減少し、70年代後半、公共投資によって何とかささえられてきた建設部門への就労が現状では9割をしめており、公共投資の凍結がアブレ(失業)状態に拍車をかけている。
 こうした状況の中で”寄せ場”は「アブレ地獄」の中にたたき込まれ疲幣化し、労働者の高齢化と病弱者「障害者」の比率が高くなっている。
A 現代資本主義社会の諸矛盾が、集中的に、露骨に存在する”寄せ場”ー釜ヶ崎において、労働者は、差別分断支配の中で厳しい抑圧をうけている。
 就労方法にしても、法的には禁止されているはずの「人夫出し」「手配師」(私設口入れ屋)がまかり通り、これを「経営」する暴力団等を利用して大手独占資本は、強搾取を行っているのである。
 超近代的といわれる原子力発電にしても、こうした就労構造を通じて釜ヶ崎労働者は、もっとも危険な作業に従事させられているのだ。

 また、せっかくの「稼ぎ」も、不当に高いドヤ代、何百軒とある飲み屋、ギャンブル等に吸いとられてしまう。更には、売血のために京橋の「ミドリ十字」の前には、何百人もの釜ヶ崎労働者が列をなし、行旅病死した場合には、大学の医学部の解剖材料になる。 まさに血の一滴まで搾り取るとは、こういうことを言うのだろう。これが釜ヶ崎労働者がおかれた現状だ。

 「浮浪者」と呼ばれる者の多くは、仕事にアブレた日雇労働者だ。現在の社会構造の中で日雇労働者が置かれた現状を把握しないで、現象面だけを列挙することは、差別に他ならない。

(2)釜ヶ崎労働者のたたかい

@ 組織と運動
 61年第1次釜ヶ崎大暴動に始まり60年代、いく度となく釜ヶ崎労働者は、暴動を起こした。
 暴動は一般的にいわれるように、いわれなきものではない。自らにかけられた抑圧に対する自然発生的な「異議申し立て」に他ならなかった。

 69年には、全港湾建設支部西成分会が結成される。西成分会は、行政闘争を中心に、釜ヶ崎においては始めて、労働団体として定着し、現在に至るまで、その積みかさねは続いている。

 72年には、労働現場と朝の寄り場(労働福祉センター)を暴力的に支配していた「手記師」「人夫出し」との直接的な対決を通じて暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)が緒成される。

 釜共闘のこれまで誰も手をつけられなかった暴力支配に対しての「体を張った」闘いは、多くの釜ヶ崎労働者の共感と参加を獲得し、釜ヶ崎の暴力支配に転換をせまる役割を担った。だからこそ今でも、労働者は親しみを込めて「業者」側は恐れをもって「カマキョウ」と呼んでいる。釜共闘は、警察の強圧的な弾圧もあって、75年事実上解体を予儀なくさせられる。

 76年には、釜ヶ崎日雇労働組合(釜日労)が結成される。釜日労は不況でアブレが厳しい時期、越冬闘争や次き出しのねばり強い闘いを継続するとともに、暴力飯場追放などの闘いを行ってきた。

 80年に入り、新たな再編−統合が始まり、82年6月27日には、山谷争議団(東京)、寿日雇労働者組合(横浜)笹島日雇労働組合(名古屋)、釜ヶ崎日雇労働組合・争議団(大阪)の4組織により、全国日雇労働組合協議会(日雇全協)が結成され、現在に至っている。
A 運動の現局面の評価
 現在、資本主義は世界的に危機的状況にあり、日本もまた例外でありえない中で、大量失業時代が到来しつつある。
 こうした情勢により、すべての運動が点検をせまられているといえる。労働運動しかりであり、反差別の闘いもまた同様である。それぞれの運動が個別の領域、利害にとどまっているだけでは闘えなくなってきているのが現状ではなかろうか。
 中曽根政権は「軍拡」ー「行革」路線で、ますます労働者人民への支配、抑圧を強めている。これと闘うためにも、闘う側の主体の変革が求められている時代だともいえる。

 釜ヶ崎−寄せ場日雇労働者の闘いについてはこれまで、その積極面についても多くの人々には理解されず、逆にマイナス面のみが印象づけられてきた事実がある。
 また、釜ヶ崎労働者組織の分裂・分散状況も一方にあり、「孤立化」させられてきている。 今後はより広範な運動、組織と交流、共闘し、これを克服していくことが求められている。

3、「釜ヶ崎差別」を考える

(1)一般の人びとの社会的意識

 釜ヶ崎に対する一般的差別意識は「なまけもの」「のんだくれ」「汚い」「何をするかわからない」等々あるが、「社会の落伍者」とみなす傾向が強い。工事現場などでも「勉強しないとあの人のようになってしまうよ」と子供に言う母親がいるのは、しょっちゅうだ。
 そして、「かかわりたくない」、「みてみぬふりをする」消極的対応から、「近所で寝て困る」「美観をそこねる」と排除するクリーン作戦に積極的に参加するものまで、「存在してほしくないもの」として、「処分」されようとしている。

(2)行政の対応

 70年10月開設した「あいりん」総合センターの中にある「あいりん職安」は、この13年間、一度たりとも仕事を紹介したことのない、奇妙な”職安”である。
 このため就労紹介は「柏対方式」と呼ばれる方法で、法的には何ら権限をもたない福祉センター(財団法人)が仲介し、事実上「手配師」、「人夫出し」の中間搾取が容認されている。

 行政は慢性的な失業状態についても根本的な対策をしたことがなく、福祉についてもきわめて不十分であるばかりか、逆に切り捨ての傾向を強めている。日雇雇用保険制度における特別措置であった就労申告書の昨年8月での一方的廃止、82ー83越年対策の縮小、今年7月に国会上程が予定される日雇健保の廃止方向、などがそれである。

 また警察は、治安対策として釜ヶ崎労働者を潜在的な犯罪者とみなし、一般「市民社会」では考えられないような暴力的対応、人権侵害を平気で行なっている。つい最近明らかになった南署の野宿者に対する逮捕のおどしをかけた指紋採取・顔写真の強要はその一端にすぎない。

(3)労働運動、反差別の闘いを前進させよう

 「釜ヶ崎などできたらなくしたい」。こう思ったところで、資本がもっとも安価な、使い捨て自由な労働力として釜ヶ崎を利用しており、存続させてきたのであるから、なくなるわけがない。 大型の国策事業があるたびに全国から労働力が狩り集められ、寄せ場は膨張した(64年東京オリンピック、70年大阪万国博)。 そして現在、不況の中で仕事にアブレ(失業)て、野宿せざるをえない労働者が増えていることに対して、隔離、抑圧攻撃が強化されている。

 南署の指紋採取、顔写真強要にしても、在日朝鮮人を「潜在的犯罪者」とみなす外国人登録証と同様な治安対策であり、こうしたことを黙認するならば、人権侵害の拡大をゆるしてしまうことに結果してしまうだろう。

 釜ヶ崎労働者のおかれた状況は、特殊に現象していようと、資本主義下における労働者の普遍的姿だ。 釜ヶ崎労働者には解体された農・漁村出身者、閉山した炭鉱を追われた労働者、が多い。又、被差別部落民、沖縄出身者、在日朝鮮人、「障害者」等、被差別大衆も多い。

 釜ヶ崎には資本主義の赤裸々な姿、差別、抑圧の露骨な姿がある。現代社会を写し出す鏡だ。釜ヶ崎に対する本工組織労働者の対応の「にぶさ」の原因は、釜ヶ崎労働者を特殊化する差別にあるのではなかろうか。

 現在進行している労働戦線の右傾化、資本の巧妙な分断支配を打ち破るためにも、反差別の闘いは重要である。政府自民党は「横浜寿町事件」を契機になお一層支配を強化せんとしている。瀬戸山文相の戦前の道徳教育のみなおし論、中曽根の日教組攻撃、などがそれだ。日雇労働者に対しては保安処分的攻撃。これと対決する広範な戦線づくりが要請されている。
 それぞれの職場、地域、諸戦線での運動と結合させ、「債浜寿町事件」ー釜ヶ崎の問題を考え、共に行動することは、労働運動、反差別の闘いの前進にとっても重要な課題である、と考える。

4、たたかいの基本方針

(1)目標と課題

@ 「横浜寿町事件」続発する少年らの日雇労働者に対する暴行行為などをなくすために様々な立場から行動する。
A 行政財界が10月の大阪城400年まつりのために、「クリーン作戦」、(差別・抹殺)を強行しつつあることに対抗して、反戦・反差別・反失業の立場から釜ヶ崎問題にとりくむ。
B 釜ヶ崎労働者の基本的人権の確立。労働基本権の確立。自立・自治をかちとる。
C 釜ヶ崎労働者の生命・健康、生活・就労、教育福祉の保障。
D 地域住民との話し合いを強め、「同和対策」新法における周辺地域との一体性の積極的実現をはかる。
E そのため行政闘争の強化と、自立・自助・自闘の強化を結合していく。
F 同対審答申・特別措置法などの部落解放運動から学び、「釜ヶ崎差別」をなくす綜合計画の樹立と実施をかちとる。そのために具体的な成果をつみ上げていく。

(2)たたかいの主体

@ 組織された釜ヶ崎労働者の統一行動の強化。拠点の強化。
A 大衆運動路線の堅持

(3)広汎な共闘・支援体制の確立

@ 「”釜ヶ崎差別”とたたかう連絡会」(仮称)の結成を早急におこなう。釜ヶ崎地域の労働団体を中軸として趣旨に賛同する個人・団体を広く結集する。
Aより広汎な各界の有志による「”釜ヶ崎差別”を考える会」の発足をはかる。

5、当面の具体的行動計画

(1)「”釜ヶ崎差別”とたたかう連絡会」準備会を開催して要求・行動をまとめる。
(2)当面の行動として
@行政・警察の「浮浪者」とりしまり方針の撤回。
A大阪府・市に対する就労保障、福祉拡大の要求。
B大阪市教育委員会との交渉。
  *”釜ヶ崎差別”をどう教えるか。
  *新今宮小中学校の今後のあり方。
C寿町事件調査査団の派遣。
世話人(順不同) ・西成教会牧師 金井愛明(世話人代表) /矢田教育共闘会議 西岡 智 /矢田解放塾 黒田伊彦 /市教組南大阪支部 市川正昭 /彫刻家 金城 実/関西大学教授 森井 ワ /弁護士 中道武美 /弁護士 山上益郎 /京都部落史研究所 師岡佑行 /差別と闘う文化会議 土方 鉄/牧師 桑原重夫/関西キリスト教都市産業問題研究会 小柳伸顕 /牧師 ロン藤好 /釜ヶ崎労働者 平井正治 /日雇全協釜ヶ崎日雇労働組合 /全国金属労組桜井鉄工支部 /釜ヶ崎夜間学校 /「労務者渡世」編集委員会 /釜ヶ崎医療連絡会

「釜ヶ崎差別と闘う連絡会(準)」1年の歩み

<1983年> 2月 横浜で「浮浪者」差別虐殺事件 3月12日「少年等を虐殺にかりたてる時代を撃つ」3・12討論集会 その討論をふまえ「”横浜事件’糾弾を通じて差別一分断支配と闘う連絡会」(仮称)結成を呼び掛けた
6月5日 「釜ヶ崎差別と闘う連絡会(準)」結成
8月12日〜15日 第1回釜ヶ崎実態調査(9月と12月に、調査結果の中間報告を発表)
9月25日 シンポジウム「釜ヶ崎差別と大阪築城400年」を開催 大阪築城400年祭の名のもと、強行されようとしている「浮浪者狩り」に向けて世論を喚起し実態を暴露するため
9月29日 大阪市は、ウメダで「大阪市住所不定者実態調査」という名の「浮浪者狩り」を強行しようとしたが台風接近のため中止
9月30日 大阪市は、調査を強行、連絡会の監視・抗議行動により成果を挙げられず
10月4日 「大阪市住所不定者実態調査」がナンバで予定されていたが、中止された 連絡会40名の結集で阻止(14日ごろひそかに行われた)
11月20日 大阪市長選候補者への質問状一回答(回答の内容は連絡会ニュース第4号で既報)
12月10日 フェスティバルホールで開かれた世界人権宣言35周年大会にビラ入れ
12月21日 越冬前段パトロール
12月24日〜1月17日 越冬闘争有志参加
<1984年> 1月6日 学習討論集会(反差別・反保安処分をテーマとして医療連と共催)
1月15日 アオカン労働者アンケート調査(医療連と合同で)
4月11日 山谷事件アピール
5月16日 新今宮小・中学校跡地利用に関する要望書(案)を世話人会に提出 以後、現在に至るまで、この新今宮小・中学校跡地を地域の労働者子供・住民の施設として解放させるための諸活動を展開している。


おわりにあたって

「釜ヶ崎差別と闘う連絡会(準)」とは

 順序が後先になりましたが、ここで、この小冊子の発行主体である「釜ヶ崎差別と闘う連絡会(準)」について説明し、参加を要請したいと思います。

 「釜ヶ崎差別と闘う連絡会」(以下連絡会と略)は、横浜寿町での日雇労働者殺傷事件(1983年2月〉が契機となって結成されました。
 横浜寿町のできごとは、寿だけのことではなく、釜ヶ崎にもおこりえるし、事実おこっているだろうという予測のもとに、釜ヶ崎の日雇労働者で組織している釜ヶ崎日雇労働組合が、釜ヶ崎周辺、ナンバ、ウメダの青カン者に暴行を加えられたことがあるかどうかを確認したところ、やはり大阪においても横浜と同様のことがおきていることが確認されました。
 その事実を踏まえ、「少年等を虐殺にかりたてる時代を撃つ!2・12 シンポジウム」がひらかれ、障害者、沖縄出身者、教育労働者、被差別部落大衆、釜ヶ崎労働者、在日朝鮮人、学生、市民、労働者など、約200人が参加し、横浜事件の根を断つための行政施策と「横浜事件糾弾を通して差別分断支配と闘う連絡会議(仮称)」が提起されました。

 シンポジウムでの提起の具体化は、市教組南大阪支部市川氏、矢田教育共闘会議議長西岡氏、矢田解放塾の黒田氏、全金桜井鉄工支部、釜日労などで話が詰められ、1983年6月5日、「釜ヶ崎差別と闘う連絡会(準備会)」の発足となりました。

 「準備会」としての発足は、釜ヶ崎内における労働組合の共闘を促進し、広範な勢力の結集を計るための処置で、総評傘下の全港湾建設支部西成分会の参加をあくまで追求していくとの世話人会での一致した意見によるものです。
 7月20日には、事務局を当面、釜日労に置き、代表世話人を金井愛明牧師とすること、世話人としては前出の3氏の他に、山上益郎氏、小柳伸顕氏、金城実氏、桑原重夫氏、師岡佑行氏、森井ワ氏、中道武美氏、土方鉄氏、らが確認されました。
 会の会計は一口千円の年会費とカンパでまかなわれており、ニュースは84年8月現在5号まで発行されています。
 連絡会の具体的な活動内容については、本パンフレットの「釜ヶ崎差別と闘う連絡会(準)1年の歩み」の頃を参照して下さい。

 この1年間、連絡会は、多くの人々の物心両面にわたる助力によって、釜ヶ崎差別を打ち破る闘いの一翼を坦う、様々の活動を展開して来ました。しかしそのすべてが満足のゆくものであったとは決して言えません。多くの問題点がいろいろの人々から指摘されています。
 そして現実がつきつけてくる課題の大きさにくらべれば、連絡会の現在の力量はまったく微力なものです。それにもかかわらず、現代日本の差別状況の一大焦点である釜ヶ崎の地から、反差別の闘いを構築することをめざして来た、連絡会の活動のはたした役割は小さくなかったであろうと考えます。
 昨年未から今春にかけて激烈に闘われた山谷闘争が象徴しているように、寄せ場にかけられてくる抑圧、差別、隔離の攻撃は強まりこそすれ、弱まることは決してない、という現状況下にあって、連絡会に課せられる課題はますます、重く、大きくなっています。
 このような時点にあって、連絡会1年の活動を振り返り、総括しておくことも必要ではないか、という問題意識のもと、世話人会の了承を得て、このパンフレットは編まれました。
 同時にこれによって、釜ヶ崎の状況と、そこでの連絡会の諸活動ついての人々の認識と理解が深まれば、という願いもこめられています。そして、このパンフレットが現在、多くの地で、多くの人々によって闘われている反差別の闘いの拡大と深化に役立つことをもひそかに期待しています。多くの人々の助言と助力をお願い致します。

<付記>なお、本パンフレットの1983年8月実態調査報告の部分は、1983年12月に当会より発行されたパンフレット「釜ヶ崎と人権−83年8月実態調査報告」の一部を再録したものであり、その執筆分担は、労働と生活−牛草、実態報告の寿事件及び生活−平川、労働現場−原、補論−本間である。

釜ヶ崎からの現場報告

――労働・生活・運動――

発行 釜ヶ崎差別と闘う連絡会(準)
大阪市西成区萩之茶屋2ー5ー23
釜ヶ崎解放会館2階釜日労気付
発行日 1984年8月24日
定価 800円
印刷 関西プリントセンター