釜ケ崎序曲

釜ケ崎差別と闘う連絡会(準)事務局長 奥田雅章

現 場

 釜ケ崎の朝はドヤから始まる。
 朝四時に起きてセンター(アイリン職安下の寄り場)へ出掛け仕事を捜す。
 センターのシャッターは5時に開くが仕事は4時から始まっている。春夏秋冬現金で暮らすにはこれしかない。朝まだ明けやらぬうちに、うまくいけぱ今日の仕事が決まる。

 求人に来る人夫出し(労働者供給事業=口入れ屋)の親父、請負業の親方に、俺達を売りつけて仲介料をピンハネする手配師と仕事の条件で折り合いがつけぱ車に乗り込む。これでその日の就労が決まり日当7500円で各現場へ配送される。

 仕事の内容は親父が決定するのではなく、元請が決定する。 その元請(正確には二次〜三次下請だが人夫出しにとっては元請〉を人夫出しの親父は大手であれば20社、小さいところならぱ数社持っている。

 だから毎日仕事の内容が違う。
 片付け仕事もあれぱ、トビ職の手元、コンクリート打ち、掘り方(東京では根切り)など、その日にならなけれぱ、何をするのかわからない。

 そこで親父は考えた。仕事の条件や職種を明示すれば、そこから組合や労働者に付け込まれるから、土木・建築・雑役にすれぱ、全ての作業を言い表わせると!
 以来、建築・土木(建・土)・雑役が罷り通る。

 1972年5月28日までセンターは現金求入業者が構成する親睦会の代表である鈴木組が支配権を握っていた。
 その頃、条件違反は日常的になっており、文句を言えば親父に袋叩きにされた。現場からトンコ(逃亡)すれぱ翌朝センターを捜して逃げた仲間にヤキを人れる。
 職安法四四条[(労働者供給事業の禁止) 何人も、(中路)労働者供給事業を行い、又はその労働者供給事素を行う者から供給される労働者を使用してはならない。 ]に違反した業者であり、その多くは暴力団を背景にした人夫出し業者だ。

 69年、全港湾西成分会が結成された。71年にはそこから出た若き左派グループが先頭になってこの暴力支配と闘った。それが1972年5月28日の鈴木組闘争である。この闘いに勝利し釜共闘(暴力手配師追放釜ケ崎共闘会議)が結成され、センターを労働者のものとしてからは手配師・親父に怯えることがなくなった。
 それ以降、手配師・人夫出しは労働者には暴力を振るわず、表面上大人しくなったが、労働者の力が弱くなればいつでもまた昔のようになる。
 ともあれ、8時から仕事をする。 釜から来た仲間は2〜3人に分断され、元請の人間が必ず1人ついてアゴでこき使う。労基法でも10時の休憩は認めているが、仕事の都合で仕上げなけれぱそのまま昼までない。
 12時前ぐらいに上がり、汚れた顔と手を洗って飯を食べたいが、12時まで目一杯こき使うところが多い。

 夏の暑い時など、人夫出しの飯は食べられたものではない。(神明興業は薄いポリエチレンの器に飯とタクワンーおかずは塩昆布だけ。そのことをよく知っている労働者はおかずとパンを事前に買っておく。)まして水もない時(本隊、監督はお茶を持って来ているが日雇いには飲ませない。)水道まで水を飲みに行こうものなら、監督とケンカになる。  昼飯もそこそこに、疲れを癒すために日陰(冬ならば乗って来た車か焚火の傍)で体を休める。
 この時が一番落ち着くことが出来る。1時になれぱ、また3時まで働かなければならない。 3時を過ぎれば、今日の日当を貰ったようなもので、気も楽になり、まあ仕事にもそこそこ気が人る。

 しかし、5時間際になって仕事をあわててやりだし、終われないようにして5時過ぎまでやらす。 顔と手を洗ってくるまに乗り込めば5特30分、人夫出しの会社に着くのがおおよそ6時(現場払いでそのまま西成へ帰ることが出来る場合もある)、金を受け取り日雇手帳に社会保険の印紙を貼ってもらい、会社をあとにするとそこで自由になる。

 朝4時30分から夜7時までこき使われる。

 業者と顔見知りであり、仕事によく行っていれば朝6時に車に乗り込めばよい。朝の求人を受けないで直接会社に行くこともある。また、友人に仕事をまわして貰うか、自分で直接求人に来る親父(人夫出しではなく、自分で請け負っている)を捜して仕事にありつく。

 釜ケ崎の仕事もこの10年で大きく変化した。
 70年まで港湾・製造・運輸、そして建築・土木と民間主導の仕事が多かったが、73年のオイル・ショック以降、港に合理化の嵐が吹き荒れ、それまで多くあった本船仕事(仲仕)がコンテナ化でぷっつり無くなった。
 新日鉄も必ず2〜3次下請には釜ケ崎の労働者がいたが73年以降極端に減少した。 釜ケ崎労働者が資本の都合により使い捨て自由な労働力商品としてプールされているのがよくわかる。

 73年以降それまでのにとってかわったのが公共投資型の建築・土木である。
 学校・上下水工事・公共住宅等が多く、これらは3月に年度末を迎え、5・6月に入札発注する。 釜の労働者が土方として登場するのが6月半ぱで、基礎を掘り下げ、捨コンを打ち、すみ出し、鉄筋を組み仮枠を固めるのが7〜8月、それから年度末の3月までに国・府・市に納めるために追い込みをかけ、片付け雑役仕事が多く出て釜ケ崎は一年中で一番活気を見せる。

 仕事を終えて 釜へ帰ってくるのが7時30分、新今宮の東出口を降りると霞町の交差点。踏切を渡ってすぐの道が釜ケ崎銀座通りだ(旧住吉街道)。両脇にドヤをしたがえ、一杯飲み屋とめし屋、喫茶店が並ぶ。
 夏ならぱビールかチューハイ、冬ならぱ熱燗、いきつけの店でまず一杯、二杯飲んでやっと落ち着く。 明日の仕事を考え、そこそこにしてめし屋に行く。
 ドヤが生活の基盤である限り自炊はできないが外へ行けぱめし屋にはこと欠かない。

 朝六時から天然ハマチのつくりとマグロのつくりに味噌汁、肉豆腐、ステーキ・肉料理・中華、日本食をやっている店があり、夜には安くて量が多い焼肉屋、すきやきを食ぺさせる店など、うまくて良い材料を使っているわりには安い食堂・レストランもあるが、それ以外は腹を膨らませるだけの店が多い。
 おかず・味噌汁は総体的に辛い目で野菜が少ない。 果物類は市価より2〜3割高めで、時々古いものもある。

 腹も一杯になったし、夕涼みがてら三角公園へ行って見る。
 公園東側のテレビの前は黒山の人だかりになり、ジャングルジムの上に乗って見たり、新間紙を敷いて座ったり寝転んだりして見ている。
 西側は、チョボイチ、丁半バクチ、シゴイチ等のサイコロバクチの真盛りだ。西成署から50メートルも離れておらず、目と鼻のさきで白昼からバクチをやっている。これに手を出したらものの一分もしないうちに日当がとんでしまう。
 バクチの年間の利益が10億と言われ、極道の資金源になっている。三角公圏は一和会系溝橋組(元山口組直系若衆の1人)が実権を握っている。高谷組二代目(酒梅組)も勢力がある。

 1972年、三角公園で第1回夏祭りをやった際に溝橋組系横山組が襲撃をかけて来たが300名に及ぶ労働者に袋叩きにされ、撃退された。 2回目にはあの大日本正義団が武装襲撃をかけてきたが、これも労働者者に取り囲まれて警察に保護されていった。
 第1回夏祭りの攻防によって三角公園で集会をやっても奴等は何も言わなくなった。

 夏の暑い時など銀座通りは歩行者天国だ。道端で酒盛りが始まり、のど自慢をしたり、仕事の話し・昔の話しに花を咲かせる。 しかし9時も過ぎると仕事に行く仲間は本、新聞を買ってドヤへ帰る。

 10時頃になれぱ、人の数も減ってゆき警棒を抜いたポリ公共が7人単位で歩きだし人を見れぱ本当にドロポウと思ってかかる。シノギ屋(路上強盗〉にやられた労働者が助けを求めても被害者に不審尋問をやりだす。それが西成署の正体だ。

ド ヤ

 ここでこれから帰って寝るドヤの話しをしておこう。

 釜ケ崎にドヤは189軒あり、日払いアパート43軒を含めると2万人の労働者が泊まれる。
 1970年、万博前までは中二階建てで、一階上下二段のかいこ棚式が多かったが、万博景気を見込んでドヤが高層化し、ビルが建ち並ぶようになって収容能力は数倍になった。個室といってもベニヤ一枚で仕切られた部屋にシングル布団の半分ぐらいがドヤの布団だ。

 本船仕事があった頃は、南京虫がひどく暑さとかゆみで寝られたものではなかった。 窓には鉄格子、金綱が貼られ逃げることができない。この金網は西成署が暴動対策として(上から石を投げな いよう)設置したもので人命は全く考えられなかった。
 千成ホテル・新大阪ホテルの火事では非常口が閉まっていたり、金網があったために労働者が死んでいる。

 ドヤ主は釜ケ崎に管理人を置き、自分は帝塚山の高級住宅に住み、いいところだけくっている。ドヤが火事になり労働者が焼死・殺されれぱ、ドヤ主は泣いて喜ぶ。古い建物を壊す手間が省け、保険金は入ってくる。住んでいた労働者に立ち退き料を払わなくてもいい。

 このようにして労働者をこやしにして、肥え太ったドヤが一軒、一軒と新築されていく。 80年代に入って新関西空港が具体的になり始め、84年現在「国際空港ブーム」を見越してドヤの新築攻撃が始まっており、ドヤ代も平均800円が1,200〜2,000円まで上がっている。 いまの仕事のないアブレ期にそんなに高いドヤ代は労働音の生活を確実に苦しくさせている。
 以上、釜ケ崎の一日とノウガキを書いてみた。

 書き足りないことがまだ沢山ある。病気・労災・高齢化・子供家庭等を書かないと理解できないと思われるが、それはまた別の機会にまわすということで了承願いたい。

 最後に、釜ケ崎の労働者を「なまけもの」といい、釜にはグータラが集まっていると思われがちだ。しかし釜ヶ崎労働者こそが日本の建築・土木・鉄鋼・化学・港湾運輸を底辺から支えているのはまぎれもない事実だ。高度成長期には釜ケ崎から社外工・臨時工で大量に雇い低成長期には切り捨てる。 釜ケ崎労働者は自分から好んでやって来たのではなく資本の要求=資本の法則によって創り出されて来たのである。