警察の「浮浪者」調査の意味するもの

関西大学法学部教授 森井 ワ


1、昨年5月8日から11日にかけて、大阪府警南署はミナミの盛り場を中心に管内全域にわたって「浮浪者リスト」作成の名目で一せい「調査」を実施した。
 警ら課の警察官数名が一組になり、アーケード街、高架下、公園などで寝ている者から氏名、年齢、本籍などを聞き出してカードに記入したうえ、指紋を取り、氏名と生年月日、ナンバーなどを書いた紙を持たせて上半身の写真を撮っている。
 こうして11日までに約160人分のリストが作成されたという。

 警察側の説明によると、「横浜の浮浪者襲撃事件のような事件の被害者になったり、行き倒れになった場合、身元を確認するためで、すでに3年前から実施しており、「あくまで本人の了解を得て行っている」という。
 しかし一方では、「浮浪者は軽犯罪法違反であり、やり方として本人の了解をとっているにすぎず、拒否した場合は検挙して実施する方針」だともいっている。(以上は58・5・12朝日新聞の記事による)


2、よくいわれるように、警察活動には行政警察に属するものと司法警察に属するものとがある。
 交通の取締り、風俗営業等の取締り、危険物の取締り、その他広く安全や秩序維持の活動(警備・公安警察)などが前者であり、犯罪捜査のために行われる諸活動が後者だといってよい。

 行政警察はそれぞれの分野における行政法規の適用をうけ、警察権の行使を規律する法理に服するのにたいして、司法警察は刑事訴訟法規の通用をうける。

 このように、両者の区別はもともと作用の法的性質や規律の違いからくるものであるが、市民生活の安全確保という面からみると、両者が具体的に重なり会って行われることがあるのは否定できない。しかしそこに落し穴もある。

 警察の責務は、警察法2条1項が規定するように、「個人の生命、身体及び財産の保護」に任じ、市民社会の「安全と秩序の維持」に当ることであるが、その概念のあいまいさのために、しばしば権力者の政策実現に都合のよいように解釈される。
 警察はいつでも「市民警察」を旗じるしにしながら行政警察活動を「政治警察」化してしまうのである。
 その恐ろしさは、治安維持法や行政執行法を武器に市民生活を圧迫していった戦前の警察が如実に物語っている。「市民生活の安全を守る」といういつものお題目に騙されてはならない。


3、ところで南署の「調査」はどんな意味をもつものであろうか。
 「浮浪者」の保護、身元確認のためだとすれば、それは明らかに行政警察活動に属する。
 警察官の保護活動の根拠は警職法3条であるが、そこでは保護の対象者を精神錯乱者、でい酔者、迷い子、病人などに限っている。

 仕事にあぶれて野宿する労働者がたとえ彼等のいう「浮浪者」だとしても、警職法の保護対象には合まれない。しかも何ら保護活動(救護施設への収容など)をやっていない点からみても、これが警職法に基づく保護でないことは明白であろう。
 家出人についても、それが直ちに警察官の保護の対象となるわけではない。本人または保護者などの依頼によって保護される場合があるが、これも警察法2条の責務として行われるあくまでも任意の活動である。たとえ捜索依頼者などの強い希望があったとしても、本人の意思に反して強制的に保護することは許されない。


4、警察は任意の調査だという。完全に任意であれば、行政警察はもちろん司法警察に属する活動でも行うことができる。
 しかし、本件の「調査」がはたして警察のいう通り任意のものといえるだろうか。

 任意の承諾があったというためには、相手方が単に拒否しなかったというだけではなく「調査」の趣旨・目的を十分に理解した上で積極的に同意、協力したことが必要である。
 たとえ有形力の行使がなかったとしても、何らかの制裁を予告したり、観念的な義務を課して行われる場合は、もはや任意とはいえず強制処分の範疇にはいる。

 さらに、何らかの権利侵害を伴う場合もそういって差支えない。
 いわゆる「浮浪者」扱いをされている人たちにとっては、警察官はたとえ1人であっても威迫を感じる対象である。まして「調査」が深夜にわたり、数名の警察官に取り囲まれるような状況では、それだけで任意でないと推定される。
 なかには「仕事を世話してやるから写真を撮らせてくれ」といった虚言を用いた事例まであった。同意はあくまでも本人の真意に出たものでなければならないから、このように虚言を用いた場合も同 意があったとはいえまい。


5、では多少の強制を伴ってでも顔写真や指紋を取れるのはどういう場合であろうか。

 逮捕された被疑者については、鑑識資料を作成するため写真撮影や指紋、足形の採取などが令状なしに行われる(刑訴218条2項)。
 写真撮影については、それが強制処分か任意処分かについて争いはあるが、個人はみだりに自己の肖像を撮影されず、また、自己の写真を承諾なしに使用されない権利(肖像権)をもつことは疑いない。
 最高裁も、犯罪捜査のため令状なしに写真撮影が許されるのは、刑訴218条2項のほか、現に犯罪が行われもしくは行われたのち間がないと認められる場合であって、しかも証拠保全の必要性と緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容されうる相当な方法をもって行われる場合に限る、との判断を示している(最判昭44・12・24)。

 これからみても、情報収集活動としての写真撮影は許されていないというべきであろう。
 指紋の押なつについては、外国人登録法による強制(憲法違反の疑いがある)のほか、交通違反の調書に押なつを求められることが実務上あるが、それ以外の場合は、検証令状などの令状によらないかぎり行えない。


6、こうしてみると、警察自身が述べているように、いわゆる「浮浪者」を犯罪者扱いしたとみられても仕方あるまい。
  しかし「浮浪者」は本当に犯罪者なのか。軽犯罪法1条4号は、

「生計の途がないのに、働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、且つ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの」に拘留又は科料の制裁を課している。

 盛り場の物かげや高架下、公園の木かげなどでひっそりと野宿を余儀なくされている人たち、彼等は決して浮浪者ではない。
 大資本に故郷の田畑や海を奪われたり、炭鉱の閉山で職を失ったり、出稼ぎに来て劣悪の労働環境から健康を害して帰れずじまいになったりした人たちが大多数である。
 職業に就く意思はあってもその途をとざされたり、あるいは働く能力を失った人たちもいる。

 彼等には働く場と、安らかに眠ることのできる場所を保障してやることが先決である。
 横浜事件の被害者や行き倒れになる場合を予想して「調査」をするなどとは本末転倒も甚だしい。
 一般的に彼等を軽犯罪法の違反者であると決めつけて、その制裁予告のうえに写真撮影や指紋の押なつを求めることなどはもってのほかである。

 仮にごく一部に軽犯罪法に該当するような「浮浪者」がいたとしても、「この法律の適用にあたっては、国民の権利を不当に侵害しないように留意し、その本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用することがあってはならない」(軽犯罪法4条)のである。

 南署の「調査」は、それが「浮浪者」の保護、身元確認の目的に限られたものだったとしても多くの疑問があるのに、写真撮影や指紋採取の目的のために軽犯罪法の適用を威嚇的に用いるなど、まさにその「濫用」といわざるをえない。
 また、「調査」の契機として「地元から、浮浪者が多い、と苦情があったため」といっていることからみると、いわゆる「浮浪者」を管内から一掃することに目的があったことが窺われ、そのための一種の「予防検束」であったと判断せざるをえない。


7、警察のやり方に問題があったことはもちろんだが、それよりももっとこわいのは、そうした警察のやり方を肯定し、それを称揚するような一部マスコミや民衆の意識である。

「午前1時に歩道で寝ている人間に、どんな権利があるというのだ。権利というのは、義務を果して、みんなと協調している人間に、はじめて生じるものなのだ。」これは昨年5月26日号の週刊新潮に載ったヤン・デンマン氏の「浮浪者の権利」と題する一文の結びである。

 こうした考え方があることは事実であろう。そうして、このような考え方をする人々は容易に「浮浪者はその存在自体が犯罪」だと考えるようになる。
 
 「浮浪者」や「障害者」や、その他諸々の社会的弱者がその存在を否定され、社会から放逐されることは一体何を意味するか。
 社会主義者や一部自由主義者までが「危険思想」のレッテルをはられて投獄された戦前のわが国や、ユダヤ人の抹殺を企図したナチス・ドイツの例を思い返すまでもなくその意味は明らかであろう。

 国家権力はいつの時代でも、弱い人々への人権侵害を突破口にして、強権的な脱法行為をいつの間にか合法の軌道にのせてしまうのである。
 「浮浪者の権利」はまさにわれわれ市民の権利でもあることに深く思いを致すべきである。暗黒時代の再来を防ぐためにも・・・。 (森井ワ)