西成特区構想考(1)その1 

「作法の転換」-「根回し・こなし」から「究極の情報公開」へ

徒弟制度からの脱却過程の混乱???

 「西成特区構想」の話題性は、現地ではいざ知らず、世間では旧聞に属するものとなりかけているようだ。

日経新聞の『無料検索サイト「新聞トレンド」』で、「あいりん特区」「西成特区」「西成特区構想」を検索したところ、以下の結果となった。(この検索では、朝日新聞は対象外のようである。

20110416日〜20160415日 

       あいりん特区   西成特区   西成特区構想

合計記事数     1     171 件      153

No.1    毎日新聞(1 ) 産経新聞(52 ) 産経新聞(47

No.2  日本経済新聞(0 ) 読売新聞(36 ) 読売新聞(32

No.3  日経産業新聞(0 ) 毎日新聞(35 ) 毎日新聞(31


 グラフを見ると、201211日まではキーワードを使った記事はなく、その後、急激に増えている。西成図書館で「多機能OMLIS」を使い、新聞記事検索をしたところ118日以前には、特区の内容を含むあいりん・西成区関連の記事はほぼなかった。勿論、結核がらみ、露店・ごみ問題の単独記事はある。

 大阪市のホームページで、西成特区構想の概要と、発端から今日までの各種会合の日程や資料が公開されている

http://www.city.osaka.lg.jp/nishinari/page/0000168733.html

 それを参照して傾向を探ると、マスメディアの取り扱いが最も多かったのは、特区構想う打ち出しの時期(2012・平成241月~7月にかけて)、次いで大きい山は、2014(平成26)年のテーマ別シンポジュームが開催された時期。3番目に大きな山は、その前年の「第4回西成特区構想プロジェクトチーム会議-平成25227日」が開催された前後と見なせる。

 最近では、単発トピック的な取り扱いはあるが、複数日にわたる報道という注目度ではなくなっていることを示しているように思われる。

 そんな下火傾向の話題を、少し掘り下げてみる。

 

まずは、発端事情

 先に紹介した大阪市のホームページによると、特区構想の発端は、「市長の指示―特区的な運用を行い、子育て世帯を西成に誘致するように指示があった」ということのようだ。

その指示は、平成242012)年115日のメールであったという。

橋下氏が市長に就任したのは、前年の1219日だから、「市長指示」は就任1ヶ月後ということになる。

橋下前市長のメールはすさまじいものだったようで、『幹部らには休日・深夜を問わず、指示メールを飛ばし、回答を迫る。金曜日夜から土、日曜にかけて、10数通のメールが届いたという幹部は「矢継ぎ早すぎて、じっくり考えられない。まずは市長のスピード感に慣れないと」と漏らす。(読売新聞2012120日朝刊39ページ。)』

因みに、2012120日は金曜日。10数通のメールが届いたという金曜日夜から土、日曜が、13日~15日のことだとすれば、特区構想の発端とされるメールも、その中の一つかも知れない。

発端について、別の見解もあるようだ。

アサ芸プラス(徳間書店が運営するニュースサイト)の記事『橋下徹市長「あいりん特区」構想の勝算(1)「大阪府構想」の突破口に』(http://www.asagei.com/excerpt/3657 201227 10:57 AM)では、記者会見の発言が取り上げられている。

118日、突如、記者団の前で、橋下徹市長が打ち出した「あいりん特区」構想。日本で最大の日雇い労働者の街に子育て世代を呼び込むため、固定資産税や市民税を一定期間免除する構想を明らかにしたのだ。』と書き、『「西成区をえこひいきする」/118日、橋下徹市長(42)の記者会見の席での発言に大阪市職員は誰もが耳を疑った。』

先に紹介した「西成区特区構想」の経緯説明では、1月15日のメールとあり、118日の記者会見での発言より4日前に、大阪市職員の何人かは知っていたと思われる。

この118日の記者会見の記録を探してみた。

大阪市のホームページによると「市長記者会見」は、2011(平成23)年1219日の就任記者会見が最初で、以後、翌年の14日、112日、29日と続く。118日付けの記者会見は見当たらない。

大阪市会の「平成22年度決算特別委員会(一般)平成2312月・平成24年1月-0119日-06号」議事録に、橋下市長の発言として『毎日、記者とは朝30分近く取材に応じて、帰りも同じぐらいの時間をやってる』と記されてある。

産経新聞(大阪)の2012(平成24)年119日朝刊「市長日記(18日)」に、『午前9時 登庁。西成特区構想について「企業誘致の手法で子育て世代を西成の特定地域に呼び込みたい」と話す。』と記載があり、アサ芸プラスの記事で言う記者会見はこの事を指しているようだ。

但し、産経新聞はこの記者会見の日(118日)の朝刊一面に、『橋下市長 西成優遇・特区へ 減税で子育て世帯誘致 治安改善目指し職員増』の見出しで、特区構想を記事にしており、『記者会見の席での発言に大阪市職員は誰もが耳を疑った。』かどうかは、定かではない。大阪市役所の開庁時間は、900分から1730分までであるから、出勤した市職員が午前9時の記者会見までに、産経新聞の回覧を行った可能性は低いとすれば、あるいは、誰もが耳を疑う状態であったかもしれない。

なお、記事中には『西成が変われば大阪と日本が変わる』との橋下市長の言葉が入れられている


発信者と受信者で異なる「メール」の意味

流れとしては、産経の朝刊報道があり、それを朝の会見で各社が確認し、各社夕刊で後追いすることになったということのようだ。

ではなぜ、産経の先行報道が可能だったか。橋下市長が翌日の委員会答弁の中で、『幹部メールについては情報公開請求の対象になりますので、それをメディアがとらえたのかどうなのかでメディアが報じたという流れ』と述べているのを文字通りに受け取れば、115日のメールに基づいて産経記者が取材を重ねてのことと想像することはできる。

そのメールが「指示」であるかどうかは、発信者と受信者で温度差があったようで、大阪市職員・担当者は「指示」と受け取ったようだが、橋下市長は、『議論も何も、今、幹部のほうにこういう方向でいくから行政的にしっかり課題列挙、検討してほしいという、今そういう段階です。』と委員会で答弁し、「確定方針」ではなく、検討の要請だと解説している。

また、メールによる指示は、『まず部局に方針を伝える。-そして検討してほしいと、こういう考え方について行政的にどうなんだということを課題を列挙してほしいというところを指示を出した』、『巨大な組織を動かすマネジメント』の手法であるとも述べている。

橋下市長の「ある事柄を行うについて、課題を列挙して欲しいという指示」と、その指示を「ある事柄を実施する方向で検討せよという指示」として受け取った職員たちのとの食い違いは極めて重大で、職員たちの「市長独裁」「独り決め」という愚痴の元となって、それが世間に伝わり、または、伝わらなくても、表に出る情報から、世間も職員のように受け取って、「橋下市長独裁者」論に拍車をかける事になったようにも思える。 

これは、「作法」の違いから生じた事のように思える。

 

それまでの「行政」で重視されたのは、「根回し・こなし」である。

「地域」に関わることがマスメディアで報道されると、「根回し・こなし」が不十分であったら、担当職員に苦情が殺到することになる。

「なんで前もって知らせてくれへんやったんや、他から聞かれたときにどう答えたらええか、わからへんやないか」。

大阪市は結構、地域の町会連合にものを頼むことが多い。連合町会長は、町会の会合で行政情報を伝達することが多く、行政情報に詳しいことが一種のステイタスシンボルとなっている。マスメディアの報道で知るということは、一般市民と横並び扱いということになり、「問われたときに説明ができなくて困る」という事情もさりながら、「メンツをつぶされた」感を抱く。これは、市会議員も同様であろうと思われる。

しかし、橋下市長の場合は、従前のルール、「根回し・こなし」をあまり尊重しないスタイルを取る。

幹部メールについては情報公開請求の対象で、オープン情報である。

『幹部のほうにこういう方向でいくから行政的にしっかり課題列挙、検討してほしいという、今そういう段階です。これから部局のほうがいろんなオプション、行政的ないろんな方策を出してきますので、そこでまた僕が行政のほうと議論をしていろんな方針を確定した後に、今度は議会の皆さんと議論をするという形になる』のだから、市会議員にすれば、経過を一般市民と同レベルでマスメディア通して知らされ、市長と行政とがとりまとめた結論の市会提案を待って討論する、端的に言えば、賛否の表明だけが求められることになっていると受け止めるかも知れない。

毎日の記者会見にしても、『以前は全部、-質問することを事前に役所に提出して何か確認してたなんてことも聞いてますけども、-今はもう完全にフリーディスカッション状態です。あとはもう政治家の僕の責任として、これは後で訂正がきかないなというところは一歩踏みとどまってやってますけれども、そうじゃないことに関しては、それは自分の思いとかそういうものを言いながら、記者ともコミュニケーションをとりながら自分の考えというものを探っていくというやり方』で、幹部メールの公開と同様にオープンスタイルを貫いていることからすれば、その思いは強まるばかりと思える。

 

「作法」を改めよ!いや、それが命!のすれ違い

平成24119日の「平成22年度決算特別委員会(一般)」で、西成区選出の尾上市会議員は、『やっぱり議会は後についていくという感じで受けとめた』と延べ、『先に市長の思いが新聞報道で出るというこの間の手法というのかあり方というのはほとんどそういう形で、-それを議論するということに今の議会の立場でいうとなってますわね。市長はよくあるんですけど、-間違いあればすぐそれは認めて撤回すると。-ほんならもう次にいくという感じでこの間のスタイルは来てる。-もう少しそこは検討して発信するように』注意を喚起している。 

それに対して、橋下市長は『発信するということは、-自分に責任を持って、あとは自分の言葉でしゃべるというところが重要なわけでして、一言一句、ちょっと間違ったからそこは間違えるなというふうに言われたら、これはもうトップとしての役割が何もなくなってしまうといいますか、-あとは僕自身が責任をとります。間違ってこれは修正がきかないということになれば辞職をするし、そうでない修正は修正していくという方針でやっていきます。』と答えており、「作法」の違いが浮き彫りになっている。

 戦後初の行政経験のない民間出身の大阪市長といわれる平松氏が無所属・民主党推薦で当選し、市長就任したのは、2007(平成19)年1219日である。

 2007年(平成19年)729日の第21回参議院議員通常選挙で自民党が野党第1党である民主党に大敗。初めて参議院第1党から転落した余波ともいえる。

 しかし、平松氏市長就任前の48日の大阪市会議員選挙結果は、

  自民30議席、公明20議席、民主17議席、共産16議席、無所属6議席。平松氏長が推薦を受けた民主党は、第3党、少数与党であることに変わらず、「作法」を変えるどころではない環境であったといえよう。

橋下氏の場合は、個性の違いもあるが、以下の選挙事情を見ても、常に第1党に支えられており、「環境」の違いは歴然であったといえ、「作法」を変えても通用させ得るという判断もあったように思える。

 もっと重要なことは、首長と行政との分離、というか、首長と行政の一体感が断ち切られたということかもしれない。新しい「作法」は、そのために選ばれた手法であったといえるのかもしれない。(最下部の歴代市長経歴参照)。

 

以下の選挙事情

 橋下氏が無所属・自民府連推薦で当選し、大阪府知事に就任したのは、2008(平成20)年26日。

2007年(平成19年)48日の大阪府会議員選挙結果は、

自民45議席、公明23議席、民主19議席、共産10議席、社民1議席、無所属14議席で、自民単独過半数ではないが、自公では過半数を維持している。

 その後、2009年(平成21年)830 日、第45回衆議院議員総選挙で自民党が解散前を大幅に下回る119議席の歴史的大敗、衆議院第1党を民主党へ明け渡し、地域政党「大阪維新の会」の創設(2010(平成22)年419日)と続く。

20114月の大阪市会議員選挙結果は、

  維新33議席、公明19議席、自民17議席、民主8議席、共産8議席、無所属1議席

  大阪府会議員選挙結果は、

維新57議席、公明21議席、自民13議席、民主10議席、共産4議席、みんな1議席、無所属3議席

府議会では維新が過半数を制し、市会は過半数に届かなかったが、第1党となった。

その年1127日の知事選・市長選で、松井知事、橋下市長誕生。この時市長選の対立候補平松氏は、前回同様無所属での立候補あったが、前回と違い、民主党大阪府連支援のほかに自民党大阪府連の支持と共産党中央委員会の支援を受けている。

2012(平成24)年1216日の衆議院議員選挙では、自民党が単独で絶対安定多数(269議席)を確保して第一党に返り咲いた。民主党は57議席、日本維新の会が54議席。

2015(平成27)年413日の大阪市会議員選挙結果は、

  大維新36議席、公明19議席、自民19議席、共産9議席、無所属3議席

  大阪府会議員選挙結果は、

維新42議席、自民21議席、公明15議席、共産3議席、民主1議席、無所属6議席

維新は、府市の両議会で過半数をとれなかったが、第1党を維持した。

2015517日特別区設置住民投票、僅差で否決。

同年129日知事・市長同日選挙。橋下氏引退。

 

歴代市長略歴

中井  光次 1945(昭和20)年98日~19461213

      1951(昭和26)年425日~1963(昭和38)年323

内務省に勤務し、各府県の内務部長・警察部長を歴任。島根県知事(官選第32代)、その後大阪市助役(1936年~19459月)を務める。日本の首長としてはごく少数の、官選・公選の両方で選ばれた首長である。

助役と市長の在職期間は、通算22年。

近藤  博夫 1947(昭和22)年47日~1951(昭和26)年44

初代公選大阪市長。大阪市役所に入り港湾部長・理事を歴任し、大林組に入り常務。また土木学会関西支部長などを務めた。

中馬    馨  1963(昭和38)年419日~1971(昭和46)年118

大阪市役所に就職。若い頃から關一ら歴代市長の側近にあって市政の枢要に触れる。市民局長、総務局長を経て、194873日~195672日助役。

助役と市長の在職期間は、通算16年。

大島    靖  1971(昭和46)年1220日~1987(昭和62)年1218

1939年に内務省へ入省。1949年から大阪府労働部長を務め、1954年に在ジュネーヴ領事。1959年に労働省審議官に就任し、1960年には労働省労働基準局長。1963531日~19711125日大阪市助役。

助役と市長の在職期間は、通算24年。

西尾 正也  1987(昭和62)年1219日~1995(平成7)年1218

民生局長・市長室長・交通局長・大阪市を退職、大阪港振興株式会社代表取締役社長に就任。1983(昭和58)年531日~1987(昭和62)年718日大阪市助役。

助役と市長の在職期間は、通算12年。

 磯村  隆文 1995(平成7)年1219日~2003(平成15)年1218

1975年大阪市立大学教授に就任。1990年 199041日~1995918日大阪市助役。

助役と市長の在職期間は、通算13年。

關  淳一 2003(平成15)年1219日~2007(平成19)年1218

大阪市立大学医学部卒業。同大助手、講師を歴任。1987年 大阪市立桃山市民病院副院長兼第一内科長に就任。1992年 大阪市環境保健局長に就任。19951228日~2003919日大阪市助役。

助役と市長の在職期間は、通算12年。

 

大阪市長職は、選挙制度ではなく、徒弟制度で成り立っていたかのような印象を受けるのは、私だけだろうか。(2016418日・記)

西成特区構想考(2)-1

なぜ、西成特区を打ち出したか

その端緒は

 西成特区構想考(1)で紹介した「アサ芸プラス」に、橋下氏の「西成特区構想」の「原点」が示されている。

社会部記者の言として、『橋下さんは、昨年11月の大阪W選挙の直前に、平松邦夫前市長と公開討論を行ったことがあった。その際に、平松前市長が最初に切り出したのが、あいりん地区の失業者と生活保護者増加など4項目の問題だった。すると橋下さんは「大阪の起死回生のためには、府と市を解体して広域行政と基礎自治体を整理することだ」と持論を展開。最終的には、二重行政の解消こそが、あいりん地区問題解消につながるとの見解を示した。』とある。

 この部分だけでは、「特区構想」に結びつかないように思われるが、『地域課題の解消は、基礎自治体の適正規模化によって達成できる。「あいりん地区問題解消」は、その先行事例として、特区構想で取り組む』という、着想の元になったとは考えられ得る。(参考1参照)

 果たしてそうなのか、それだけなのか、もう少しこだわってみる。

 参考1:平成24119日平成22年度決算特別委員会(一般)

質問者:尾上市会議員、答弁者:橋下市長

 『西成あいりん地区というものは大阪市全体の中の一地域ですから、大阪市全体のバランスがとれれば西成区のあいりん地域というのはあの状態で別にいいわけなんです、極論すれば。しかし僕はそれは違うと。大阪市の中にもやはり基礎自治体として複数のコミュニティーがきちんと確立しているということを考えれば、もし仮に西成に西成区長、選挙で選ばれたトップが誕生すれば、大阪市全体のバランスなんていうことを考えずに西成区の、そしてあそこのあいりん地区を何とかしたいというふうに絶対思うはずなんです。』

 この公開討論について、探ってみると、「ニコニコ動画」に、大阪青年会議所が20111112日に開催した「橋下徹VS 平松邦夫大阪市長選公開討論会」の動画がアップされていた。

 しかし、これは、記事中の社会部記者がいう「公開討論」とは違うようだ。

 確かに、公開討論は、事前の抽選の結果、平松氏から発言が始まり、冒頭で4年間の成果を4項目あげているが、「あいりん地区の失業者と生活保護者増加など4項目の問題」ではなかった。

 大阪青年会議所の公開討論の録画は、3つに分けてアップされている。その3つを聴取した限り、「あいりん」の言葉は双方から出ておらず、「西成区」の言葉についても、橋本氏から、「北区・中央区・西成区では税収が違う」とうことで、2回出ただけだと思う。

 終わりの方で、平松氏が、「3日間、(橋下氏の)横に座らせていただいて・・・」と発言していることからすれば、3日間場所を変えて公開の討論会がもたれていたことがうかがわれ、別の機会に、「アサ芸プラス」の記事に書かれていたようなやりとりがあったのかもしれない。

しかし、それを確認する資料に今のところ行き当たっていないので、別の資料から端緒を探るしかない。

その前に、せっかく2時間かけて討論会の録画を聴取したので、私なりの枝葉を端折ったまとめを記しておきたい。

 平松氏は、「4年間成果を上げてきた、住民の声も末端で聞いてきた。大阪市が多くの課題を抱え、重傷であることは確かだが、振興町会の人たちを中心に、努力していただいている。つながりと、ぬくもりを大切にし、区政会議や地域活動協議会を通じて、関心と参加意欲を高めてもらうことによって、ニアイズベター、区に権限を降ろしていきたい。それにより、大阪の活性化を達成したい。今、実験的なことに、力と時間をかけているゆとりは、大阪にはない。」と。

 橋本氏は、「選挙で掲げている施策は似たようなもんです。ただ違いは一つ。大阪市という市役所を守るか、もう少し小さな単位にして、権限も財源も渡して、24区それぞれのカラーで運営し、活性化するかです。」と。

 平松氏は現在のスケールメリットをいい、橋下氏は、基礎自治体としては大きすぎるという。違いはこの点だけだと思われた。あとは、討論会だから、自分が正しい事の主張とそれに対する反論の繰り返し。

 もう一つ、録画を見て知ったこと。

周知の通り、201512月の大阪府知事・市長同日選挙に橋下氏は立候補せず、政治家を引退したが、公開討論会で、5年後の予想を聞かれた時、橋下氏は「都構想が実現し、特別区ができている。その時、私は知事には出ない。後継者に譲る」と答えている。

都構想は実現しなかったが、引退だけは実行したということ。「ふ~ん」というか、「なるほど」というか、引退の事実が確定した時点から、過去の発言を振り返っての、後付けの得心みたいなものを感じた次第

 

閑話休題。

 橋下市長が、なぜ、西成特区を持ち出したか、どうして西成区(あいりん地域)へ注目し、特区という手法を打ち出したかを探る。

 まず、議会の議事録によって、平松市長と橋下府知事とでは、あいりん地域への認識がどうちがっていたか、探ってみる。

基礎自治体である大阪市の市長としては、「市政にとって重要課題、先頭に立って全市を挙げて、行政と地域の住民との協働で取り組んで行かなければならない」というのが基本で、「国や府の役割分担も求めて行く」というのが、市会答弁から読み取れる原則的立場といえよう。(参考2参照)

 個人的な体験として、数年にわたり「あいりん対策」について行政交渉を重ねた時期があるが、あるとき行政担当者が「あいりん対策、あいりん対策というが、私たちはあいりん対策だけの仕事をしているわけではない。オール大阪の中で仕事をしている。大阪市は例えれば大きなタンカーで、舵を取っても、実際に船体の向きが変わるのには時間がかかる」と発言した。まあ、実務的にはそうだろうとは、思ったが・・・。

広域行政を担う大阪府知事としては、まず、府が実施している労働関係についての施策との関連であいりん問題を認識、第2に、参考情報として得ている地域の動きを認識、そして、弁護士時代に仕事で出入りした個人的体験で厳し環境を認識している。

但し、具体的な取り組み(地域の人声を聞くなど)になると、基礎自治体との分担問題もあり、広域行政として関われるしつらえができてからでないと実現できないということになる。

長く、あいりん対策の分担は、市=民生・福祉、府=労働と分けられており、事業実施でお金が絡むときは、府市折半というのが府市間の取り決めになっていた。広域行政を担う府としては、あいりん対策の根幹は基礎自治体が担う民生・福祉対策だとする考え方を持っている。(参考3参照)

すべての府会議事録に目を通して、橋下知事の発言をチェックしたわけではないので、確定的にはいえないが、知事は市長ほどには、あいりん地区対策に力を注いでいた、あるいは注目していたとは思えない。

あくまでも、大阪市内の一地区であり、大阪市の対策が主となるべきところとの認識であったろう。これは、長く大阪府行政マンの認識であり、知事はそれをオウム返ししただけともいえる。 

 その大阪府知事が大阪市長となった。大阪市長となれば、知事のように、距離を置いた発言をすることはできない。

あいりん地域には、1961年第1次釜ヶ崎暴動以降の経過があるので、市長としては、「先頭に立って対策に取り組む」といわざるを得ない。これは平松市長でも、橋下市長でも同じ事だ。

しかし、特別対策が一段落した1970年以降は、やや特別ではあるけれども、あくまでも西成区の一地域、そうそう特別扱いはできないというのが、大阪市行政マンの認識であるので、市長が具体的事業で踏み込むことができにくい環境になっている。(参考4参照)

では、特区構想は、「大阪市行政マンの認識」を超えた、橋下市長のオリジナルだったのだろうか。

 

参考2:大阪市長の認識を見るために参考とした大阪市会での答弁

2008(平成20)年0311日 市会3月定例会常任委員会(民生保健・通常予算)】

西川ひろじ委員からの質問、ホームレス問題、あいりん問題に関する国、大阪府の責任について問われた、平松市長の答弁

ホームレス問題及びあいりん問題の解決というのは、市政にとっての重要課題であり、私が先頭に立って全市を挙げて取り組んでいかなければならない課題であるという認識を持っております。しかしながら、ホームレス問題及びあいりん問題は、委員御指摘のとおり、さまざまな社会的、経済的要因によるものであり、本市だけで解決し得る問題ではなく、国及び大阪府が果たすべき責任、役割というものは大きいものがあるということも認識しております。

 大阪府が従来から果たしてこられた役割につきましては、本格予算に位置づけて、引き続きその責任を果たしていただかなければなりません。それに加えて、労働行政を初め労働課題から生じる諸課題に対しましても、これまで以上に大阪府としての役割を果たしていただきたいというふうにも考えております。

ホームレス問題、あいりん問題の解決には国がその役割を十分に果たしていくことが重要であることから、大阪府とも連携を図り、あらゆる機会をとらえて国に要望し、問題の解決に向けて引き続き取り組んでまいりたい

 

2009(平成21)年0313日 市会3月定例会常任委員会(建設港湾・通常予算)】

尾上康雄委員から、「あいりん地域全体のまちづくりについて、地域の市民と懇談会を設けるなど、より一層市民協働の観点で取り組む必要が私はあると思う」との問いかけに、平松市長は

『あいりん対策につきましては、本市の重点課題と位置づけて、毎年国に対しても、あいりん地域におけます各種事業や環境改善を目指したまちづくりに対する支援について要望を行ってきております。

 これまで、本市では関係各局によるあいりん対策連絡会議を設置しまして、環境の改善あるいは福祉の向上、そういった観点で種々の対策を検討し、そして実施してきております。

 現在も、本市のまちづくり活動支援制度を活用しまして、地域住民の方々が自主的な活動を行うなど、行政と住民が協力しているところ-、今後、市民協働の観点をそれに加え、一層、行政と住民が連携を深め、総合的なまちづくりに向けて地道な取り組みを重ねていく必要があると考えております。』

 

参考3:大阪府知事の認識を見るために参考とした大阪府議会での答弁

2008(平成20)年0718日 7月臨時会商工労働常任委員会】

 川岡栄一府議から、「あいりん地域に対します認識」を問われて、

◎知事(橋下徹君) あいりん地域は、日雇い労働者が多く生活されており、近年の労働需要の減少や日雇い労働者の高齢化の進展により、厳しい就労環境にあることは認識しております。

 僕も弁護士の仕事でよく西成署へ行ってましたし、あのかいわいの関係の仕事もありましたので、実際にもう何度も--何度というより、何十、何百ぐらいで行ってますので、よくそれは自分自身の実体験としても感じております。

 このため、出資法人である財団法人西成労働福祉センターにおいては、職業紹介や労働相談を実施するとともに、特別対策事業として高齢日雇労働者特別清掃事業などを実施しております

 また、地域では、国の支援も受けて、大阪府や大阪市、さらに地元の福祉団体やNPOなどが連携して大阪ホームレス就業支援センター運営協議会を設置し、高齢日雇い労働者の方々のホームレス化の予防に取り組んでおります。

 さらに、地域を潤いのあるまちにするため、公的施設の壁面塗装やフラワーポットの設置など、さまざまな取り組みを地域団体やNPOが中心となって進めているとも聞いております

 また、大阪府・市、地域が一体となって地域のイメージアップにつなげていく試みが活発化していると認識しております

2010平成22)年-0318日 2月定例会健康福祉常任委員会

 川岡栄一府議から、「西成区内にある中学校の周りで薬物接触のおそれがある注射器が何度も見つかりまして、-橋下知事が言われていらっしゃる、子どもが笑う大阪を実現されるためにも、一度ぜひ現場にまず来られて、生徒さんとか保護者、住民の皆様方の御意見をぜひとも聞いていただき、知事を先頭に薬物の撲滅に取り組んでいただきたいと切に希望します」と呼びかけられて、

◎知事(橋下徹君) 確かに現場で、今宮中学校のところで注射器が発見されたと。-これは生徒がというよりも周囲の大人たちがこういうものを落としていったのか、そういうことであれば最悪の状況だと思うんですが、ただ委員に御理解いただきたいのは、大阪府域内にいろんな事件がありまして、学校内での事件、その他の事件ごとにいろいろじかに話を僕に言いたいという声がたくさんある中で、もし仮に注射器が発見されたというところでここに行きますと、同じような問題のときにいろんなところに全部僕が回らなきゃいけないということになってしまいます。

 ですから、この中身が確かに薬物という問題で、これは基礎自治体の話じゃなく府警も絡むので広域行政の府の問題で知事の問題だと言われるところの理屈はおっしゃるとおりかもわかりませんが、もし住民の環境の問題であればやはりこれは基礎自治体の話でもありますし、また薬物の事件ということになりますと、これは府警の問題にもなってきます。

 そうでありますと、僕の立場で、薬物乱用を防止するということに関連して、広域行政の長としてやらなければいけないそういう取り組み、しつらえ、-を設定できれば、そこでは、僕も大阪府麻薬覚せい剤等対策本部長という-立場で-地元の方との意見交換もしたいと思うんですが、単純に注射器が出たからまず聞きに行くということをやってしまうと、ほかとの問題が出てきます-いうふうに思っております。

 

参考4:大阪府市行政の認識を見るために参考とした大阪市会での答弁

1994(平成6)年1118日 平成5年度決算特別委員会(準公営・一般)平成6年101112月】

 松岡徹市会議員から、「労働センターをめぐりましてトラブルがあったということです。-その後の経過と現在の現状というものをちょっと聞かせていただきたい」と問われて、

◎三島民生局福祉部保護課長 ことしの夏の動きでございますけれども、団体が何グループか集まりまして釜ヶ崎の反失業連絡会というものをつくりまして、大阪府と大阪市に対しまして要求行動をとる。その要望の内容は、高齢者の雇用対策を打てということと、緊急に野宿者対策をやれという、大まかにいえば2点だった

野宿者問題に絡んで、大阪府の方が野宿者が出ている問題については、それは民生の問題だ、大阪市に行けというような回答-、団体の方からは、それは違う、仕事がないから野宿してるんだと。そういう認識であれば大阪府ともう話しない-仕事を出しております労働センターの方とのやりとりということになりまして、6月27日に200名ぐらいの労働者と労働センターで徹夜に及ぶ交渉という形になりまして、当然決着しないわけですから、労働センターにそのまま居座ると。

 

松岡徹市会議員から、「抜本対策を考えるために府市懇であいりん地区総合対策検討委員会が設置されると。この中に書いてあるんですが、労働分野は府、福祉分野は市という縦割り行政の弊害や場当たり的な対応が目立ったこれまでの施策のあり方を反省、初めて中長期的なプランもつくると。新聞記事によりますとそういうふうになってる」と問いかけられて

◎河野民生局福祉部長 検討委員会の設置につきましては、今月の1日に市長と知事の間で合意を見たところでございまして、その構成、あるいは検討課題というものにつきましては、これから府市の担当部局で詰めてまいるという予定-抜本的な対策ということの見出しがたいテーマでございますので、検討には3年程度を要するのではないかというふうに考えておりますが、できることならば、中間報告という形で、当面の課題等についてはいただければというふうに考えております。

 

さらに、松岡徹市会議員から、「あいりんの姿、将来像、10年後、20年後のあいりんをどうするのかということであります。あいりん地区のああいう状態というのは、もう30年以上も前からあるんですね。あの状態なんです。しかも、今の情勢を見ていきますと、一体どないなるんやということなんです。」と問いかけられて、

◎足立民生局長 ただいま松岡委員の方から、あいりん問題につきまして、あらゆる角度からご質疑、あるいはご提言をいただきました。民生局の仕事、非常に幅広い領域を担当しておりますし、どの問題をとりましても非常に緊急度の高い、また解決の困難な課題ばかりでございますが、とりわけあいりん対策につきましては、なかなか方向性が見きわめにくく、いかにすべきか、本当に頭を悩ませておるところでございます。

期待しておりますのは、あいりん地区総合対策検討委員会におきまして、これからの地域の将来像、あるいは当面の問題につきまして、有識者の方々のご意見をぜひとも賜りたい、また、つきましては、市会の皆様方のご意見もちょうだいしながら、国にも働きかけ、今後、国、大阪府、大阪市の3者が相協力してこの問題に対応してまいりたいと考えておるところでございます。

 

2006(平成18年)1215日 12月臨時会常任委員会(民生保健)】

 澤野雅洋市会議員から、「173平方メートルの住居に3,300名もの住民登録があったという報道がございました。これは、市民感情からは、やはりあってはならない」「大阪市全体の問題、一区の担当者の問題ではなしに、大阪市の全体の問題として受けとめていただきたい。この点につきまして、健康福祉局長のまず感想を」と求められて

◎白井健康福祉局長 健康福祉行政に携わる者といたしまして、あいりんの課題は-長年の経過の中で、保健衛生上の課題、また住環境を初めとする環境整備上の課題、その他、地域の安定阻害要因としての課題など、複雑で大きな地域社会課題となっておりますほか、本市の生活保護行政実施上の課題や、野宿生活者問題と大きく深く関連した課題となっておるという認識-

昭和40年代後半より、本市のあいりん対策連絡会議のもと、市会の御理解、地域の御協力もいただきながら、更生相談所事業であるとか、社会医療センターにおける無料低額診療であるとか、越年対策事業でございますとか、結核対策、一時保護や就労支援など、さまざまな対策を実施してきておりますが、根本的な解決には至っていないのが現状

このあいりん対策連絡会議を、関係する局がより効果的に連携いたしまして施策を進める必要があるとの観点から、平成1710月に、それまで5分科会の構成であったものを、福祉・医療分科会、それから住宅・まちづくり分科会と2つの構成にいたしまして、それぞれの局がその分科会に参画して、より一層効果的に連携して施策を進めるべきだということで取り組んでおるところ-

私どもといたしましても、こうした経過、観点を踏まえまして、より総合的な効果的な施策の推進の一翼を担いまして、問題の解決に当たるように努めてまいりたい