敷津松之宮神社

南区木津敷津町に在る。祭神は素盞之男尊を主神とし之れに奇稻田媛命、八王子命を合祀している。

当社は古名を松本宮と称し、後に牛頭天王と称へ、降つて八坂神社と名づけられていたものが、明治二十六年六月三日之沿を敷津松之宮神社の称に改めたのである。其由来を聞くに、神功皇后が三韓より凱旋し給うた時、住吉の大社からの御帰途、敷津の濱で海上の平安を祈り給ひ、其御誓のため竹内宿禰をして松樹三本を植えさせられ、其処に素盞之男尊を祀らせ給うたのに起つたので、松本宮の名称を用いたのであつた。それが清和天皇の御字貞観八年に、播州廣峯より御霊を京都に勧請しまいらせた時から、僧圓如が往還の途次、木津に宿せしに因み、茲に牛頭天王の祠として、奉祀するに至つたが、後に至り、八坂紳杜と改称したところ、附近の難波にも同名の神社があつて紛らはしいため、現今の如くに改称されたのである。又牛頭天王と称したころは、木津の願泉寺で薬師如来と共に祀られてあつたと伝へられて居る。

祭事は毎年正月八日天王寺との間に於て行はわ、山鉾を出し、童子を馬に乗せて飾り立て、若者が之れを警護して紳輿渡御の式が行はれていた。殊に本社の祭礼中最も派手なるものは七月十六、十七の両日京都の祇園会と同時に行はわるもので、其れには臺舁と云ふものが舁ぎ出される。臺舁の事については別に記し、且写真も掲げてあるが、更に詳説して置きたい。

臺舁の構造は方一間高さ一間ぐらいの木枠を縦横に貫きぬきぼう(緯棒)を組合せ、其の枠の中央の上下のあいた穴に経棒を立てる、柱の高さは十五六間で、電柱の約二倍に相当し、上にはほこ(鉾)と称して祇園会のものと同じ赤地の袋に山形を造り、其の下にひけこ(髭籠)と云ふ径一丈余の車の輪のやうな?に、数多の竹の輻の如く放射したものに、天幕を一層又は二層取り附け、其の陰に祇園巴の絞の附いた守袋を垂らし、更に其の下に三尺程づつ間を隔てて、十数本の緯棒を通し、赤緑紺黄など、けばけばしく彩つた無数の提灯を幾段にも掛け連ね、夜に到れば之れに蝋燭を入れて火を点じ、多勢にて之れを舁ぎ練り歩く、此臺舁の進む所は、夜空に華やかな彩燈の曲線運動を描き出し、美観実に言語に絶するものがあつた、此の臺舁は明治三十年頃まで祭禮に舁ぎ出されたものであつたが、電信電話線の障害となるので、遺憾ながら廃止された。

尚ほ此神社には面白い干瓢の伝説がある。曾て紳功皇后が敷津の濱を御通過の砌、皇子を産ませ給ひしときの不浄衣類などを此の地に埋め給うた、すると不思議にも其処に見事な瓜草が生えて大きな實を結んだ。それは偶然朝鮮から干瓢の種子が齎(もたら)されて始めて茲に芽生えたのと見られて居る。爾来長い月日と共に木津を中心として全国に移植されたが、肝腎の木津では干瓢産地の名称が何時の頃からか消えうせて了つた。松の宮神社の古記録には何人の作か知らぬが

神のなす瓜なればこそ白ゆふに

宿も賑はふ夕顔の里

と云ふ歌が記されてある。薄く長く削られた干瓢が到る所に掛けられてある当時の有様は此の歌によつて偲ばれる、それから尚俗謡にこんなものがある。

嫁にやろまい木津今宮へ

夜さりや干瓢の皮むかす

これなども此の地一帯に於ける干瓢の仕事が如何に盛んであつたかを思ひ出す好材料となるであらう。(今宮町志)


敷津松之宮神社(浪速区区敷津町2丁目25)

同   西成社(西成区橘通5丁目3)

当社は元来木津の氏神である。社伝によれば「神功皇后三韓を平定せられ、凱旋の砌住吉の社を定めて鎮座の後、浦伝いに武内宿禰等を従え敷津浜を航し給える時、宿禰荒磯の岸に打寄せるをみて、今より後はこれを境にして潮満ち寄する事なかれとて松樹三本を渚に植え、素蓋鳴尊を祀り松の宮と称した」のが当社の起源とある。

清和天皇貞観8年(866)僧円如はじめて京都祇園牛頭天王を播磨国唐崎より勧請の途次松之宮に立寄ったところ当社の祭神も牛頭天王と同神であるところから、当社を祇園または牛頭天王社と称したという。維新の際八阪神社と改め、明治26年6月改めて敷津松之宮と称した。なお当社のはじめて鎮座し給うた地は現本社所在地より南約1.6キロを隔てた区内四条ケ辻にて、現在地に移建の時代は不明である。また境内摂社大国主神社は宝暦年問出雲杵築の大社より勧請したもので、安置の神像は出雲大社と同様で甲子の日は開扉のことがあり、木津の大黒さんとして非常の賑わいを示している.

戦災後24年4月社殿の建築が完成、大国主神社も本殿に合祀をみているが、区内橘通5丁目3に御旅所があり現在同社西成社となった。

祭神 素盆鳴尊・奇稲田姫命・八王子命・大国主命・事代主命・少彦名命

氏子地域 西四条1−3丁目、北開1−4丁目、中開1−6丁目、南開1−8丁目、出城通1−9丁目、長橋通2−9丁目、鶴見橋北通2−8丁目、鶴見橋通1−8丁目、旭北通2−8丁目、旭南通2−8丁目、梅通1−9丁目、梅南通1−9丁目、松通1−9丁目、橘通1−9丁目、桜通1−8丁目、柳通1−7丁目(以上西成区内)敷津町1−3丁目、大国町1−5丁目、?町・勘助町の一部、浪速町東1−3丁目、浪速町西1−3丁目、北高岸町の東部、三島町(以上浪速区内)(西成区史)