海泉寺
今営神社の西隣にあり浄土宗の古刹で、今を去る七百四十一年前御鳥羽院の御宇元暦元年九月の末、海傳作太夫と云ふ漁師が、一日附近の曳網に掛つて上つた観世音菩薩の尊像を奉祀すべく、三十四歳の時剃髪して、海泉坊と称したのに因みて、海泉寺とした。斯くて海泉坊は翌年に当る文治元年に圓光大師の弟子となり、大師の袈裟を授かつた、その時に干蕪を大師に進呈したので、其れが起因となつて蕪講が出来たと云ふ事である。爾来幾多の星霜を経たが、其の間兵乱の為めに附近人家の大部分は焼失したけれども、幸に観世音の本堂のみは災難を免れた鬼、其れ故に當時の観世音は、厄除けの霊験があると云つて古来安産の御守りや御符が信仰者に授けられて居るが、其れは此の海濱に上つた尊像が、図らずも永暦年中(元暦元年より二十四年前)洪水の難を除かしめんがため、鼓が沖に沈められた勢州白子の安産親世昔の分身であつたことに原因しているのである。