鼬 川
伝説によれば推古天皇の元年厩戸の皇子が四天王寺を荒陵の東に造営し給へる時に諸國から巨材が木津に到着した、しかし之れを海岸から造営地まで運ぶには多くの人手を要するので、運搬を容易ならしめるために溝を鑿つて其の目的を達した、その溝の趾が鼬川である、さうして鼬川なる名の由来は其時に鼬が沢山出て川を掘る便宜を与えたのに由ると云つている。鼬の導きで川が掘られたなどは、今日から見れば信用ができない、しかし其の事は海泉寺の縁起にも記されてある。
尚一説には桓武天皇の延暦七年三月摂津大夫和氣清麿公が、河内と摂津の海とを連絡させるため、新川を開鑿するの利を奏請し、勅許を得て早速着手し、人夫二十三萬人を使役して努力した、その時に掘つた川が今の鼬川である、鼬川は一名河内川とも云ふと伝えられているが、之とても其の儘受け容れる訳に行かぬ、要するに以上二説共に記して尚後人研究の余地を存して置きたい。