今宮神社(戎神社)

今宮村をして歴史の上に不朽の美名を留めしめたのは、即ち朝役紳役の奉仕である、しかし此の事は遺憾ながら一般の世俗には能く解知されていない、而も今宮神社の事は、大阪人としては老若男女を挙げて一人も知らぬ者はない程に有名である、一年唯一回の祭事、即ち正月の十日を以て福徳祭の日と定め尚九日を「宵戎」と称し十一日を「残り福」と云ふ。此三ケ日の神社の雑踏は譬ふるに物なき盛況で、余り澤山参詣者が出ると懐中から財布を取出すことが困難であるから、却つて御賽銭の上り高が少ないと云はれる程である。

かほどの流行神の御神体は抑も何であるか

天照大神  事代主命  天稚媛命  素盞烏尊  月讀尊

以上五座である。今宮神社が何時の頃に初めて奉祀さわたかと云ふことは、古文書に明記されていない。或は推古天皇の時代に早くも社が造られたものと謂ふ説もあるが、素より何等の根拠もない。しかし古昔仏教の盛んな時代には、神仏の関係が甚だ混沌としていたから、此の辺りにも天王寺の寺中の一つとしで、何等かの社が設けられてあつたかも知れない、併しさやうな事は説明を要する程の事でもない。元和三年丁已孟春と記された今宮社の由来記には、神社中務尉物部友重、別當代副座融慶敬白と署名してある。此の別當とは四天王寺の別當であって四天王寺の寺中たる秋之坊と云ふ寺院で、今宮社の事を管理していた証拠であると伝へられている。

旧記によれば、今宮社の祭事として九月十八日には神輿が社門を出て、四天王寺西門の所まで渡御し、直ちに還幸された、此の日に流鏑馬の式がある、又三月二十三日には天王寺から樂人が来て、伶人舞を行ふことを例としている。

斯く正式の例祭があるに拘らず、それが等閑に附せられ、却つて正月十日の福徳祭が一番盛んであるのに人間の慾心がよく現れている。伝説には聖徳太子が初めて此の地に市揚を設けられたと云ふ。これは明かな証拠がないとしても相當信用するに足る説と云つて可い、聖徳太子は宗教に最も御熱心であつたと同時に、又商業の事にも非常な注意を払われ、,大伽藍建立の傍らには地帯なく市揚を開かれたから、今宮に於いても左やうな事情の下に市揚が開かれたことであつたらう、又恵比須祭を十日と定められたのは、聖徳太子の御指図だと記してある文書もあるが、之れは容易に信じらわない。

「ゑびす神」の御本体は何の命であるかは歴史学者の間にも諸説紛々として決しない。或は蛭子命となし或は事代主命となす、今宮の祭紳も以前は蛭子命としていたが、今は事代主命に替つて居る。その孰れが眞かと云ふ問題は暫く措くとし「ゑびす紳」が、航海の神であり、漁業の神であり、又商売の神であることは古今其軌を一にして毫も変らない、瀕海の地たる今宮に於いて、且商業萬能の大阪に於て「ゑびす様」が大なる信仰の的となつたのも決して偶然でない、尤も「ゑびす様」は今宮の独占ではない、夷神の御本家は西の宮にある、然らば今宮社の祭紳は何時移されたか判らないが、分霊であると去ふことに対しては之れを拒否すべき理由の何ものもない、十日戎の事は之れを風俗の項で述べる事とする。

何と言つても当社は四天王寺に関係のあるだけ、古い社であることに疑がない、故に歴朝の執権者も之を特待して居る。左の文書禁制札の如き、此類のものは屡々下附せられ、何れの兵乱にも、乱入狼藉を禁ぜられたほど、それほど尊信されていたのである。

禁制

一 当手軍勢甲乙人乱入狼籍事

一 剪竹木事

一 國質所質事

右條々堅令停止訖若於違犯之族者速可処厳科者也仍下知如件

永禄六年三月  日

筑前守印(今宮町志)


今宮神社(浪速区恵美須町3)

一般に今宮の戎さんとして大阪人に親しまれている当社は、特に氏子地域はもたず、社記によれば推古天皇の御宇厩戸皇子の創建となっている。兵庫県西宮市に官幣大社広田神社と西宮戎社があるところから今宮は今の宮としてその分霊であるとの説もあるが、維新前四天王寺が管理しその関係も深かった。祭神は天照皇大神を中央に、左に蛭子命・大己貴命・右に素蓋鳴命・月読命の五座を奉祠しているが、蛭子命は市の神として江戸時代その祭の繁盛さが諸書に見えている。慶長14年(1609)14石6斗4升5合の社領を賜わったが(のち若干増石)、明治3年12月上地して無格社となり、40年9月26日同字地の無格社八阪神社・同稲荷神社を、41年1月27日和泉国泉南郡東葛城村大字神於の村社市杵島神社を合祀して村社に列した。未社に倉稲魂神社がある。往時より宮司は津江氏が奉仕し、特段の氏地なく市民の崇敬で守られ来った。

戦災で社殿、古文書の殆んどを焼失し、現社殿は昭和28年5月1日工費3800万円で着工、31年11月9月竣工し翌日奉祝祭を行った。総坪86坪の壮麗なもので、毎年十日戎には約2000万人の参拝者を集めている。なお明治初年の神仏分離までは、四天王寺の守護神として毎年9月17・18日に祭礼があり、神輿が四天王寺の西門まで渡御し、西門前に神輿を置いて駕輿丁が帰社すると、四天王寺の僧侶がその神輿を奉じて神社に還幸し四天王寺楽人による舞楽奉納の神事があった。(西成区史)