生根神社
生根神社(玉出本通3丁目50)
当社は旧玉出町全町の氏神社であるが、もとは現存の住吉区住吉町の通称奥の天神社といわれる生根神社の分社で、いつの頃か分幣の上独立した。明治7年12月大阪府の許可を得て勝間村の産土神となり、村社に列し、大正7年12月神饌幣帛供進社に指定せられた。もとの住吉生根神社は延喜式内の社でのち住吉神社の摂社となり神宮寺の僧が奉仕来つていたが、明治に至って独立して郷社に列した。天神と称するのは、文明14年12月(1482)社地に天満宮を祀り紅梅殿と称したことから、また奥の天神の名は大海社の奥にあるところから起っている。
当社祭神は、少彦名命・蛭児命・菅原道真公で、夏祭は7月24・25日、例祭は10月9日である。特に夏祭には「勝間台舁(だいがく)」または「玉出の台舁」として知られる華麗な舁物が異彩を放っているが、この「台舁」については後述することとしたい。
境内地は戦前600坪を有していたが、戦後大阪市の土地区画整理によって450坪に減少した。しかし今次新社殿建造にあたり隣接地を買収して500坪となり、新社殿は総工費約5000万円を投じ、鉄筋コンクリート造で建造、昭和41年9月30日遷宮、同10月8・9日に奉祝祭を行った。建築面積は社殿33坪、社務所(二階建)延123坪である。
氏子地域
玉出本通1−5丁目、玉出新町通1−5丁目、姫松通2−4丁目、辰己通1−3丁目、田端通1−5丁目、千本通1−7丁目、南海通1・2丁目、新開通1−4丁目、潮路通1−5丁目、東・西皿池町
生根神社の台舁
玉出の生根神社は前述のようにもと住吉村にあった郷社生根神社の分社と伝えられているが、同社の台舁は大阪府文化財の指定をうけ、夏祭には台舁が出て賑やかである。
台舁については生根神社の伝によると、往昔清和天皇の御代、旱害著しく稲作、棉作ともに枯死寸前の状態となった時、農民が住吉の竜神大海神社前で日本六十六力国の一の宮の御神灯六六張と鈴六六個をつけた高さ二八間のものを建て雨乞の祈願をしたところ、大雨をもたらしたので農民大いに喜び、これに台をつけて舁ぎ、太鼓を打って氏地を巡遊して神恩奉謝の意を表したのがその始めであると。昔は玉出に一四台あったといわれ、明冶初年には六台に減り、さらに五台となり、この五台もやがて廃止されたが、その後三台だけ復活し、東山町・山町・新町の三台が戦争前までつづいた。現在残る一台はそのうちの一台で岡山県下に疎開して戦火を免がれたが、他の二台は惜しくも戦災で焼失した。
この台舁は、大和のすずき提灯や秋田の竿灯と同種のもので一本の竿に多数の提灯をつるし、現存のものは高さ一〇間(約一八メートル)の丸太棒を台の上に立て、その突端には大きな神楽鈴をつけそれより約一間(約一・八メートル)離れて下に白幣をつけた榊をつけ、さらにその下に二間離れて「ヒゲコ」をつけている。髭籠(ヒゲコ)はカラ傘の如く割竹を放射状に配ったものに紙を貼りつけたものである。このヒゲコを二段につけて六六個の鈴と町内安全・平和祈念等と書いた金縁の額を掛ける。額の下には御神灯と書いた提灯を一個つけ、これより下は二尺三寸間隔で三寸角の横棒が八本通り、それに六六個の提灯が下げられる。これら提灯の数は現在は七九個であるが、台舁の規模により数は一定しなかったらしい。丸太棒はその下部が台の中に入り込むようにつくられ回転するようになっている。これは台舁が非常に高く不安定なものであるから真正面から風を受けると倒れるおそれがあり、回転して向きを変えることにより風を避けるように造られているものである。台の構造はかつぐのに都合よく考えられているが、現在では立てておくだけで、かつぐことはなくなった。以前は八〇ないし一〇〇人位でかついだものである。
台がくは玉出ばかりでなく木津・田辺・天下茶屋などの付近一帯にもみられ、中でも敷津松之宮神社の祭にでるだいがくが有名であった。これは七月一六・一七日の京都祇園会と同時に行われたもので、木津六ヵ町から各々青年男子数百人にてかつぎ出され、夜空に華やかな彩灯を描きその美観は言語に絶したといわれる。しかし電信電話線が出現し明治三〇年頃廃止されるに至った。