臺 舁(だいかく)

今宮町志より

生根神社の台舁

玉出の生根神社は前述のようにもと住吉村にあった郷社生根神社の分社と伝えられているが、同社の台舁は大阪府文化財の指定をうけ、夏祭には台舁が出て賑やかである。

台舁については生根神社の伝によると、往昔清和天皇の御代、旱害著しく稲作、棉作ともに枯死寸前の状態となった時、農民が住吉の竜神大海神社前で日本六十六力国の一の宮の御神灯六六張と鈴六六個をつけた高さ二八間のものを建て雨乞の祈願をしたところ、大雨をもたらしたので農民大いに喜び、これに台をつけて舁ぎ、太鼓を打って氏地を巡遊して神恩奉謝の意を表したのがその始めであると。昔は玉出に一四台あったといわれ、明冶初年には六台に減り、さらに五台となり、この五台もやがて廃止されたが、その後三台だけ復活し、東山町・山町・新町の三台が戦争前までつづいた。現在残る一台はそのうちの一台で岡山県下に疎開して戦火を免がれたが、他の二台は惜しくも戦災で焼失した。

この台舁は、大和のすずき提灯や秋田の竿灯と同種のもので一本の竿に多数の提灯をつるし、現存のものは高さ一〇間(約一八メートル)の丸太棒を台の上に立て、その突端には大きな神楽鈴をつけそれより約一間(約一・八メートル)離れて下に白幣をつけた榊をつけ、さらにその下に二間離れて「ヒゲコ」をつけている。髭籠(ヒゲコ)はカラ傘の如く割竹を放射状に配ったものに紙を貼りつけたものである。このヒゲコを二段につけて六六個の鈴と町内安全・平和祈念等と書いた金縁の額を掛ける。額の下には御神灯と書いた提灯を一個つけ、これより下は二尺三寸間隔で三寸角の横棒が八本通り、それに六六個の提灯が下げられる。これら提灯の数は現在は七九個であるが、台舁の規模により数は一定しなかったらしい。丸太棒はその下部が台の中に入り込むようにつくられ回転するようになっている。これは台舁が非常に高く不安定なものであるから真正面から風を受けると倒れるおそれがあり、回転して向きを変えることにより風を避けるように造られているものである。台の構造はかつぐのに都合よく考えられているが、現在では立てておくだけで、かつぐことはなくなった。以前は八〇ないし一〇〇人位でかついだものである。

台がくは玉出ばかりでなく木津・田辺・天下茶屋などの付近一帯にもみられ、中でも敷津松之宮神社の祭にでるだいがくが有名であった。これは七月一六・一七日の京都祇園会と同時に行われたもので、木津六ヵ町から各々青年男子数百人にてかつぎ出され、夜空に華やかな彩灯を描きその美観は言語に絶したといわれる。しかし電信電話線が出現し明治三〇年頃廃止されるに至った。(西成区史)


敷津松之宮神社の項

祭事は毎年正月八日天王寺との間に於て行はわ、山鉾を出し、童子を馬に乗せて飾り立て、若者が之れを警護して紳輿渡御の式が行はれていた。殊に本社の祭礼中最も派手なるものは七月十六、十七の両日京都の祇園会と同時に行はわるもので、其れには臺舁と云ふものが舁ぎ出される。臺舁の事については別に記し、且写真も掲げてあるが、更に詳説して置きたい。

臺舁の構造は方一間高さ一間ぐらいの木枠を縦横に貫きぬきぼう(緯棒)を組合せ、其の枠の中央の上下のあいた穴に経棒を立てる、柱の高さは十五六間で、電柱の約二倍に相当し、上にはほこ(鉾)と称して祇園会のものと同じ赤地の袋に山形を造り、其の下にひけこ(髭籠)と云ふ径一丈余の車の輪のやうな?に、数多の竹の輻の如く放射したものに、天幕を一層又は二層取り附け、其の陰に祇園巴の絞の附いた守袋を垂らし、更に其の下に三尺程づつ間を隔てて、十数本の緯棒を通し、赤緑紺黄など、けばけばしく彩つた無数の提灯を幾段にも掛け連ね、夜に到れば之れに蝋燭を入れて火を点じ、多勢にて之れを舁ぎ練り歩く、此臺舁の進む所は、夜空に華やかな彩燈の曲線運動を描き出し、美観実に言語に絶するものがあつた、此の臺舁は明治三十年頃まで祭禮に舁ぎ出されたものであつたが、電信電話線の障害となるので、遺憾ながら廃止された。(今宮町志)