近松門左衛門
猫塚の石碑と接触して建立されてあるのが即ち文豪近松門左衛門の碑である。高約一丈五尺、横約五尺で、正面には「平安堂近松巣林子信盛碑」と刻し其横に「四天王大護国寺主職権大僧都源應書」と記してある。其の裏面には「それよ辞世さてもそののち数々に残す櫻の花しにほはば」「西区京町堀上通二丁目百二十番邸先考室上小右衛門発起人男室上小三郎明治三十年孟春九郎右衛門町二百一番邸寓」と記されてある。
此の石碑一の此処に建てられたことについては碑前の線香立台石に刻まれてある一文が事実を物語つて居るから左に全文を記すこととする。
紀念碑移転建設表
近松巣林子碑ハ明治三十年春大阪市南区天王寺字塚原二建設シタルモ第五回内国勧業博覧会開設ニ付政府ヨリ移転ノ命降リ依テ三十四年六月上旬更ニ西成郡今宮村字今池ヘ移転ノ許可ヲ経テ之ヲ建設スル者也
地主 室上小三郎
年四十九歳
今宮町の一地域今池に文豪近松巣林子の碑が存在し、其処に又義太夫節唯一の樂器三味線に最も因縁ある猫塚が建てられてある以上此の文豪の傑作戯曲と今宮との関係を一言述べずにはいられない。
大近松の戯曲中に『今宮心中』といふのがある、それは宝永六年に大阪本町二丁目菱屋四郎右衛門方の下女おきさと子飼の手代二郎兵衛とが今宮戎の森で情死した事実を脚色したもので翌七年正月二十三日初日にて竹本座で操にかけられた、此の時近松翁は五十八歳である。戯曲の結構はさして込入つたものではないが筋合は頗る妙を極めた作として賞嘆されて居る。情死は日野絹一反を松の木にかけて男女並んで縊死を遂げたで、其の態宛ら掛鯛の如くであつたといふので一名『掛鯛心中』ともいひ其の松を共の後連理の松とも呼ぶに至つた。それ故正徳二年四月豊竹座の操りでは『今宮心中丸腰連理松』と改称した。此の戯曲が近松の他の心中物と趣きを異にして居るのは女の身分が下女であるのと、男よりも年増であるので、毛色の変つて居る作だと云ふので持て囃されたと伝へられて居る(おきさ二十六歳、二郎兵衛二十一歳)