西成区史 第6章 教育 1968(昭和43)年10月刊
一 小学校
当区小学校開設年月日
当区における小学校は現在14校(あいりん小学校および区外の金塚小学校を除く)を数えているが、小学教青は明治5年の学制発布以来極めて古い沿革がある。いま各校を創立年の順序にあげると
校名 創立年月日 当初の名称
玉出 明治6年2月15日 第六大区一小区第三番小学校
津守 8年10月15日 第六大区一小区第八番小学校
弘治 31年7月15日 今宮尋常小学校
岸里 大正2年10月31日 玉出第二尋常小学佼
長橋 4年4月15日 今宮第二尋常高等小学校
萩之茶屋 6年6月15日 今宮第三尋常小学校
干本 9年9月1日 玉出第三尋常高等小学校
天下茶屋 10年1月8日 天王寺第四尋常小学校
今宮 10年3月10日 今宮第四尋常高等小学校
南津守 大正2年5月1日 津守尋常高等小学校分教場
橘 11年3月11日 今宮第五尋常小学校
(金塚) 12年3月31日 天王寺第五尋常小学校
南津守 14年4月1日 津守第三尋常小学校
松之宮 昭和2年4月1日 今宮第六尋常小学校
開 5年5月20日 今宮第七尋常小学校
梅南 13年4月1日 梅南尋常小学校浜田国民学校 16年11月10日 高等科のみの単独校、
昭和22年4月1日休校処分
あいりん小・中学校 38年4月1日 昭和37年2月1日
萩之茶屋小学校分校として設置
備考 創立年月日は各校の創立記念日とは若干相違している。
右の表によると区内の小学校としては、玉出校がもっとも古いが、これは西成郡内でも最初のものであった。本地区内では学制発布前、沢田栄司、豊川永次郎の二つの寺小屋が存し、習字、算術等が教授されていたが、学制公布とともに村内の長源寺を校舎として、第六大区一小区第三番小学校としてその開校をみ、遠藤十郎および上記の二名がその教育にあたった。そして9年7月新校舎竣成し校名を第六大区一小区第三番勝間小学校と称しだが、12年3月西成郡大江小学校、20年4月西成郡玉津簡易小学校、34年4月西成郡玉津尋常高等小学校などと改称、41年3月はじめて玉出尋常高等小学校となった。
他方津守新田では、8年10月15日村内の東島に第六大区一小区第八番小学校を開設したが、当時は小学校は上等、下等に分れ各等それぞれ八級とし、毎級の修業期間六ヵ月、各四年をもって卒業とされていた。しかし当時上等小学は一小区一校であったため同校では下等小学科のみであった。かくて12年3月番組廃止とともに、はじめて津守小学と改称したが、17年6月津守新田が勝間村とともに第二戸長役場の管理区域となったため、同校は廃され玉津小学校の分校となった。ところが22年町村制の実施で、津守新田は川南村に属したため、校名は川南村津守簡易小学校と改称され、26年1月に至って津守尋常小学校、大正7年4月津守尋常高等小学校となった。
今宮村は明治30年4月大阪市の第一次市域拡張で、関西本線より北側が大阪市部となったため、それまでにあった小学校も市内に入り、ここに新たに独立小学校を設置する要があった。すなわちそれまでの小学校は明治6年3月12日第六大区一小区第一番小学校として、今宮村六番地戸長役場楼上を仮教室として開設をみていた。そして翌年三一六番の二に新校舎を設立、校名も今宮尋常小学校、今宮尋常高等小学校と改称していたが、前記の市部編入によって、新たに成立の今宮村では、取あえずもとの恵美須・木津の両尋常高等小学校に委託した。そして31年7月15日 まず同村三日路六五五番地の建家を借家して仮校舎とし、児童67名を単級編制として授業開始し、34年11月同村字花園四五七番地および四七五番地を新校舎の位置としたが、戦争勃発等のため遅れ、漸く39年11月新校舎に移転した。かくて44年4月高等科を併置、今宮尋常高等小学校と改称するに至った。
備考 参考のため小区時代一小区における校名をしるすと、一番小学校今宮村、二番小学校今在家村、三番小学校勝間村、四番小学校中在家村、五番小学校木津村、六番小学校難波村、七番小学校吉右衛門肝煎地、八番小学校津守新田であった。
このように勝間・津守・今宮の各村の母体となった3校は、大正期に入るとともに、村勢の急激な伸長とともに児童が激増し、つぎつぎと新設校の設立をみるに至った。まず勝間村(大正4年11月玉出町と改称)では、大正2年10月新たに第二尋常小学校、同9年9月第三尋常小学校を設置し、今宮村(大正6年9月町制施行)では4年4月今宮第二、6年8月今宮第三、10年4月今宮第四、11年3月今宮第五とつぎつぎと増設、津守村でも11年4月津守第二、14年4月津守第三と設置され、その増加振りはまさに驚異のものがあった。
しかしこうした教育施設の拡充は村の財政に深刻な影響を与えたことは、まさに今日の想像を越えるもので、当時玉出尋常高等小学校費義損歎願書の如きをみてもよく推察することができる。
玉出尋常高等小学校費義損の義に付歎願
「……実に本村は古来大阪市殷富の犠牲となり村財政窮乏の中に碌々として今日に至り候。然るに世の進歩に伴ひ諸般の村政年と共に拡大し本年度経費は合計壱万六干余円を算し、就中教育費は其の半以上を占め居り候方今教育の隆盛なる都邑到る処学佼の設あらざるなく文字なきもの殆んど跡を絶たんとす。本村民に於ても子弟教育の必要なるを認め学童は之を全部就学せしめ教育状態は之れを他町村に比して遜色なからんことを期し居り候。
翻って本村小学校を見るに元会所を造作応用し遜次増築したりと雖も、其の建築法は迚も今日の理想に叶はず、狭隘粗雑風に毀み雨に損し真に見るに耐へざる有様に有之候。元より華美を好むにあらざるも学童の危険を黙過し難き時、文部省は本年より大に学政を振張して義務教育年限を六年に定めたれば、俄かに増加せし学童を此の校舎に収容し難く、時年諸君の寄附を仰ぎ校舎の新築を企て多数の賛成を得しも時日遷延の恐れありしを以て、急いで其計画を変更し村債を起し以て一時を救ひ、幸ひ本年四月より新舎に移り教授を開始せしも内部諸器具器械並教育用図書に至りては一つとして備はるものなく、此等の経費予算尚一万円に達し候。此れ微力なる村民の到底耐へ難き処に有之、敢て本村出身諸君の義損を募り、村教育事業の完成を俟たんとし、其多少に不拘御寄附被下候はば之れに過ぎず候。茲に有志一同連署し嘆願候也。
明治四十一年十一月一日
村会議員一同
村長・助役・収入役
このような教育費の年を追うての累増は、今宮、津守の両村状況も同様であったが、今宮で注意される点は、明治40年頃貧困児童で昼間就学不能者のため簡易就学制を設け、あるいは幼年職工のため夜学の制を設け、今宮第一の教員が出張教授した。これはのち今宮第三での夜間尋常小学校(大正8年5月開始)と発展したが、不就学児童問題は同校下では最大の悩みであった。また今宮第二では大正13年4月から大阪府杜会課の嘱託により鮮人教育を開始し、夜学一学校を置いて同校訓導二名、鮮人教師一名がその任にあたった。
かくて大正14年4月大阪市への編入によって各校は市立となったが、昭和期となって旧今宮町域に、2年4月今宮第六、5年5月今官第七、同13年4月梅南尋常小学校の設立をみ、本区内に現行のように14校(大正10年設立の天王寺第四を含む)全部の開校をみた。この間昭和9年9月の風水害で全市校園施設に甚大な被害があったが、当時本区内の学校被害はつぎの通りであった。
災害程度 校名 倒壊建物 職員・児童死傷者
全壊 天王寺第四 木造校舎一棟 ―
同 津守第三 同 児童重軽傷者一
半壊 今宮第二 同 ―
同 津守第二 同 職員死亡一
大破 今宮第一 同 ―
同 同第三 同 ―
同 同第四 同 ―
同 同第五 同 ―
同 同第六 同 ―
同 玉出第一 同 ―
同 同第二 同 ―
同 同第三 同 職員重傷者3 児童死亡9 重軽傷84
同 津守第一 同 ―
また昭和16年4月明治初期以来の小学校の名を改めてドイツのフオルクス・シューレを見習い国民学校と改称したが、この機に設立番号による校名を改め、今宮第一を弘治、今宮第二を長橋、今宮第三を萩之茶屋、今宮第四を今宮、今宮第五を橘、今宮第六を松之宮、玉出第一を玉出、玉出第二を岸里、玉出第三を干本、津守第一を津守、津守第二を南津守、津守第三を北津守各国民学校と改称した。なお天王寺第四の天下茶屋、天王寺第五の金塚小学校への校名改称は大正一四年四月大阪市への天王寺村編入の際行なわれていた。
かかる国民学校の設置とともに教育は時局の進展につれますます国防教育に進展したが、太平洋戦争末期には遂に学童疎開が起り、残存校舎も空襲により多数被災することとなった。まず前者については、19年8月末から9月にかけ全市約6万7千名の学童を二府一〇県に分散実施された第一次疎開にはじまった。そして同年11月約7千5百名の第二次疎開、20年1月の新三年生を含む4万名の第三次疎開および六年生の引揚、および四月の再疎開など数次にわたり実施をみたが、20年7月末現在においての本区内での実施状況はつぎの通りであった。
校数 寮舎数 学童数 派遣教員数 寮母作業員数 1ヶ月以上罹病者数 死亡数 1・2年 3−6年 計 西成区 16 112 245 2,591 2,836 153 338 6 ー 全市 266 1,562 4,289 43,027 47,316 2,783 5,211 169 7
各校疎開状況
校名 疎開年月 疎開先
弘治 19年9月一九日−20年10月30日 泉南郡熊取村ほか三力村
20年5月13日 20年11月12日 島根県飯石郡貴島村(136名)
萩之茶屋 19年9月 −20年10月 泉南郡樽井村・西鳥取村
20年3月25日 20年11月25日 泉南郡尾崎町・東鳥取村
(第二次)
19年12月6日 20年10月30日 和歌山県海草郡紀井・川永・山口村
(第二次)
松之宮 19年9月8日 −20年10月23日 和歌山県有田郡箕島町
梅南 19年9月9日 −20年11月17日 和歌山市紀三井寺・海草郡和佐村・西和佐村
20年4月2日 −20年10月23日 和歌山県有田郡湯浅町・田殿村・広村
(第二次)
20年8月5・6日 −20年10月25日 滋賀県佐山村に再疎開
20年4月2日 −20年10月19日 和歌山県海草郡巽村・亀川村・安原村
(第二次)
20年8月2日 滋賀県甲賀郡伴谷村・畑村に再疎開
19年12月6日 −20年10月31日 和歌山県海草郡有功村
(第二次)
北津守 19年9月7日 −20年10月20日 大阪府貝塚市
天下茶屋 19年9月 −20年10月 和歌山県有田郡御霊村・石垣村・島屋城村
19年12月6日 −20年10月24日 和歌山県那賀郡東野上町・中野上町・村野上村
(第二次)
つぎに戦災については殆んどの各校が20年3月、6月の空襲で、大なり小なり被災したが、本区内で同21年3月休校措置をとられた学校は、徳風(昭和13年1月浪速区より当甲岸町一二番地に移転)開の二校にとどまった。戦災前鉄筋校舎をもつ学校としては、弘治校(11年12月落成)、長橋校(14年6月)、今宮(13年4月講堂のみ)、橘校(一部)、岸里校(8年10月)、千本校(11年11月)、北津守校(14年)、天下茶屋校(12年9月)等で、それも弘治校のほかは一部建物のみ鉄筋校舎に改築されたのみであったため、木造校舎を失う例が多かった。しかし戦後一、二年は疎開その他で児童数も減少していたが、やがて市勢復興に伴うてはげしい児童数激増の追及にあって各校とも老朽校舎の復旧・増築、二部教授の問題に常に悩まされた。
殊に22年には画期的学制の六・三・三制が実施され、旧教育から新教育への転換があり、23年11月には教育委員会の設置、従来の保護者会からP・T・Aの発足、教育委員会西成事務局の設立(28年8月限り廃止)と新しい教育確立樹立は教育界はまことに目まぐるしい活動をつづけた。いま現14校の概況を示すとつぎの通りである。
校名 位置 敷地 建物 戦後の主な施設、行事
弘治 花園町八 5,464u 1,905u 25年7月15日創立50周年記念式挙行、32年6月講堂上教室増築
長橋 鶴北四丁目四 7,564u 1,956u 21年3月開国民学校休校により同区域統合、
25、29、33の各年戦災教室復旧並びに増築、
38年プール竣工
萩之茶屋 甲岸町二 6,652u 2,505u 29年鉄筋三階建九教室竣工、32年プール完成、37年講堂落成
今宮 三日路町一五 5,454u 1,734u 27年8月鉄筋三階建第一期工事、29年1月同第二期、
30年11月同第三期工事、32年9月同第四期工事落成
橘 橘通五の六 4,369u 1,447u 31年8月、32年12月、34年11月鉄筋校舎落成、
39年10月プール竣工
松之宮 旭北通七 4,919u 延4,357u 25年9月ジエーン台風により校舎大破、
30年12月、33年4月、34年2月、35年5月
四期にわたり鉄筋校舎落成
梅南 梅南通六の一 7,653u 延3,638u 33年2月、34年4月鉄筋校舎落成、39年5月講堂竣成
玉出 姫松通二の一七 7,250u 1,729u 30年10月、31年5月、34年3月鉄筋校舎落成
岸里 新開通一の一九 11,300u 2,250u 31年年9月、33年12月、鉄筋校舎落、
38年10月創立五〇周年記念式挙行
千本 千本通六の二〇 8,139 延5,277u 36年9月第二室戸台風にて講堂、二階教室大破、
38年2月鉄筋二階建講堂・教室復旧
津守 津守町東五の121 12,523u 延4,169u 27年1月新校地として白山邸跡敷地に移転決定、
33年3月鉄筋校舎、34年5月鉄筋講堂落成
南津守 津守町東八の四一 7,770u 1,754u 35年1月鉄筋校舎竣成、38年7月プール落成
北津守 津守町東三の八四 7,180u 延2,362u 25年9月ジェーン台風のため校舎大被害、
34年3月鉄筋校舎落成
天下茶屋 聖天下一の六七 7,145u 延4,983u 30年鉄筋校舎落成、38年2月プール竣成
金塚 阿倍野区旭町三の八八 9,431u 2,580u 27年12月、29年11月、31年4月、
33年12月の四期にわたり鉄筋校舎落成
二 新制中学
新制中学はその名の示す通り、六・三・三制の教育制度の改革によって22年4月1日をもって生れたが、当初の22年度は全市で52校発足した。当時国民学校高等科・青年学校・中等学校よりの切替えについては、つぎの方針によって構成せられた。
22年3月 国民学校初等科修丁者は 新制中学一年へ入学
〃 同 高等科一年修了者は 新制中学二年へ編入
〃 同 高等科二年修了者中希望者は 新制中学三年へ編入
〃 青年学校第一部(全日制)一、二年修了省は 新制中学二、三年へ編入
〃 青年学校第二部(定時制)普通科1、2年修了者は 新制中学2、3年へ編入
〃 青年学校第二部(定時制)本科修了者は 新制中学三年へ編入
かくて本区においてもつぎの3校が設立されたが、設立当初は殆んどが小学校舎を利用せざるを得ず、独立校舎を得るまでには、また少なからず苦難な道を歩んだ。
西成第一中学校 柳通二の一―旧市立浜田国民学校々舎設備を引つぐ.
(24年5月天下茶屋中学校と改称)
西成第二中学校 花園町弘治小学校内市立弘治商工学校並びに弘治実科女学校を切換え発足、
また今宮小学校内に四学校の分校開設、24年7月新校舎落成式挙行
(24年6月今宮中学校と改称)
西成第三中学校 本校を津守小学校内に、分校を南津守小学校内に併設し開校
23年3月南津守小学校に本校を移転し、玉出小学校および
宮下校舎(岸松通二丁目)に分校設置
23年6月新開通二丁目現在地に本校移転
26年玉出新町通四丁目に玉出分校設置し宮下分校廃止
28年4月玉出分校独立し西成第五中学校となる
(24年成南中学校と改称)
右の3校についで、23年4月第四中学、28年4月第五中学校それぞれ開校した。
西成第四中学校 23年4月津守小学校内仮校舎にて開校
23年6月現在地に移転、24年4月津守小学校内に分教場開殺、28年9同分教場廃止
(24年5月鶴見橋中学校と改称)
西成第五中学校 28年4月成南中学分校独立して開校
(28年6月玉出中学校と改称)
阿倍野第四中学校 22年4月金塚小学校内に開校
24年7月松虫通3の36に現校舎に新築移転
(24年5月1日松虫中学校と改称)
このようにして本区内では5中学および金塚小学校山王地区を含む松虫中学およびあいりん中学を有するに至ったが、校地決定の後は、鉄筋校舎の建設、講堂あるいは体育館、プール、図書館、特別教室など殆んど連続工事を実施せざるを得ない状況であったが、各校P・T・Aの多大の援助を得て、今日の充実さを示すに至った。
校名 所在地 敷地 建物 主な工事
天下茶屋 柳通二の一 11,051u 4,022u 29年より37年まで六期にわたり工事実施、
35年プール、37年図書館並びに総合工作室落成
今宮 東四条二の二八 19,501u 7,034u 24年、28年、34年、35年、36年校舎落成、
32年プール、35年産業教室、
38年体育館講堂落成
(なお33年5月南校舎10教室放火により焼失)
成南 新開通二の二〇 14,797u 5,826u 29年6月、33年1月鉄筋校舎竣成、33年工業教室、
36年理科教室落成
鶴見橋 長橋九の九 13,791u 2,927u 23年、28年、31年、33年、35年、37年校舎落成、
34年工作室落成
(なお25年1月南棟五教室原因不明の出火で焼失)
玉出 玉出新町5の35 7,672u 3,125u 28年、29年、35年校舎落成、37年講堂兼体育館、
38年機械工作室落成
松虫 阿倍野区松虫通3の36 11,688u 2,634u 29年7月、30年8月校舎落成、37年講堂兼体育館、
プール、38年4月特別教室竣成
三 府立高校
本区児童の進学する府立高校は今宮高校・阿倍野高校・住吉高校の三校があるが、いずれも隣区浪速・阿倍野に存し当区内には存在していない。しかし大正5年4月より府立今宮工業高等学校が西四条二丁目の地に開設され、すでに50有余年、卒業生総数一万数千名を世に送り、わが国産業発展の原動力として社会に貢献し来っている。
本校の沿革に関しては、その当初大正3年4月1日当時の今宮村の現在地に府立職工学校今宮分校として開設されたのにはじまっている。そしてこの府立職工学校は、日露戦争後躍進する大阪工業界の要請する実務技術者を養成する工業学校とし、時の牧野伸顕文部大臣が大阪府知事高崎親章に命じ、明治41年4月大阪市北区西野田の地に開校せしめたもので、機械・造家・電機の三科が設置された。そしてその創立後7年いよいよこの種学校の拡張増設の必要が世間に認められ、前記の通り大正3年4月1日まず分校として設けられ、造家・印刷・電機・鋳工・仕上の五課程を置いた。当時の入学資格は尋常小学校卒業程度、修業年限三年であった。
そして大正5年4月1日府立今宮職工学校として独立し、7年4月には現在の定時制の前身である夜間部(機械・電機・建築の三科で発足)も設けられ、翌8年3月には木型・鍛工の新工場も落成し校舎設備はいよいよ充実されることとなった。また大正14年3月精密機械科を設置したが、15年3月不幸機械工場より出火、電機・印刷両工場に延焼三工場が全焼した。かくて昭和2年4月には仕上・電機・印刷の各科実習工場(鉄筋コンクリート造三階建)を竣工せしめ設備を一新した。その後13年4月夜間部を廃止し、府立今宮第二職工学校と改名したが、15年9月1日の学制改革で校名を府立今宮工業学校(昼間五年制)、同じく第二工業学校(夜間四年制)と改めた。
戦争中勤労報国協力令による勤労奉仕、あるいは機械三、四年生の藤永田造船所への全員動員等正常授業を欠いたが、20年3月空襲では焼夷弾360余個をうけ木造校舎のすべてを焼夷、21年漸くバラック校舎8教室を建設、大国小学校の一部四室を借用した。そして22年6月7日天皇陛下の行幸を仰いだが、翌23年4月学制改革によって、校名を府立今宮工業高等学校(全日制、定時制)と改め戦後の教育のスタートを切ることとなった。かくて25年3月新館第一校舎、26年3月新館第二校舎、28年南新館(鉄筋三階建)、30年一月新本館(鉄筋三階建)、33年体育館、37年第四校舎(鉄筋三階建)とつぎつぎ完成、堂々の校舎設備を誇るまでに充実されるに至った。
敷地 24,643平方メートル 建物 延13,014平方メートル
(本館ほか28棟)
設置課程 全日制(修業年限三年)機械科、電気科、建築科、印刷工業科
定時制(修業年限四年)機械科、電気科、建築科
なお本校の教育方針は、実力と伸展力を兼備した有能な工業技術者を養成するを目標としているが、すでに卒業生としては、各科から五名の博士号保有者も出し、特にまた建築科は、寺田済美館をはじめ墨江校など公共建築物の実績を誇り、電機科より電動機、変圧器の優秀品の製作品を出す等、工業界に貢献すること大である。
四 幼稚園と各種学校
当区における市立幼稚園としてはつぎの三園である。
園名 所在地 創立年月日 主な沿革
玉出 姫松通二の一七 昭和3年4月10日 当初玉出尋常小学校講堂を仮園舎として保育開始
20年3月 戦災をうけ園舎全焼休園となる
21年4月 再開園、玉出校内六教室使用
33年10月 第四期工事完成
42年5月 現在在籍数247
天下茶屋 聖天下一の三二 昭和26年4月5日 当初天下茶屋小学校内で玉出幼稚園分園として開園
27年2月 新園舎完成し移転
27年4月 市立天下茶屋幼稚園と改称
42年5月 現在在籍数 306
津守 津守町東五−115 昭和23年2月6日 当初旧津守小学校地内に玉出幼稚園分園として開園
24年3月 津守小学校併設園となり津守幼稚園と称す
33年3月 現在地に新園舎落成移転
42年5月 現在在籍数 204
このほか私立幼稚園として財団法人鶴見橋幼稚園(昭和23年9月18日開設)、岸の里幼稚園(昭和28年8月10日開設)などがある。
また、各種学校としてつぎのものがある。
名称 所在地 沿革その他
学校法人金剛学園 梅南通五の五 昭和23年現位置に校舎落成
25年財団法人金剛学園を学佼法人金剛学園と改称し日本政府の認可をうく(初等科)
29年中等部併設
35年高等学校併設
43年5月 現在在籍数小学校 180名
学佼法人天下茶屋学園 南吉田町二一
天下茶屋ドレスメーカー女学院
昭和23年 財団法人天下茶屋洋裁女学校開設
25年 現在地に新校舎建築移転
26年 学校法人組織に変更
30年 天下茶屋ドレスメーカー女学院と校名改称
34年 鉄筋三階建校舎建設
準学学校法人研修学院 柳通一の44
大学予備校
27年 大学予備校(個人塾)として開講
29年 研修学院大学予備校として大阪府認可
30年 準学校法人研修学院の認可を受け大学予備校設置
近畿理容・美容専門学校 甲岸町二〇
29年 近畿理容専門学院として開校
30年 財団法人の設立認可
36年 近畿理容・美容専門学校と名称変更
東洋珠算専門学校 田畑四の五 26年 私塾東洋経理学院として創設
29年 大阪府認可を受け東洋珠算専門学校と改称
花園珠算学校 旭南通四の三 23年 私塾大阪速算普及会創設
29年 学校教育法83条により花園珠算学校を認可をうける