第6 教 育   =今宮町志1926(大正15)年9月発行・部分)

本町教育の推移変遷

徳川時代以前

 本町は随分古い歴史を持つた土地であるが、教育の方面から調べて見ると徳川時代以前は一定の形式を持つた教育は殆んど行はれてゐなかつた様である。

徳川幕府時代

 此時代に入つて年代は明かでないが憶想寺、光明寺に寺子屋が出来て住職が読み、書きを教へる様になり、他にも2~3出来たり、無くなつたりしていた様である。

幕末から明沿初年

此時代に於て明かなのは
一、葱美須神社境内、今の社務所に中川賢三氏
(中川氏以前よりあり其氏名不詳)
二、光明寺。勝部宜同氏
(八畳二間程の所にて読書、習字、珠算を教ふ)
三、憶想寺。紳保咸洞氏
(咸洞氏の前は神保観了氏、四書、習字、珠算、裁縫を教ふ)
四、海泉寺の向ひの通名油清。
(今より8~90年前にあつたが明治初年に至りてなくなつた)
五、今の恵美須町四丁目。幸五郎氏
(能書家で主として習字を教へた)
六、海泉寺西隣なる山口の裁縫屋。
等で、何れも6歳以上の子供20人前後を集めていた様である。

 明治時代

 第一小学校 明治5年学制発布せられ、時の今宮村戸長大野重友氏が有志と相謀つて奔走せし結果 明治6年3月12日 西成郡今宮村第六番地戸長役場楼上を仮教室として教授を始め、今宮学校と称した、其の開校が最も早かつたので第一番小学校の名称を受けた。これが現時の今宮第一小学校の前身である。当時在籍児童80余人、教師3名、神田咸洞、久保田浅次郎、西村彌七郎を任用している、當時戸数680戸人口2,060余人であつた。明治7年になつて其2月2日大阪府より資金として金200円を下賜せられた下賜状の文面に
西成郡第一区此度区中第一番小学校新規建営ニ付為資費金二百円下遣候事
明治七年二月一日
大阪府権知事 渡邊 昇
 とある。即ち此の費金に村の支出費を加へた金879円25銭を以て、西成郡今宮村三百十六番の二(敷地180坪)に、間口十間、奥行五間の平家建校舎が建てられたのが同年の8月20日で、翌明治8年1月から下等八級上等八級に編制して教育を施しつヽあつたが明治16年1月教育令改正に伴ひ、初等科三ケ年六級、中等科三ケ年六級の教則が実施された。さうして同年12月15日、文部省から左の如く奨励品を下賜された。
奨励書一通     目録一通
理化小試器機一組  理化小試書一部
綴字捷径一組    指数器一個
掛算盤一箇     図引具五組
地理描図法一部   絵具一組
 明治19年7月 工費298円53銭で間口奥行三間半の校舎一棟増築し明治20年4月1日かち、昨年4月9日附公布の改正小学校令及び之に基いて発布せられた府令に依つて尋常科簡易科を設置した。
 それから明治25年4月に至り尋常科第三学年以上に裁縫科を課し 明治26年4月1日から簡易科を廃して修業年限を四ケ年とし、今宮尋常小学校と改称し、明治27年4月26日修業年限三ケ年の高等科併置を認可せられ、今宮尋常高等小学校と改称し、其4月30日には昨年来起工の校舎が新築落成した、
 其敷地は字馬淵字貝柄547坪で木造二階建一棟、同平家建四棟であつて其費用6,072円48銭3厘であつた。斯くて其年の12月21日には明治天皇の御真影を奉戴し学校の威容が整つたが、二年後の明治29年6月には早くも教室の狭隘を来し分教揚として裁縫科を海泉寺内の一室へ置くに至つた。
 日清戦利品を下賜せられたのも此月であつた。
 明治30年3月表門内一時借入地及校門前借家敷地計285坪を校舎増築豫定地として買収した。
 然るに4月に至り今宮村関西鐵道線路を境界として北部全体を大阪市に編入せられ学投所在地は恵美須町と改称せられた結果、恵美須尋常高等小学校と改称した。
 編入に取残された今宮村の南部と、木津村の南部とは、合同して今宮村と称したが、学校が大阪市に取られてしまつたので新校舎の出来る迄の今宮村義務教育は大阪市南区恵美須尋常高等小学校に依托し、之と共に高等科教育も南区恵美須尋常高等小学校並びに木津尋常高等小学校の両校に依托した。
 明治31年7月15日、時の村長渡邊麻次郎氏村会議員等相諜つて、今宮村三日路六百五十五番地の建家を借家して假校舎として開校し、児童67名を単級編制として、恵美須尋常高等小学校尋常科正教員難波田篤貞氏を挙げて教授に當たらしめた。是が第一学校再興の端緒である。
 明治36年5月3日、校舎敷地を1,594円60銭で買収し建築する筈であつたが明治37年3月20日、日露時局の為建築無期延期の決議をした。其為8月30日に今宮村六百五十六番地元今宮共有家屋を校舎に假用することを出願し、同9月8日に認可せられ此処で教育を施していた。斯くて日露役が終結し明治39年八月23日に至つて、漸く現在の今宮第一尋常小学校の地に工費6,950円で、平家校舎一棟を竣工せしめることが出来た。
 さうして其翌明治40年には3月31日附で大阪府から教授訓練の成績及設備佳良を賞せられ図書器械料として金70円の下附を受け又10月15日に日露戦役記念として連発歩兵銃外二点の下賜を受けたのである。此年の10月29日に至り二階建新築校含が落成し、それに移つた。さうして明治44年4月に高等科を併置し十二学級を編制し今宮尋常高等小学校と改称した、大正4年10月26日今上陛下御真影を奉戴した。大正9年4月1日、今宮商業補修学校を本校内に附設した。大正11年7月16日東校舎の改築が落成した。
第二小学校 大正4年4月10日 今宮村木津字小橋四百六十三番地(797坪余)に木造二階建校舎二棟の新築が竣工し同月15日 今宮第一尋常高等小学校より尋常科児童822名を分離開校して、今宮第二尋常小学校と称した。大正8年4月30日に木造二階建一棟が増築された。大正12年10月26日今上御真影を奉戴した。大正13年4月21日から、大阪府社会課の囑托により、鮮人教育を開始し、夜学一学級を増し鮮人教師一名と本校訓導二名が其教授の任に當つた。
第三小学校 大正6年6月16日今宮町大字今宮七十五番地(1,108坪余)元煙草専売局建物三棟を改造して第一第二両校より尋常科児童461名を分離開校して今宮第三尋常小学校と称した。
 大正7年12月7日 今宮第一尋常高等小学校の高等科を廃して今宮第三尋常小学校に併置し、其校名も内容に伴い変更した。
 大正8年5月1日昼間就学困難なる者の為に今宮第三尋常高等小学校に簡易就学部を設けて夜間教授を始めた。(児童78人)大正9年3月31日今宮第三尋常高等小学校に対し西成郡長金森輝夫氏より小学校表彰規定第四條により漢和大辞典一部賞与せられた。12年10月16日御真影奉戴、斯くて大正14年1月に至り東校舎として鐵筋コンクリート三階建の一棟が竣工した。
第四小学校 大正10年4月1日 今宮町大字今宮六百五十八番地に1,507坪の地を相し、今宮第四尋常高等小学校を創立して第一、第三両校の尋常科児童970名及第三校の高等科児童全部を分離した。
第五小学校 大正11年3月21日 今宮町大字木津字橘字櫻(1,800坪)に今宮第五尋常高等小学校新校舎竣工し11月16日、今宮第一第二両校の尋常科児童1,358名及今宮第四校高等科児童全部404名を分離開校した。大正12年10月26日御真影を奉戴、
 斯くして本町は今や小学校五校尋常科学級数130 児童6,966名。高等科学級数13、児童607名 職員157名 外に夜学児童99名 商業補習学校校2学級80名の多数就学者を教養するに至り、教育経常費の総額は21万萬8,243円を算し各校に青年団の分団を置き、教育後援会は組織せられ、同窓会成り、其他第二小学校には処女会及ボーイスカウト。第四小学校には淑徳会。第五小学校には少年団、少女団、家庭修養曾南部聯合修身研究会等が組織せられ学校教育は勿論、更に社会教育に迄も活躍するに至つた。之を27年前一学級67名の児童を職員一名を以て教へていた時に比べると實に隔世の感なき能はざるほど、夫れほど急速の進歩発達を遂げたのである。
今宮職工学校 尚本町内には府立の中等学校が一校存在して居る。それは大阪府立今宮職工学校である、本校は大正2年12月一部の新築が落成して大阪府立職工学校附設夜学工業補修学校を開校した事に始まり翌大正3年府立職工学校分校となり夜学校の方は府立今宮工業補修学校と改称して仕上及電機工揚、本館、汽罐室、附属建物等数棟の落成を見るに至り大正4年には印刷工揚、鋳工工場、生徒控室等も落成し大正5年に建築科工揚及附属建物が落成して茲に建築、印刷、電機、鋳工、仕上の五科を濁立して府立今宮職工学校と称したのである。
 次で大正6年には講堂其他附属建物が落成し夜間部をも増設したが、時勢の要求に伴い大正7年には木型、鍛工、二科を増設し叉大正8年には木型工揚及鍛工工揚を増築し大正11年に至つて本科三ケ年、高等科三ケ年、夜間部二ケ年に組織を変更し中等学校と同等以上の学校と認定され且つ文官任用令第六條に拠る認定を受け堂々たる完備の学校となつか、尚ほ大正12年には製作実験室の建築大正13年には自動車納庫建築も出来、愈ヽ立派になつた。又此年に大阪府社会課主催職業補導会(三ケ月修了)を設置し大正14年度からは精密機械科をも新設することになつて愈ヽ発展しつヽあるのである。

以下各校に就て細説しよう。


今宮第一小学校

設置
 明治31年5月16日、本校舎敷地を今宮村番外千三百九十八番邸に郡長から指定せられたが建築開校の運びに至らず同年7月15日 今宮村字三日路六百五十五番地の建家を借り仮校舎として開校した。其後34年11月21日に至り校舎敷地を本村地今宮村字花園四百五十七番の一及四百七十五番地此坪数938坪と変更指定せられ其敷地を36年5月3日に買収したが時局の為め新築するの気運に至らなかつた、それで教室狭隘を告げたので今宮村六百五十六番地元今宮共有家屋を校舎仮用出願し9月8日に許可せられ、次で39年5月11日学校敷地の地鎮祭を施行して新築に着手し9月27日新築校含へ假移転し、11月17日新築落成式を挙行した。其後42年10月29日に二階建108坪の校舎八教室増築し大正元年9月1日二階建校舎百50坪十二教室の建築竣り大正8年1月8日校庭に於ける奉安庫の新築が竣工し大正10年12月学校舎一部改築のため職員室宿直室及バラック建を除去し翌11年7月16日改築校舎二階建190坪と講堂90坪とが落成して其落成式を挙行するに至つたのである。
廃合
主なものは左の通りである。
 明治44年4月1日高等科を併置し、大正7年12月7日大阪府指令学事第4342號を以て當町高等小学校教科を第三小学校に併置し、第一小学校併置廃止の件認可され1月8日より実施届けでをした。
学校設備の推移状況
 明治31年7月15日今宮村三日路六百五十四番地建家を借り假て校舎に當て授業を開始してより以来増改築に関しては教育の推移変遷の條下並本校沿革中に記され居るを以て之を略し、校舎以外の設備に就て略叙すると左の如くである。
 明治三十九年唱歌室雨天体操場設置計画し、五月十五日起工し同年八月二十三日竣工した。
明治40年666坪の空地を運動場に使用し、校舎運動場稍ヽ余力を生じた。
 大正7年2月5日、階上御真影奉安室より職員室に臨時奉安室を設け、移奉したてまっり翌8年1月19日、煉瓦積コンクリート塗奉安庫が運動場の北東隅に設置されたので職員奉安室より御真影を奉遷し奉つた。
 大正12年度、專任校医を設けられ、医務室の要を見たるを以て、職員室の一部に図書室兼医務室を設け、学校創設以来の参考書図書及び理科の標本機械實験具等を収めた。
時勢に伴ひ体育の必要を痛感し肋木水平棒、機械体操等不完全ながら設置された。
衛生的方面に於ては二個の井戸と八個の水道線を設けた。
 大正2年度に於て、唱歌室、二教室、理科室兼平教室一室を特別教室とし翌大正13年度に於て学級編制の都合上前掲の特別教室を普通教室とした。
通学区域の変遷
 明治31年7月15日今宮村宇三日路六百五十五番地に借家しで假校舎を開きし以来明治39年9月27日今宮村花園四百五十七番に新校舎落成移転するに至つても尚今宮村全部の児童を収容してゐた。
 然るに大正4年4月16日今宮第二小学校創立により萩の茶屋駅を中心として東西に通ずる道路を境界として北を第二校に送り、南を以て本校通学区域と定めた。
 更に大正六年六月十五日今宮第三尋常高等小学校創立により曳船以南及び現今の旭北通以南を以て本校の通学区域とし、
 又大正10年3月31日今宮第四尋常高等小学校創立により、旭北通一丁目より九丁目に至る以南及び南海線路以西を以て本校通学区域とし
 更に大正12年4月23日第五校創立せらるヽに至り鶴見橋通り北通り共に一丁目二丁目三丁目旭通り一丁目二丁目を第二校より分譲せられ、現在花園、西萩、西四條一。梅南通一、二、三、四。旭南通り一、二、三、四。旭北通一、二。及び三四の半分、即ち南側鶴見橋通り一、二、鶴見橋北通一、二 を以て本校通学区域と定められた。
教育上施設
 其主たるものヽ一は簡易就学で明治40年頃貧困児童の昼間就学し能はざる者の為めに、夜間に於て義務教育を授くる目的のもとに簡易就学を設けたが、後幾ばくも無くして、今宮町のマッチ会社電光社内にても幼年職工のために夜学を設け、第一小学校教員が出張して之れが教授の任に當つた。之れより二ケ所にて強授をなす事となつた。当時の出席児童は、両所合して60人内外で其成績余りに見るべきものもなかつたので大正6年3月一先づ廃校したが、翌大正7年3月に現在の第三小学校にて再び開始するに至つた。
 次は樹栽で、校庭植樹にプラターン、柳、松、梧桐、栴檀、藤等取交ぜ、十敷本あり。栽植年月は詳かでないが概ね十数年前の栽植にかヽるものらしい。大なるものは、径約八九寸、高サ三間余に達し、風致と衛生の利を兼備せること附近小学校中嶄然頭角を現はしてゐる。就中プラターンは成育最良好で、夏時の緑蔭愛すべく、柳の糸の枝を垂れたのも、亦賞するに足るものがある。其他主なるものは左の通りである。
一、校外教授、修学旅行の外六学年は卒業記念旅行として、伊勢参宮旅行を行ふ。
二、学芸会、毎年一回冬季に行ふ。
三、成績品展覧会 書方、図画 手工、裁縫等の技芸品を主とし時々之を行ふ。
   又書初展覧会なども行うてゐる。
四、運動競技会 毎年一回秋季に行ふ。
五、遠足曾 身体鍛錬を主として、時々行ふ。
住民と向学の状況
一、学齢児童と就学者との比較
 向学の状況を知るには種々な統計的事實の調査を必要とする。叉学齢児童と就学者との比較も其一般を窺ふに足らう。即ち明治40年度より大正13年度迄の十八ケ年の卒均を示せば学齢児童百人中就学児童九五、五七人で之が平均を更に各年別に掲載せば左の如くである。
学齢児童の百中就学歩合
明治40年度   90.86
同 41年度   87.32
同 42年度   95.35
同 43年度   94.88
同 44年度   98.98
大正元年度    97.08
同 2年度    93.55
同 3年度    98.60
同 4年度    97.96
大正5年度    96.92
同 6年度    97.30
同 7年度    96.52
同 8年度    99.18
同 9年度    99.29
同 10年度    97.71
同 11年度    95.95
同 12年度    85.95
同 13年度    96.94
之に依って観るに其就学歩合は強ち優良とは言へないが不良でもない。中位にある。
二、出席歩合の比較
 是亦明治40年度より大正13年度迄の十八ケ年の平均歩合は百人中八五、六六人で、之が平均を更に各年度別に掲載せば左の通りである。
各年度出席平均歩合
明治40年度   65.67
同 41年度   60.50
同 42年度   62.57
同 43年度   88.09
同 44年度   87.45
大正元年度    84.06
同 2年度    90.38
同 3年度    91.21
同 4年度    84.86
大正5年度    92.44
同 6年度    90.12
同 7年度    90.93
同 8年度    90.67
同 9年度    90.57
同10年度    91.67
同11年度    93.83
同12年度    93.97
同13年度    92.96
 右の表に依て見るに十八ケ年一ケ年平均の出席歩合は優良とは言へないが明治四十年度から年を追つて良好に進みつヽある事が知られる。
三、中等学校の入学志望者
 大正5年度迄の志望者員数は記録がないので知ることが出来ぬが、大正6年度より大正12年度迄、即7年間の志望者総数は242人で之を年度別に示すと左の如くである。
中等学校入学志望者
大正6年度   20名
同 7年度   23名
同 8年度   32名
同 9年度   30名
同 10年度   27名
同 11年度   40名
同 12年度   70名
 右表に依て見ると中等学校入学志願者は甚だ少く從つて向学心の薄きに似ているが之れは一般父兄の職業と家庭の生活状態が然らしめるもので、中等学校入学志望者が少いからごとて直ちに向学心に富まずと断定するのは酷である。即ち大阪市外地否最近に市政を施かるヽ土地として逐年発展し、衛生に教育に其他一般行政の改善さるヽに伴ひ、移住者の数も多く、交通機関の発達は益々市外地に居住する者を多からしめ、為に曩の一時的の居住者も遂に永住的となり、從って夫等の子女の成長に連れ中等学校志望者の増加するのは必然の事である。これは前掲の表にも現れてゐる。
四、講演会出席状況
 是も亦向学心の強弱を知る一端であるが其出席者の多寡は講演そのものヽ趣味の有無、意義の難易、或は時問の関係、宣傳の巧拙等に依つて左右せられるもので、出席数だけを見て向学心の厚薄を測定することは出来ぬ、併し当校では一般父兄及就学児童の会集するものが常に夥しく盛会を極めて居る。
五、父兄及一般住民の向学心
 土地の関係上労働階級者が多く、其日の生活労役に追はれ、子女の教育すら学校に委ねたままで営々として家業に從事しつヽあるから假令向学の心が盛でも共の機会がなく、為にせめては彼等の子女なりと可成的十分の学校教育を施さんとの願望を有するものらしい。即ち学校等に於ける講演会には彼等の多くは競つて出席する。児童教育に封する学校の希望、並に注意事項等、一々傾聴し学校と家庭との連絡上良成績を挙げつヽある事を見ても明かである。
 之を要するに本区域内住民の向学心は日進月歩の観かあるけれども村政より町政最近には市政にならうとする施政的変遷と農村より住宅地或は工業地更に進んで大大阪市たらんとするの外観的変化や経濟的発達、交通機関の伸展等の影響を受け、住民の生活状態を刺激する事が有形無形に亙つて烈しく、為に今や一般の向学的態度は過渡期に在ると言つても過言であるまい。從つて今後市政實施の暁は、形式的に實質的に総べての教育設備の完全さるヽを得べき事を以て、住民向学心の向上発展を見らるべき事は明確である。

今宮第二小学校

沿革
 本村交通の発達と共に人口の増殖日に著しく、就学児童の数も忽ちにして多きを加へた為め大正3年5月1日、西成郡長より尋常小学校一校増設の件を指定せられ、同年10月7日大阪府立職工学校内模範職工団長と校舎建築の契約を結び、10月10日起工し、翌年4月10日竣工 同年同月15日今営第一小学校の尋常科第四学年以下児童822名を分離独立開校し同年5月9日落成式を挙行した。これが當校の起源である。そうして其年の6月16日教育に関する勅語謄本を下賜せられた。
大正7年9月1日今宮第三小学校々舎落成につき百数十名の児童を同校に分つた。
大正8年8月30日本校西側に校舎一棟172坪を増築落成。
大正10年4月1日今宮第四小学校々舎落成につき児童を第三第一小学校に分つた。
大正11年8月鐵筋コンクリート造りの御真影奉宏庫一棟竣工。
同年10月22日今宮第五小学校々舎落成につき児童を第一、第五小学校に分つ。
大正12年4月小使室北側平家建物置6坪竣工、同年10月26日御真影を拝受した。
学校の設備 左表により概要は明らかである。
今宮第2小学校設備概要  
設備年度 校地(坪) 校舎(坪) 普通教室
(坪)
特別教室
(坪)
運動場 推定児童数
面積(坪) 児童一人当面積
4年創立年度 797.50 220.50 210.50 17.00 318.00 0.38 837
大正5年度 797.00 木造二階建 184.50
平屋建附属 36.00
332.50 0.47 707
大正6年度 0.22 1,511
大正7年度 0.36 924
大正8年度 218.50 0.28 1,188
大正9年度 969.96 木造二階建 315.00
平屋附属建物 89.00
315.00 34.00 374.96 0.24 1,562
大正10年度 332.00 17.00 0.28 1,339
大正11年度 0.23 1,630
大正12年度 322.00 367.96 0.28 1,314
大正13年度
 末 現 在
970.00 木造二階建 315.00
平屋附属建物 96.00
385.00 368.00 0.26 1,415
通学区域の変遷
 大正4年4月16日本校創立により第一小学校の学区域たりし現在の萩の茶屋駅を中心として東西に通ずる道路鶴見橋通りを以て南北に分ち北部を本校の通学区域とし
 大正6年6月16日第三校創立により字四條ケ辻以東字曳船以北を第三校へ分譲し第一校より旭北通りを区域として北部を第二の区域に編入し
大正11年11月22日第五校創立により同日から西四條二丁目同三丁目。長橋通一丁目二丁目。出誠通一了目二丁目。南開一丁目を第三校へ分譲し又同日旭北通三、四、五、六、七、八丁目。旭南通三、四、五、六、七、八丁目。旭通り三、四、五、六、七丁目。梅通り四、五丁目。橘通り六丁目。松通り四、五、六丁目。柳通り一丁目。櫻通り六、七、八丁目。梅南通二丁目を第五校へ分譲し 同日鶴見橋通り一、二、三丁目。鶴見橋北通り一、二、三丁目、旭北通り一、二丁目 を第一校に分譲したので 
現在本校の学区域は左の如くなつた。
鶴見橋通り四、五、六、七、八丁目。鶴見橋北通り四、五、六、七、八丁目
長橋通り四、五、六、七、八、九丁目。出城通り五、六、七、八、九丁目
南開四、五、六、七、八丁目。中開三、四、五、六丁目。北開三、四丁目
教育上の施設
 主たるものヽ第一は内鮮協和会今宮夜学校である。其目的は近時我大阪府下に於ては、朝鮮人の在住する者が遽かに増加し、其数今や四萬人に垂んとする欺態であるが、此遠来せる我が同胞の生活實情を見るに言語、風俗、習慣、教育等が内地とは著しく異るので、其多くは内地の事情に適応し難く、其求職及び居住の如きは甚しく困難と不便を感じて居る。かくして是等の我が同胞は、物質的にも精紳的にも生活上の幸輻を享受することが出来ず、極めて悲惨な境遇にあるのである。この現状に鑑みて、財団法人内鮮協和曾では、其事業として差當り最も必要と認められる共同宿泊所、職業紹介所、無料診療所等の機関を設け、叉此所に彼等のために夜学校を経営するに至つたのである。故に本校は大阪府下に在住する朝鮮人に小学校程度の教育を施し、彼等のために生活の利便を與へ、延いては内鮮融和の實を挙げんとする目的を持つものなのである。
 組織は今宮第二小学校長奥本民藏氏が校長事務取扱の囑託を受け、同校訓導氷福恭一、牧野武夫の二氏と在留先輩たる安鐘晳氏とが教師を囑託されて、實地教授に當つてゐる。
 即大正13年4月21日開校式を挙げ、爾後毎日午後7時より9時迄、一週間の教科配當を次の如く規定して、教授を進めて来た。
学科目 一年生 二年生 三年生
修身 1 1 1
国語 7 7 5
算術 2 2 2
理科 1 1 1
鮮文 1 1 1
地理 1
歴史 1
12 12 12
 授業料は徴集せず、学用品一切は給貸輿することにしてゐる。
経過状況としては4月開校以来の出席を表示すれば次のやうである。
授業日数 入学数 退学数 在籍数 出席総数 欠席総数 日々出席平均 日々出席百中歩合
4月 8 96 0 96 454 121 56.75 78.96
5月 27 22 19 99 1367 1226 50.63 52.72
6月 24 19 55 63 879 384 36.63 69.60
7月 25 11 15 59 791 577 31.64 57.82
8月
9月 25 18 35 42 613 240 24.52 71.86
10月 24 30 15 57 967 229 40.29 80.90
11月 24 7 9 55 811 467 33.79 63.46
12月 19 21 27 49 385 328 20.26 54.00
1月 18 18 14 53 340 557 18.89 37.90
2月 23 23 22 54 331 591 14.39 35.91
 何と云つても、生活状態の安定しないが為に入退学とも頗る多く、要するに生徒の出入か頗る頻繁なのである。
 斯くして4月開校後一時は90名以上も収容した事があるが、其後漸々に減少して、現今では動かない者約30名を基準として、これに新入しては退学する者約10名内外づヽを上下してゐる状態である。
 成績を観察するに普通学校に学んだ経験のあるものはそれだけの素養があり、然らざるものも割合に漢学を修めた経験があつたりして、その上、何と云つても相當の年齢に違してゐるから理解が早く、進度は意外に早い。
 必要に迫られての上熟心なものだから、三年生ではすでに尋常五年の程度を完全に終了しようとするものが数名ある。
住民の向学状況
 子供の本性から言つて彼等は最もよく、何の飾り気もなく家庭乃至環境の状況を反映するものであるから、茲には主として児童を通して一般住民の向学状況を推測して列挙することにした。蓋し夫れは可なり真に近いものだと信じたからである。
 惟ふに教育事業の不振は、大都市接続町村の一大特産物である。其の由つて来る原因は種々あるだらうけれども、ひしヽと迫り来る彼等住民の生活苦は主なるものヽ一つであることは言ふまでもない。衣食足りて禮節を知るとは千古否定されない真理であるから仕方がない。
 で 彼等の生活状態を其の職業によりてて先づ観察して見るの要がある。
△商業 438(商店 370、古物商 28、行商 40)△職工 142△運送人 135△職人 211△手傳 91△製造職 77△会杜員其の他 63△農業 27△船員 24△人夫 15△手仕事 11△人力車夫 9△店員 9△宿屋業 5△紹介業 4△葬具貸物業 3△按摩業 2△洗濯業 2△牧畜業 1△馬乗 1△無職業 127
 勿論此の数は本校に在学する児童の父兄乃至保護者の職業調である。從て全禮ではない。だから之を以て、直ちに校下住民の職業別表と云ふ訳には行かない。けれども以て一般職業的傾向は窺ふに足ると思ふ。
 今宮町の中で特に校本の下には、無産階級(下層生活者の意)が多い。全く其の日の生活に追はれてる者が主であると言つても良い。右の表に現はれた上から見ると、大変に名称が良くなつてゐるが、例へば、行商と言うた所で、空瓶を集めて行くもの、かりヽ屋、夜なきうどんとか言つた様なものなのである。是等は少しでも似た所、共通点を見出して同一種類の中に集めたが、實は上述の調査のみにても数十種の職業に分れてゐる。
 斯うした職業的傾向から見て一般に経濟上貧困家庭の多い事は事実で其の中の多くは、地方に於ける労働忌避者か、或ひは浮浪労働者の集りであるともいへる。
 斯る家庭組織に於ては、家庭道徳の欠乏が甚しく、非教育的な環境が頗る多い。實際に於て子供を見てやらう、子供には学問させ度いと思つた所で、口を干して迄と言ふ意気込みもなく自然放擲に傾くのは是非もない。
 顧みられなくとも就学し得る子供は、まだしもだが、夫れすら能はざるものが年を追うて増加する傾向である。
就学児数 不就学児数 百中歩合
大正9年度 4,775 39 99.29
大正10年度 5,224 142 97.71
大正11年度 6,096 299 95.97
大正12年度 6,749 1,103 85.95
 斯うし表は何を意味するか。(尤も本表は今宮町全体である)恒産なきものは恒心なしといふが、彼等の転々浮草のやうな生活は、次の表に依つても窺はれる。
途中入退学表
途中入退学表
途中入学 途中退学
大正9年度 334 297
大正10年度 392 633
大正11年度 365 914
大正12年度 420 230
 尤も本表中、大正10、11年度には今宮第四第五校増設によるとは言へ、其の一般の傾向を推すのに難くはない。加之7月、12月も押し詰つて入退学があり、或ひは学年末も僅か旬余日になつても、まだ入退学があるのである。余儀ない事情もあるかも知れないが、随分無鉄砲なことで甚しいのは学期末に入学して翌新学期早々に退学すると云ふ様な例も少なくない。
 非教育的な家庭に育ち、環境に弄ばれつヽも登校する児童の出欠表を示して見よう。
日々出席平均 同上欠席平均
大正9年度 1,164.56 194.05
大正10年度 1,275.92 125.47
大正11年度 1,767.03 106.37
大正12年度 1,249.34 93.41
 本表によると、年と共に其の歩合は幾らか善くなつてゐる様にも思はれる。
 併し連続欠席児童の多いのには驚かざるを得ない。勿論夫れには教師の督促不十分なのもあらうし、叉病気の者もあらうが、或季節児童を欠席させ、家庭の手助けに使用し、叉夫れ等の学童を雇傭する者も少くないことは、是亦已むを得ざる所である。甚しきは一学級に永欠児童が四五人もある。
 だが一方皆精勤児童数のいくらかづつでも、増加し行く傾向も決して見逃し得ない。
皆精勤児童数
皆精勤児童数
皆勤者 精勤者
大正11年度 106 214
大正12年度 122 267
大正13年度(予定) 112 377
全児童数に対して若干の増加である。
尚卒業児童の直後の方向を見るに
卒業生 中等校 高小学 其他
大正9年度 127 5 38 84
大正10年度 133 6 50 77
大正11年度 123 16 49 58
大正12年度 142 15 57 70
 斯うして牛の歩みは如何に遅くとも、子供の学に就く傾向は晩蒔乍らも、徐々に覚醒め行くのが認あられる。
社会的教化事業
 学校と社会との教育的連鎖としての青年団、処女会、父兄会、教育後援会・・・之等については他の項に於て詳細説明する所あるを以て、ここでは省く事にする。只一言すべきは是等の事もまだヽ大活動の域に達して居ないことである。勿論是等の事は、其の衝に當る者の指導勧誘の當否等に因る事も大であるから、一概に向学傾向を云々して、彼等をのみ責むるのみでは足りないのは言ふ迄もないことである。
 然し真実彼等が教育の事を慮かり学校教育が教育の全部でないと云ふ事に覚醒めたならば、あらゆる事業は円滑なる発達を得、活動の範囲も從て拡張するであらう。
 要するに今に校下住民の向学傾向は目下の所、原始時代だと言つて良からう。さうして最近僅かに曙光を認め得たと云ふ丈けであるのを遺憾とする。
 前にも言つた如く経済関係と向学状況とは余程重大なる関係に在る。一般経済界不況であつて、為めに深刻なる生活苦に追はれて居る場合の如きは、其の局に当るもの一層深甚の注意を払うと共に誠意ある彼等の指導啓蒙に努むべきや言ふまでもない。

今宮第三小学校

 本校は大正6年6月15日を以て大阪府西成郡今宮町大字甲岸七〇五番を卜し新築創立せられた。翌7年12月4日より高等科を併置して、大阪府西成郡今宮第三尋常高等小学校と改称したが越えて大正10年3月31日に至り高等科を廃止したので大阪府西成郡今宮第三尋常小学校といふ旧名に復し以て今日に及んでゐる。
学校の設備
 大正6年6月元煙草専売局敷地建物を有形の儘に払ひ下げて開校したことは先に沿革誌に示した。大正7年に至り現在の場所に新築移転し今日に及ぶ。然るに大正14年其の一部再改築せられ其の面目大いに一新せられた。
 今其の校地校舎、普通教室、特別教室、及び運動場に関する変遷に関する年度別の調査票を左に掲げる。
設備年度 校地
(坪)
校舎 普通教室 特別教室 運動場
面積(坪) 児童一人当面積
大正6年度 2327.25 380.75 230 126 112 0.10
大正7年度 1108.15 528.25 463.5 21 屋内 90
屋外 449
0.43
大正8年度
大正9年度
大正10年度 0.46
大正11年度 0.46
大正12年度 0.39
大正13年度 1108.00 528.00 420.0 64 0.43
通学区域の変遷
本校は創立以来左の如く数次通学区域の変遷を見た。
大正6年6月15日今宮第二尋常小学校の内字四條ケ辻以東宇曳船以北を分離し本校の学区とし、
大正10年3月31日今宮第四尋常小学校開校により、今池、萩之茶屋駅間を通ずる道路を画して以北を本校の学区となし、
大正12年4月23日今宮第五校開校に依の学区に変動を生じ字海道を第四校に分割し、同24日第一校の学区たる西四條二丁目、同三丁目。長橋通一丁目、二丁目。出城通一丁目、二丁目。及南開一丁目を本校学区に併合された。
教育の施設
 其主たるものは簡易就学部を設けたことである。国民教育の普及を計る目的で昼間尋常小学校に就学させ得ない学齢児童の為に夜間尋常小学校の教科を教授し義務敢育を修了させることとし大正8年5月に開始し、当初より毎年学期の始めには必ず就学を督励し、現今に至るも継続してゐる。其成績は次表の如くである。
大正8年度在学児童数   98人
   同  卒業生    12人
大正9年度在学児童数   63人
     同  卒業生    13人
大正10年度在学児童数  101人
     同  卒業生    17人
大正11年度在学児童数  135人
    同  卒業生    13人
大正12年度在学児童数  106人
   同  卒業生     36人
大正13年度在学児童数   99人
    同  卒業生     27人(見込)
 次には朝鮮人の教育を挙げたい。大正10年4月より鮮人の入学者があつて、以て現今に持続す、其の成績は逐日入員を増加しつつあつた、.然るに大正13年度の当初今宮第二小学校に鮮人学校を公設せらるるに當り、鮮人の多くは其方に転校させたが其後(大正13年9月)本校に再入学を強望するものがあつて、止むなく夜間簡易就学部に通学させることとし現在4名在学して居る。其他本校の昼間本科第一学年に在学中のもの男2名、第二学年に男1名、同第三学年に男1名あつて、何れも病気の外欠席することなく熱心に勉学して居る。
住民と向学の状況
 本区域は下級生活者が多く、無学のものも比較的多いやうである。日夜生計の為に忙しく勉学修養に志すものは少い。
() 上級学校へ進入の比例 本校出身者中大正9年より大正12年に至る卒業生について調査したところによると、中等学校へ入学したものは
年度    卒業人員    入学人員
大正9年   114人       9人
大正10年   111人       10人
大正11年 131人       12人
大正12年  180人      17人
 であつてまた高等小学校へ入学したものは
年度    卒業人員    入学人員
大正9年   114人      57人
大正10年   111人      54人
大正11年  131人      41人
大正12年  180人      32人
 であり更に上級の学校へ進まなかつたものは
年度    卒業人員      人員
大正9年   114人      48人
大正10年   111人      54人
大正11年  131人      78人
大正12年  180人     131人
である。されば百分比を算出すると
 卒業人員536人中、中等学校入学者は48人で比率8.9パーセント 高等小学校入学者は184人で比率34.5パーセント。上級学校へ進まなかつたものは304人で比率56.7パーセントとなる。即ち中等学校に入学したるものは一割弱。小学校のみにをはつたものは九割強といふ数である。斯の如きは此の地方生活者に最下級者の多い為めである。
()就学歩合 之れを表示すると左の如くである。
学齢児童百中就学歩合
大正6年度   97.29
 同7年度   96.52
  同8年度   99.17
  同9年度   99.29
 大正10年度  97.72
 同11年度   95.97
 同12年度   85.95
  同13年度   96.94
 即ち大正12年度の85.95を最少とし、大正9年度の99.29を最多とするのである。恐らく経済関係に因るものであらう。
 右によつて一般向学状況を察するに生活程度の低いものが多いためか、生計に追はわて修養の時間を有せないものが過半らしい。しかし近来青年団、強育後援会等が組織せられ、青年の修養父兄に対する向学心を振起しつつある。

今宮第四小学校

 大正8年11月27日、今宮町三日路六百五十三番六百五十八番地に1507坪を敷地として2萬6827円にて買収の議を決し翌9年11月27日木造瓦葺二階建一棟425坪、梁間五間、桁行八十五間と木造瓦葺平家建雨天体操場98坪、梁間七間、桁行十四間と木造瓦葺平家建便所26坪を建築することを決め工事に取掛り翌10年3月20日落成式を挙行した 此総経費12萬7800円を要した。依て同年4月1日から開校し同時に尋常科第一学年の入学式を挙行した。
 同月5日今宮第一尋常小学校の通学区域南海本線以東及び今宮第三尋常小学校の通学区域萩の茶屋駅前より東西に通ずる道路を境として以南の児童並びに今宮第三尋常高等小学校の高等科全部を収容し、尋常科18学級高等科8学級に編制してここに初めて創始を見た。
 大正10年10月14日教育勅語謄本下賜せらる。
 大正11年度尋常科23学級、高等科8学級に編制。教室不足のため、尋常科第12学年を二部教授とし。
 大正11年11月9日 今宮第五尋常高等小学校設置ため高等科を廃し今宮第四尋常小学校と改称し、
 大正12年11月26日御真影を奉戴し。
 大正13年6月26日今宮第三尋常小学校一部校舎改築のため第三学年の児童を本校に収容し、第一学年を二部教授とした。
学校の設備
 大正10年4月1日開校した時の設備は前掲沿革中に説く如くである、さうして13年11月に経費170円を以て間口二間奥行一間半の運動と用具入納屋を増築した。
設備年度 校地
(坪)
校舎 普通教室 特別教室 運動場 学校園 摘要
面積(坪) 児童一人当面積
大正9年度 1507 555 546 26 屋外 540
屋内  98
0.53 7
大正13年度 3 間口二間奥行一間半運動具入納屋増築
現在 1507 558 546 26 屋外 540
屋内  98
0.53 7
通学区域
 大正10年4月1日南海本線以東萩之茶屋駅前東西に通ずる道路を境として其以南を以て区域と改められ(今宮町北吉田、北吉田、北神合、南神合、苔山、三日路、曳舟、西今船、東今船、東萩の一部、今池の一部)
 大正12年4月23日今宮第三尋常小学校の区域なりし東萩の一部、海道、今池を合併した。
重なる教育上の施設
 学校園である。折つて来た植物や剥製した動物などは、真の生物でないために真の生物を教材とすべき生物教授では、之等の方便のみによつては独断注入、抑圧無趣味の教授となるから其の欠陥を多少にても補うため、本校内の室地を利用し、小ながら学校趣味園を設け、潤ある自然界から受くる恩恵に自ら浴せしめ感謝の情を起さしめんとの目的で大正十二年七月に創設された。児童自身家にある植物を持ち来つて植付けさせたのである。
 之が教育上に及ぼしたる効果は()労働は神聖なる真の理()経済思想の養成()植物愛護の念()自然科学に対する知識の修徳()教材の資料となる。
 こと等で、將来に対して猶進んで動物をも飼育しようといふ希望を持つて居るのである。
住民と向学の状況
之を観察するには先づ児童保護者の職業別調を要する。
人造真珠製造業 1  パン製造業 3  釦製造業 1  製薬業 1
割箸製造業 1  かんざし製造業 2  眼鏡製造業 1  提灯製造業 1
飲料水製造業 1  指環及櫛製造業 1  玩具製造業 4  茶器製造業 3
天秤分鋼製造業 1  傘製造業 8  インク製造業 1  石鹸製造業 1
装身器製造業 1  蝿取器製造業 1  製材業 2  鋳物業 2
菓子製造業 4  畳縁製造業 1  ゴム製造業 1  柳行李製造業 4
麺類製造業 5  ヤスリ製造業 1  家具食卓製造業 2  萬年筆製造業 1
著雞業(養鶏?) 1  鍍金業 4  勤続細工業 2  鼻緒製造業 1
牛乳搾取業 2  湯屋業 1  土木建築請負業 10  印刷業 4
著述業 2  農業 2  漁業 1  洗濯洗張悉皆 13
木挽業 5  看板屋 1  運送業 7  理髪業 7
金貸 2  街燈業 1  建具指物屋 13  かぢや 6
桶樽屋 2  ぶりき屋 4  植木屋 4  かみゆひ 6
宿屋、下宿、席がし 14  貸座敷業 1  竹細工 1  飲食、カフェー等 45
菓子小売商 18  薪炭商 21  金物屋 11  紙函木箱商 6
質商 1  空瓶商 2  電機器具商 2  靴屋 2
綿糸綿屋 6  ポンプ屋 1  漬物屋 4  陶器商 2
袋物商 2  酒醤油商 14  洋服、ラシヤ屋 6  呉服商 10
衣裳着屋 1  小間物屋 3  雑貨 7  古物 27
米屋 14 食料品店 1  牛肉屋 1  豆腐屋 2
魚商 10  果物商 4  乾物屋 5  青物屋 24
煮豆屋 1  煙草小売 2  屑物屋 5  貴金属屋 1
柳行李商 1  玩具商 1  土砂商 3  貸車屋 3
荒物屋 5  金庫屋 1  石鹸屋 2  時計屋 1
竹屋 2  眼鏡屋 1  灰屋 2 硝子屋 2
竹皮商 2  材木屋 3  下駄屋 10  仏壇屋 3
洋家具屋 7  売藥業 9  人形屋 1  味噌屋 1
むしろ、わら屋 8  叺商 1  俵商 1  芋屋 2
ぬか商 1  書家 1 彫刻師 1
石工 4  僧侶 4  紳官 3  大工 45
左官 4  職工 98  車夫 4  配達夫 2
行商人 11  紹介業 5  表具師 1  あんま 4
肥料商 2  紙屑買 5  貴金属師 3 仲買周旋人 10
店員 23  力士 1  画工、図案師等 10  吏員 6
牛乳屋 4  官吏 20  俳優 3  常務員 8
遊芸稼人 1  船員 1  馬力 3  塗師 5
製図師 1  教師 3  畳職 3  消防夫 3
人夫 11  露天商人 1  踏切番 1  料理人 3
仲仕 7  会社員 130 歯科医 1  芸者 2 女給 2  無職業 93
 といふ有様である。下級生活者が大多数を占めて居るのだから、向学心は十分持つているにしたところで、之れを実行することは困難な状況にあるものが多数と見ねばならぬ。これを以て向学心を卜するに足るであらう。
 次に就学状況に就て見ると不就学児童はほとんどない。病弱のため大正12年度に就学猶予を願ひ出たものがあるのみである。
又出席状況は如何といふに、接続町村としては、左表に見る如く割合に良好である。
男       女    計
大正10年度    94.88     92.13   93.51
大正11年度    96.54     95.34   95.97
大正12年度    95.83     94.07   95.01
大正13年2月迄  95.72     94.66   95.31
尚ほ尋常料卒業生の前途を観察すると左表の如くである。
大正10年度 大正11年度 大正12年度 大正13年度
予定
卒業生 65 78 93 103
65 72 73 87
130 150 166 190
中学校高等小学校に入れるもの 51 48 72 55
35 40 51 62
86 88 123 117
 以上の統計によつて大様其推察が出来ると思ふ。本校区域には教育に熱心なる者があつて後援会が出来ている。

今宮第五小学校

 本校は今宮町の大正10年度事業として設立の計画を立て、之が建築費等を予算に計上したが同年度内には全部の完成を見ず、事実に於て大正10、11の両年度に亙つて完成したのである。
 資金30萬7020円を以て着手し 先づ大阪府西成郡今宮町大字木津字橘八〇八番地の七、八、九、十一、及び同上字櫻八四八番地の一、二、三の地を大正10年9月十六日に7萬9200円で買収し残余22萬7820円を以て建築工事に着手したのが翌大正11年3月31日であつた。さうして日を経ること七ケ月大正11年10月19日に至つて竣工し、11月16日を以て開校し11月21日に落成式を挙行したのである。斯くして大正11年11月20日教育に関する勅語謄本を大正12年10月26日両陛下御真影を下賜せらるるに至つた。
 是より前き大正11年3月11日に本校創設の認可があつて大阪府西成郡今営第五尋常小学校と称し、同年11月9日、本町今宮第四尋常高等小学校が高等科を廃して本校に併置したので、大阪府西成郡今宮第五尋常高等小学校と改称した。
学校設備
 本校の敷地は1800坪で、建坪総数730坪2合、其創立当初の建物は9棟で本館(木造瓦葺二階建)1棟548坪。雨天体操場(木造瓦葺平家建)1棟128坪5合。便所(同上)4棟29坪3合。渡廊下(同上)3棟24坪4合であつたが、大正11年11月中に附属舎を増築した即物庫及使丁室(木造瓦葺平家建)壱棟9坪がそれで、更に大正13年10月に校舎一部を改造し体操器具置揚一ケ所を作つた。
 教室としては大正12年4月に普通教室一教室を改造して理科教室の設備をした。
 創立以来の設備は左の如し。
設備年度 校地
(坪)
校舎 普通教室 特別教室 運動場
面積(坪) 児童一人当面積
大正11年度
(学校創立年度)
1800 739.2 642.4 76 859 0.48
大正12年度 1800 739.2 642.4 76 859 0.49
大正13年度 1800 739.2 662.4 56 859 0.39
通学区域の変遷
 尋常小学科は大正11年11月、本校開校当時の通学区域は(從前今宮第一、第二小学校の区域)旭北通旭南通の各三丁目より八丁目まで。梅通の三丁目より九丁目まで。梅南通りの内二丁目の第一二二番地より第一三二番地までを除きたる以外全部と松通、橘通、櫻通、柳通、東西皿池の全部とであつた。
 大正12年4月1日に從前の区域中一部分を今宮第一第二小学校に編入し旭北通四丁目より八丁目までの各南牛分(第一〇八七番地より第一一一九番地まで)旭南通四丁目より八丁目まで。梅通、梅南通の各四丁目より九丁目まで。松通、橘通、櫻通、柳通、東西皿池全部を区域と変改し、
 更に12年4月25日、從前の区域中一部分を今宮第一小学校に編入し、旭北通五丁目より八丁目までの各南半分(第一〇九四番地より第一一一九番地まで)。旭南通五丁目より八丁目まで。梅南五丁目より九丁目まで。梅南通四丁目より九丁目まで、松通、橘通、櫻通、柳通、東西皿池の全部を本校区域と改めた。
 高等小学科大正11年11月、本校開校当時の通学区域は今宮町全部で以て今日に至つている。
住民と向学の状況
 本校区住民は貧富の差極めて大、一部分有産階級には巨萬の富を藏して、何不自由なき生活をなし、又は一部有識階級に属して公共事業に対しても、進んで精神的並に物質的尽力に奔走し、充實せる生活をなせる人士のあると共に、一部分極めて貧困にして、日々の生計に尚且つ苦みを感じて、修養の如き殊ど顧るに暇無く、先づ食はんが為めに全生活を捧げつつある人々の多きも見逃すべからざることである、さうして住民の多数が最近の移住者たる関係より、過半数は生活の安定を得ず、所謂恒心なき生活を送れる者で、概して言へば放縦且つ浮薄、低級なる歓楽を追ひて一時の愉安を求むることに走り、真に人生の意義を解して真剣なる活動と修養を積まんと努力する人士は少数である。而し乍ら斯る濁流滔々たる中にも敢然として世の汚穢に染まず清貧に甘んじて崇高なる徳行の自から人をして感激せしあずんば止まざる者、堅實なる志操を有して萬人の範たるに足る隠れたる人物を往々見出すことは衷心歓喜に堪へない所である。
 今住民の家庭生活に於ける読物の一般を示すと、
調査過程数 新聞購読せる家庭 大人を主としたる雑誌購読せる家庭 小供を主としたる同上数 備考
1,631 1,249 245 330 雑誌は提起毎月購読のものにて此の外臨時購入の分は別
 之に依つても読物を通しての、家庭生活が満たされざるの多きを知るべきである。
 今本校区内に於ける保護者の職業別を示すと左の如くである。此調査人員は一、六七四人であつた。
職業     人員    率   職業     人員   率
小売商人   492  29%  会社商店員 230  14%
無職     203  12%  製造工業  195  11%
日稼     151   9%  職工    125   7%
紳官僧侶官公吏 77   5%  農業     59   4%
飲食店     46   3%  運搬業    27   2%
建築業     26   2%  其他     43   3%
 又区内に於ける就学児童の状況は左表で明白にせらるる(就学児童数は学年初の数)
年度 就学児童 出席歩合 中途入退学児童数
尋常科 高等科 入学 退学
大正11年度 1,358 404 1,762 92.64 117 50 165
同 12年度 1,174 573 1,747 94.80 519 563 1,081
同 13年度 1,527 687 2,214 92.71 570 537 1,107
*中途入退学児童数合計が11・12年度で合っていないが原文のままとした
 以上の表に於いては区内不就学児童の数は不明であるが、其の数は相當多数である事は窺ひ得られる、又就学児童中に、中途入退学児童の多数あつて、全校児童の半数に上ることは特に本町の特徴で住民の状態の如何を雄弁に、物語るものである、之れに新入学児童を加ふる時は、全校児童の過半は毎年新しくなる理で学校に於ける教育の徹底を阻害する事多大である。從つて出席歩合また極めて悪しく、大都市接続町村に於ける教育の至難を表すと共に、又以て住民の数育に対する態度を知るべきであらう。
卒業者及教育程度の状況
年度 卒業児童 中高へ入学数 同上率
尋常科 高等科
大正11年度 156 145 301 41 22 63 20%
同 12年度 161 182 343 55 45 100 29%
同 13年度 190 227 417
年度 中等学校入学数(高一を含む) 家庭に留まる卒業者数 同上率
大正11年度 28 32 59 127 80 207 68%
同 12年度 38 28 66 123 85 208 60%
同 13年度
備考 此の外他市町村の高等小学校及補習学校に入学せる者が少数ある
 尚本校児童に就き調査せし教育程度の状況は次の如くである、之は正確を期しがたいが其の一斑を知るに足るのである。
 調査家庭数  1,631
 義務教育終了の子女ある家庭 720
同上中中等程度の学校に入学、又は卒業せる家庭 137  同上率 19
 即ち中等教育を受けしむる家庭は二割に満たない憐むべき状態である。
 以上に依つて、本校区住民子弟の概括的統計は小学学教育以上の上級学校に進む者の極めて少数なる事を表すもので、特に高等小学校に入学する児童の半数に満たないのは、義務教育八ケ年制の高唱さるる今日、甚だ遺憾とする所である。
 尚本校を中心として縷々催される各種団体主催の講演、講習、研究会、乃至父兄会等に進んで出席し、自己の人格を向上せしめ知識を廣め、又は家庭生活の改善進歩を図らんとせらるる人は甚だ少数で、唯各種余興等の加はる揚合にのみ多数入場者を見ることは、生活状態の余裕少きに原困すべきも、尚研究的向学心の低きを示すものである。
 之を要するに本校区住民は其の一少部分を除きては、近年の移住者で未だ土地に落着かず、且つ生活の安定を得ずして一家の生計を樹つるに是れ急であつて、未だ力を教育に注ぐの余裕を有する人少く、自ら修養に努めて人格知見の向上発展を画する者の多からざるは遺憾である。
 且又子弟の教養に就ても概ね放任の状態にあり、学校に托して家庭教育の重大なる事を痛感せざるが如く見ゆる向の多々有ることは、大いに覚醒を用する所である。殊に生活の資に多忙なりとは言へ、二六時中、更に一年三百六十五日中には、多少の余裕は必ず有るのだが、其の余暇を以て自己啓培のために費すが如き篤志家の多くを見受けざるも亦遺憾とせねばならぬ。

今宮商業補習学校

 本校は大正10年4月20日、今宮第一尋常小学校の教室を借用して創立開校したのである。
 開校當時は前期一学年一学級であつたが翌11年4月には前期一学年一学級、前期二学年一学級に増加し、12年4月には之に後期一学年一学級を加へ、13年4月には後期を廃し前期一学年一学級、前期二学年一学級、として教授した。
設備
 教室は今宮第一尋常小学校の教室を借用し初年度は一教室、次年には二教室、三年月には三教室としたが四年目たる大正13年4月には後期を廃した為めに再び二教室に減じた。教室の外に図書室の設けあり書籍、蓄音機、タイプライター、軽便ポンプ(消火用)、謄写版等が設備せられたのである。
施設
 学級教授の外に左の如き事を行ひ、生徒以外の聴講をもなさしめ一般知識の普及に努めたのである。
()補習学校々友会 ()講演会 ()講習科
 経常費として初年度は1696円、大正11年度1686円、大正12年度2153円、大正13年度1710円を使用した。
今宮商業補習学校 概況調査書
年度 教室(坪) 学級数 教員 生徒 経費 卒業者 備考
専任 兼任 前期一年 同二年 後期一年 同二年 経常費 臨時費 当該年度 累計
大正10年 17.5 1 1 3 61 1696 1696
大正11年 35.0 2 1 3 50 35 1686 1686
大正12年 52.5 3 1 5 52 38 9 2153 2153
大正13年 35.0 2 1 3 45 43 1710 1710 後期廃止による

私立学校洛革

 本町に於ける私立学校は明治維新後幾何かの開設はあつたが殆んどいふべき程のものはなかつた。後20年の頃より25~6年の交までは頓に其盛況を呈したのであつた。其の原因を尋ぬれば当時は明治文運次第に進捗し、19年4月には新に小学校令の発布あるに至り一般向学の風は日を逐ふて益々盛に赴いたが、大阪府下には明治18年に稀有の大洪水があつて、淀川が大氾濫をなし、被害甚だ少なくなかつたのに、次いで傳染病も大いに流行し、頗る猖獗を極め彼是れ惨状を呈したので此の前後両度の大災害により、図らずも経済界の恐慌が起こり、世間一般に不景気を愬ふるの余響は、延いて地方公学の上にも及ぼし、其の進歩発達に少なからざる打撃を與へ、予期の計画に一大蹉跌を生じたことは蓋し掩ふべからざる事實である。其の反響として各種の私立学按が俄然として興り、以て時勢の要求を充たしたので、之れが其の一時の盛況を見るに至つた所以である。さうして当時の教科目は多くは読書、算術、習宇、裁縫等の初等程度を施したものが多く、其学校数は次第に増加したけれども、其後に至り廃校又は移転等により漸次其数を減じ、29年には僅かに上福島村の三省学校と今宮村の温知学校とを残存するのみとなつたが、此二校すら30年4月接近町村の大阪市編入により、全く市属に移つたので、本町には遂に私立学校の跡を絶つてしまつたのである。
明治初年以降 二十五年迄に存在しだ本村の私立学校中目星しいものは
成立学校    三十年十月  読書教授
梅溪裁縫学校  二十一年八月 裁縫教授
温知学校    二十四年   習字算術教授
 右の内温知学校は50名乃至150名の生徒を牧容し盛大であつた。
 現在には学校らしきものは無くなつて、みのり子供園、四恩学園、廣畔小学校今宮分校等の二三幼稚舎的のものがあるのみである。