耕地整理後の区画変更並びに名称改称

大阪府告示第322

耕地整理施行の結果 西成郡今宮町の 大字及字の区域を 左の通変更、改称 し大正811日より施行す

大正71226日   大阪府知事  林 市蔵


大字及字の区域変更並名称改称の件
    大字木津字出城の内  〇〇~〇〇
  を大字今宮字四條に編入す
    大字今宮字萩之茶屋  〇〇~〇〇
  を大字今宮字萩とす 
    大字今宮字水渡  〇〇~〇〇
    大字今宮字萩之茶屋  〇〇~〇〇
  を大字今宮字四條とす
    大字木津字大開  〇〇~〇〇
    大字木津字高畑  〇〇~〇〇
    大字木津字出城  〇〇~〇〇
  を大字木津字開とす
    大字木津字長橋  〇〇~〇〇
    大字木津字四條  〇〇~〇〇
    大字木津字花園  〇〇~〇〇
  を大字木津字長橋とす
    大字木津字大流  〇〇~〇〇
    大字木津字長草  〇〇~〇〇
    大字木津字花園  〇〇~〇〇
  を大字木津字大流とす
    大字木津字丸岸  〇〇~〇〇
    大字木津字梅  〇〇~〇〇
  を大字木津字梅とす
耕地整理施行の結果」区域と名称の変更が行われたということであるが、今宮村では、2期に分けて耕地整理が行われている。
西成郡今宮村第一耕地整理組合
工事期間  1910(明治43)年27日~1911(明治44)年421
西成郡今宮村第二耕地整理組合
工事期間  1911(明治44)年428日~1915年大正4819

 

大阪府告示第322号は、耕地整理の工事は終わっている時期の告示であるから、区域変更や名称変更は、一期二期両方を含むもののように思えるが、そうではないようだ。

 

今宮町誌によれば、第一耕地整理後の「地区は即ち今日の梅、松、橘、櫻、柳の各通りである」とし、以下の字名がなくなったとしている。
大字今宮
  苔山、濱田
大字木津
  東濱田、六代岸、西濱田、丸岸、這上り、島流

 

第二耕地整理後の新町名と旧字名
新町名
旭南通1丁目~8丁目、中開1丁目~6丁目、旭北通1丁目~8丁目、北開1丁目~4丁目、鶴見橋通1丁目~8丁目、西四条町1丁目~3丁目、鶴見橋北通1丁目~8丁目、東四条町1丁目~3丁目、長橋通1丁目~9丁目、花園町、出城通1丁目~9丁目、西萩町、南開1丁目~8丁目
旧字名
甲岸、西川代田、大流、三日路、苔山、西上ケ畑、這上リ、濱田、水渡、六代岸、高畑、土瓶河、西野、丸岸、東開、西濱田、花園、小橋、中開、長草、七反島、西開、四條ヶ辻、虚空藏濱、出城、東川代田、長橋、島流
町誌の記述と、1918年の告示の内容があっていないように思われる。たとえば、「萩之茶屋」の一部が「萩」となっているのだが、町誌では「西萩」と記載されている
何故こういうことになっているのかを考えるに、今宮村が今宮町になったのが1917年、その5年後の1922年に今宮町全域の区域変更と名称の改称が行われている。町誌の発行は、町全体の区域名称変更から4年後の1926年。1918年の部分的な区域名称の変更は、繁雑さを避けるために記述を省かれたものと思われる。
しかし、なぜ、一部だけ変更が急がれたのか、何か理由があると思われるが、今のところ不明。
本間啓一郎は、「今宮・字名変遷攷」(199477 )で1920(大正9年)の大阪府訓令第24号(1011日)によって、整合的に理解できるとしている。

http://www.kamamat.org/nisinari-ku/ku-zenbou/azamei-hensen.html

訓令第24号は次のように述べている、
従前 公称する市町村内土地の字名は 明治十四年第八十三号公達の趣旨に依り容易に改称変更すへきものにあらさるも 己むを得さる事實ありて必要とするものに限り 左の規定に依り取扱ふへし
 当時の大阪府知事池松時和名で出された訓令は、六条からなっているが、今宮に関係するのは次の3ヶ条である。
1.市町村 大字名及市内の町名を改称し 又は 其の区域の変更を要するときは市町村会の議決を経て 知事の許可を受くへし 但し 町村に属するものは  郡長を経由し 郡長は意見を副申すへし
2.市町村の内 小字名を改称し 又は 其の区域の変更を要するときは 関係ある地主の意見を聞き 市長村会の議決を経て知事の許可を受くへし 但し 町村に属するものは 郡長を経由し郡長は意見を副申すへし
4.耕地整理施行の為め 市町村内の大字若は字の名称を改め 其の区域を変更する必要あるときは 耕地整理組合長又は耕地整理施行者より 申請書を提出せしめ 知事の処分を求むへし 但し 町村に属するものは 郡長を経由すへし
耕地整理等で各市町村がそれぞれ町名や字名の改廃を、府とは無関係に行っていたことが直接の契機になったのかもしれないが、ここではじめて大阪府レベルでの町名・字名の変更に関する手続きが明確になったわけで、1913年や1919年にあったと想定される字名やその区域の変更が、府公報レベルで確認できなかったことも納得できるのである。
なお、耕地整理の切っ掛けは、当該地域が軍用地として借り上げられた後、数年して返されたことにあるという。
『当時南海線天下茶屋駅以西一帶の地は、露国の捕虜收容所、第16師団仮設兵營練兵場、陸軍予備病院として借上げられたのであつたが、明治411011月の間に於て全部其使用を廃して各地主へ還附された。
該地域は使用四五年間に亘り、且従来の形状を変更した為め、之を復旧して耕地宅地とするにも、若し各所有者がそれぞれに其の工事をすれば、工費を多く要し、且其境界等も識別するに困難なるが為めに、此際耕地整理法により参加土地所有者共同して之を行いひ、土地の交換分合区画形狀の変更、道路溝渠溜池等の改廃更置及此等に伴ふ諸般の設備をなすことになり、其工事を進める議を決した』(今宮町誌)
天下茶屋捕虜収容所については、大阪市立図書館ホームページに情報がある。
http://web.oml.city.osaka.lg.jp/net/osaka/osaka_faq/73faq.html#73-200903-001
日露戦争当時の天下茶屋に捕虜収容所があったと聞いたが、どこにあった、どんな施設だったのか?
 天下茶屋の捕虜収容所(当時は「俘虜収容所」)については、約2ヶ月間の存在だったことや、その後の耕地整理等で跡地の姿がまったく変わったこともあり、具体的な資料がほとんど残っていませんが、わずかに残されている資料を基に、大まかな位置を推測することは可能です。
 まず新聞記事*1の記述から得られる施設の変遷を次に示します。
19051
 前年10月に設置されたばかりの陸軍予備病院天下茶屋分院を日露戦争により捕虜となったロシア軍兵士の収容所としてあてることとし、「大阪天下茶屋俘虜収容所」との看板を掲げ(「朝日新聞」1905111日付)順次収容を開始。
同年2
 高石村(現・高石市)にあった2万人規模の収容所が「大阪俘虜収容所」と称したのを受けて「大阪俘虜収容所天下茶屋分所」と改称(「朝日新聞」1905210日付)するが、その直後に「大阪俘虜収容所」が再び「浜寺収容所」と改称したのを受けて「浜寺収容所天下茶屋分所」と改称(「朝日新聞」1905223日付)。
同年3月初めまでに合計6,047人を収容していたが、その全員を浜寺収容所へ移送することとなり(「朝日新聞」190535日付)、318日午後に移送を終了。施設は、当初の予定通りに陸軍予備病院分院として使用することとなる。(「朝日新聞」1905319日付)
 その後、同年7月に新たな捕虜が来阪していますが、天下茶屋のこの施設に収容されることはなく、「天下茶屋の捕虜収容所」は、わずか2ヶ月ほどの存在でした。
 施設の位置や建物の概要についても、写真や図面などの資料は残っておらず、わずかに新聞記事が次のように伝えているだけです。
 「今回設けられたる天下茶屋俘虜収容所(元予備分病院)は天下茶屋停車場の稍北斜向即ち軌道の西側畑中にして敷地約6万坪あり其周囲は杉板塀を繞らし庁舎は柿又はラバライト葺平屋建60棟にて此外事務室、繃帯交換室、調剤室、手術室、庖厨、衛兵、憲兵詰所等の附属庁舎あり、井戸も備はれど飲料には浄水を用ふることとし水道事務所は昨日より鉄管敷設に着手し電話、電灯を装置せり」(「朝日新聞」1905112日付)
 大体の位置として「天下茶屋停車場(現在の南海本線天下茶屋駅)のやや北西方向で現在の南海本線の線路の西側一帯」という情報が得られますが、敷地の形はわかりませんのでどの辺りまでが収容所の敷地だったのかはわかりません。
 ただ、敷地の西側と北側の限界については、次のように推測することは可能でしょう。
<西側の限界>
 現在の南海本線の線路の西側がほとんどが畑地だった当時の状況の中で勝間街道(現在の橘小学校の東側の南北の道路)は江戸時代以来の重要道路として現在まで伝わっていますから、これを破壊して勝間街道の西側まで収容所の敷地が伸びていたわけではないでしょう。
<北側の限界>
 現在の花園交差点東北角にある弘治小学校の大正(1912年~1926年)の頃を描いた絵地図*2の中に「天井の高いバラック建」が描かれ、その説明として「元ロシア人俘虜収容所の建物を天下茶屋より移築したもの」とあることから、現在の花園交差点の辺りは収容所の敷地には含まれていなかったことになります。
 試みに、東西を南海本線と勝間街道、南北を天下茶屋駅を通る東西の線と花園交差点を通る東西の線に区切られた地域の面積を地図から求めると概ね8万坪となります。新聞記事では収容所の面積は約6万坪とあり、面積の上でも矛盾しませんから収容所がこの範囲内にあったと想定でき、この範囲の約4分の3を占める、極端に長細くはない敷地だったと推測されます。
 なおこの敷地は、陸軍予備病院分院としての活用の後、19091月に払下許可がおりて陸軍省から元の地主に返還され、今宮第一耕地整理組合事業(19102月~19114月)によって、道路・水路を整然と整理した区画として生まれ変わり、次の時代の宅地化へと備えることとなります*3
【参考文献】
*1 新聞記事による記述は、次の資料掲載のものを参考にまとめています。
『西成区史』 川端直正編集 西成区市域編入四〇周年記念事業委員会 1968 書誌ID 0070080431 p4244
西成区史-3 (kamamat.org)
『新修大阪市史第6巻 新修大阪市史編纂委員会編集 大阪市 1994 書誌ID 0000427809 803805
『高石市史』第1巻 高石市史編纂会編集 高石市 1989 書誌ID0000768995 p912914
*2 『弘治:大阪市立弘治小学校創立80周年記念誌』 大阪市立弘治小学校80周年記念誌委員会編 大阪市立弘治小学校 1979書誌ID0090004760 p12
*3 『今宮町志』今宮町編纂大阪府西成郡今宮町残務所 1926 書誌 ID0000244964 p264266