太子の お地蔵さん


太子 1丁目14番 お地蔵さん

 




太子 1丁目15番 お地蔵さん

  

  

  


太子 2丁目3番 松乃木大明神 薬師如来 猫塚 近松門左衛門碑

   

  

  


太子 1丁目10番 元電光社のお稲荷さん

   


太子 1丁目5番 太子地蔵の記憶

   

 
 

太子1丁目5番 太子地蔵の記憶 (写真は下記から借用)

http://atta2.weblogs.jp/osakaphotog

大阪市の名所旧跡史跡 122

**122 太子地蔵尊・飛田墓地跡

太子地蔵尊・飛田墓地跡1

今宮町志抜粋

http://www.kamamat.org/nisinari-ku/meisyo-kyuseki/tobita-hakaato.html

 

飛田の墓址は今宮町の東北部、阪堺線の東方に在り、墓所は即ち大阪七墓の一で最古のものと称されて居る。旧記に依れば天王寺の墓所で、聖徳太子の封せられたものであると伝へられて居るから、起源は頗る古い。飛田は又鳶田、鴟田、鵄田など旧記に録されて居る。(注:鳶田、鴟田、鵄田=読みは何れもとびた)

安永天明頃の旧記によれば、仕置場を鳶田、千日、東成野田野江口、又沖掛りは安治川口、木津川口と定め、

処刑せられた死体は刑場附近の墓地に埋められ、其れが無縁の墓として後代に残された、飛田の墓地は相當に広いものであつたが明治六七年頃整理されて全く他に移され、昔年凄惨であつた土地も、桑田変海のたとへにもれず、今は面目を一変して南大阪の一大熱閙区となり、僅かに一体の石地藏尊と一基の石碑が、在りし普を物語るのみである。尚ほ其昔し葬儀を迎へるとして立たせ給うた一対の地蔵尊は、今は市立天王寺葬儀所の門前に移された、口絵写真に示されたのがそれである。

 

残存せる石碑はその裏面が人家の壁に密接して居るので何が書いてあるか判らぬが表面の刻文を読んで見ると其の由来が大概了解できる、但し何分にも今より二百二十七年前の建設に係るものであるから多年風雨に曝された爲め文字滅失の箇所が所々にあつて全文が完全に保存れていないのを遺憾とする、今其の碑文を左に掲載する。(字側に□を附したるは字形によりて推察したるもの、又全字不明なるは大なる□を記す)

西成郡鵄田地者荒陵寺之所葬也慶長義戦盡爲荒墳矣鳴呼先世丘壟今焉在哉億夫往昔封塚之人豈不期于萬世歟故是歳之各衆議而新復舊墳爰設齋會以継先人之忠意也是蓋太平之澤以衆死之表幟而已兼銘焉云

曾此之邑 葬先世人 起墳復舊 刻石維新

奏假供果 爰享来蘋 鳴呼継志 煖無彊春

元禄第十一歳次戊寅凍中浣

天台沙門融順誌□

尚碑文の下方には「開宗廟」と大宇で横書してある、碑は高さ一丈余幅約四尺の御影石である、慶長の役とは慶長十九年の大阪冬蹄の事であるが此の時軍兵のために此の墓所が甚だしく荒されたものを八十四年後の元禄十一年に修復して其の紀念のために建碑したものである。(今宮町志)

1911(明治44)年413日 鳶田墓の移転 大阪朝日新聞
西成郡今宮村字鳶田に 鳶田の墓地と云ふあり 維新前の処刑場(しおきば)にて ここにて斬られたる罪人の数知れず 昔は随分物凄かりし地(ところ)なりしが 何時の間にか附近に人家建ち連なり−四天王寺にては この墓地が 同寺の開基聖徳太子御手印縁記及び四天王寺寺史等に 太子が同寺の墓所と定めたまひたる処なるに関らず 何時の間にやら今宮村のものとなり 軈(やが)て北区樋上町上田熊次郎 難波新地四番町上田徳治郎等の所有に帰し −石碑を天王寺に移し−鳶田には罪人の罪業消滅の為に祀りし 踞像の地蔵尊を遺して その跡をとどむる事とした