釜ヶ崎総合年表−1900年代


1900(明治33)年

監獄局が内務省から司法省に移管され、内務省から典獄以下がなくなる。
6月29日 大阪府訓令第40号行旅病人死亡人の救護並びにその取り扱いに関する費目と基準額を定める
9月 内務省官僚等の「貧民研究会」設立
9月 大阪府、慈善団体認可制度を設ける
内務省県治局府県課長兼内務大臣秘書官井上友一 万国慈善経済事業会議(パリ開催)に出席翌年3月まで欧米各国視察。帰国後「貧民研究会」に参加
精神病者監護法
=精神病者の監護をなす順位は、第一後見人、第二配偶者、第三親権を行う父又は母。第四戸主、第五其の他の四親等内の親族中より選任したる者とす。監護の費用を被監護者の負担とし、被監護者より弁償を得ざるときは、扶養義務者の負担とす。扶養義務者なきか、又は扶養義務者に於いて弁償し能わざるときは、地方公共団体則ち所在地なる道府県の負担とす。/監護者は行政庁の許可を得たるときは病者を監置することを得、精神病者を監置する必要あるも、監護者なきか、又は監護者其の義務を履行し能わざるときは、市町村長之を監置す。(「慈善」明治45年7月号−公の救済に関する現行制度)



1901(明治34)年

6月 「慈善団体懇話会」創設
後の「大阪慈善同盟会」当初は、篤志家の寄付の受け皿として発足




1902(明治35)年

10月 特殊小学校「萬年小学校(定員3個学級210名)」校長就任(東京・下谷)
12月 特殊小学校「霊岸小学校(定員2個学級140名)」校長就任(東京・深川)
「特殊小学校」というのは公式名称ではない、普通学校と区別するために便宜上そう言い習わされるようになったもの。
(授業は半日間毎日3時間、通学者が増え、明治36年12月からは2部教授制にして学級数を2倍にする。明治38年義務教育を夜間に行う学級の認可を得て、万年・霊岸に特殊夜学部設置。後に特殊夜学校)
大阪養老院、南区天王寺勝山に開所。



1903(明治36)年

第5回内国勧業博覧会開幕/大阪築港供用開始
3月1日から7月末まで第5回内国勧業博覧会
天王寺公園一帯で開かれた第5回内国勧業博覧会は、丁度昭和45年(1970)年に開催された大阪万国博覧会の明治版で、それまでの博覧会に比して規模の大きいものであった。水産関係から多く出品されたが、特筆すべきものに、(1)生魚問屋の阪又・酒井猪太郎が日本最初の「人工冷凍魚」を出品して人々を驚かせたこと。(2)日本最初の「2階建冷凍倉庫」が出品されたこと。(3)林兼(はやかね)商店の中部幾次郎が、大阪市内の堀川を巡る巡航船を手掛かりに、石油発動機付生魚運搬船の考案に着手したこと。この3点が、博覧会によって生魚業界に大きな影響を与えたのである
3月31日 今宮村と木津村分離。それぞれ単独の村政をとることになる
大阪慈善同盟会主唱により「全国慈善事業者の大会」開く。
5月 内務省官僚等の「貧民研究会」、「庚子会」と改称
横山源之助「下層社会の新現象共同長屋」発表
11月堺利彦、幸徳秋水「平民社」設立。週刊「平民新聞」発行



1904(明治37)年

日露戦争開戦/「下士兵卒家族救助令」/幸徳秋水「東京の木賃宿」発表
8月4〜6日 大阪慈善同盟会「慈善事業夏期講習会」開催



1905(明治38)年

日本海海戦/第2次日英同盟調印/ポーツマス条約締結/日比谷騒擾事件/北海道罹災救助基金法公布
「監獄学」小河滋次郎・中村 襄共著、刊行




1906(明治39)年

2月日本社会党結成。/「中央報徳会」設立/廃兵院法(後の傷兵院法)公布
「台湾浮浪者取締規則」
(浮浪者=一定の住所又は生業なくして公安を害し又は紊す虞ありと認むる者。)
救世軍、芝区芝口の救世軍本営内に「労働紹介所」を開く。
同年末神田三河町に移転。(日露大戦後、100万人の壮丁が急に満州から帰った所で、すぐに職に就くことは難しいであろうし、中には戦地でパンや缶詰を食べ慣れたものが、再び田舎に帰って麦飯に漬け物で労働するのがいやになり、無謀に上京するものもあるに違いない。失業問題が大きくなる、との認識から)
救世軍、初めて本所区花町に木賃宿「箱船屋」開く。
最初の客は浮浪罪で小石川警察署に拘留されていた青年。放免された朝、このままでは再び浮浪罪で拘留されるので、警部に聞いた所、救世軍に行って相談せよといわれ、「箱船屋」に来たとのこと。
救世軍、東京で失業者に対する「慰問カゴ
寄付の呼びかけ。下谷万年町、芝新網、四谷鮫ヶ橋の貧困家庭に正月用の餅、手拭いなどを配布



1907(明治40)年

小学校令改正(義務教育6年制)/「癩予防ニ関スル件」
1月 警視庁令「長屋構造制限に関する件」
第1条 本令に於いて長屋と称するは一棟を2戸以上に区画したる木造家屋を謂う
第2条 長屋を建築せんとするときは其の場所及工事の着手期日を所轄警察官署に届出べし改築又は増築せんとするとき亦同し
第4条 警察官署は新築、改築に際し前条に従はさるものあるときは其の工事の変更又は停止を命することを得
第5条 警察官署は既設長屋にして危害を生し又は健康を害するの処ありと認めたるときは修繕、改築又は使用の禁止を命することを得
基督教婦人矯風会大阪支部「大阪婦人ホーム」開設
8月3・4日:小田原にて、報徳会第一回夏季講習会開催
◇岡田良一郎「報徳の要旨」、床次竹二郎「地方人士に望む」、桑田熊蔵「自治の財源」、井上友一「報徳の本義」、一木喜徳郎「先憂後楽の真意義」、留岡幸助「二宮翁の足跡」、中川望「地方の篤志家に望む」



1908(明治41)年

内務省主導による感化救済事業および地方改良事業の台頭/第1回ブラジル移民
警察犯処罰令
(旧刑法の違警罪を独立化したもの)=密売淫、諸方徘徊・面会強制・押売り・乞食・流言浮説等につき拘留・科料の刑を定めた。
台湾浮浪者取締規則」を受けて収容所2箇所設置
(台東岩湾浮浪者収容所、台東庁南卑社・明治43年末で58人収容)=「慈善」5編2号
平野郷警察署住吉分署が独立し、住吉警察署となる
5月21日 地方局長通牒「済貧恤窮は隣保相扶の情誼に依り互に協救せしめ国費救助の濫給矯正方の件
(救貧順序ー隣保相扶−市町村−府県−事情やむを得ぬもの国費支給。)
9月 内務省主催第1回「感化救済事業講習会」開催。
10月 「中央慈善協会」設立
10月13日 戊申詔書(俗に「勤倹の詔書」などとも呼ばれた)
内務次官として詔書の作成作業に関わった一木喜徳朗の大日本報徳社での講演で「今日の経済状態と道徳状態と相適合している所の道徳標準は−戊申詔書であると信ずる」と。
10月14日から3日間、地方官会議が開催され、詔書謄本が配布された。内務省地方局で詔書謄本の受注が行われ、各地各団体主催で詔書奉読式が行われた。
明治41年11月6日内務省地方局長通牒「本年10月13日煥発の詔書は 本省に於ては戊申詔書と称へ 他と区別することに相成候條 右御含相成度 此段及通牒候也」
参考:戊申詔書の発布と奉体 窪田祥宏 教育学雑誌 第23号 1989年 23-r-001.pdf  ボシン−ショウショ
小河滋次カ、清国獄務顧問として清国に招聘される(1910年まで2年間)
中村 襄も京師法律学堂の監獄学教習として招聘されている。帰国にあたり、小河ら教師陣に清国から三等第一宝星が授けられた。



1909(明治42)年

大阪大火(天満焼け11,365戸焼失)
大阪慈善同盟会、会名を「大阪慈善協会」と改称。
(寄付金募集の弊、一般に増長し来り、真面目の救済団体に累を及ぼすこと少なからざるのみならず、その上一般の不景気は寄贈に著しき減少を来したるを以て、更に同盟会の改良を図り、−個々募集の弊を一掃)
2月11日 紀元節、内務省、全国77の私設慈善事業団体に最初の国家的奨励助成金を交付
救済事業における公費
 我が国における救済事業に要する救助費中官費若しくは公費に由るものは之を海外と較べて、極めて少額。明治42年度の調べ=恤救規則に照らして国から救助を受けている者3,756人(費用6万3千円余)。棄児の如きもので国費の救助を受けた者1,833人(費用5万3千4百円余)。日本の人口を5千万人と仮定して、この費用を人口で割ると一人で僅かに2厘4毛の負担となる。外国の負担額と較べて非常に少ない。先ず結構なことと思うのであります。(「慈善」第5編第3号−大正3年1月30日−「都市と救済事業−内務省参事官 潮 惠之輔)
5月 恤救規則国庫支出全廃
恤救規則による受給人員は明治41年初頭13,090人。42年末は3,753人(「日本の救貧制度」・142頁)。明治45年5月には国費補助が全廃となったので、以後は全部市費で賄わざるを得なくなった(大阪市民生事業40年史・4頁)。
「開国50年史」刊行、同書の内=「監獄志」は小河滋次カ・留岡幸助共著
7月〜8月 第一回地方改良事業講習会開催
戊申詔書1周年記念事業後中等学校の修身科で教材として取り上げられるようになり、「暗誦暗写」が要請された(明治42年末調べの全国不良少年感化事業表の中に「自彊館(奈良)」がある)
博打で検挙された安田清兵衛、改心し、免囚保護のためメリヤス工場設立。後に「安徳会」となる。
8月18日 大阪府令「建築取締規則」
第7条 本則に於て長屋と称するは2戸以上連続する建物を謂ふ
(附則)第87条 本則は大阪市堺市及其の接続町村に之を適用す
第87条 明治19年5月甲第75号長屋建築規則は本則施行の日より本則施行地に之を適用せす
10月 天王寺公園 開設