釜ヶ崎総合年表−1890年代


1890(明治23)年

5月 府県制 制定
8月 大阪市、交通遮断窮民救助規則を定める
伝染病発生に対し、当時は収容施設も不足し、また伝染病防止措置にも事欠いたので、止むを得ずかなり長期にわたって発生地区の交通を遮断し、地区内の住民の外出を禁止する応急措置を講じた。区域内の住民については、一般窮民同様の救済を実施していた。大阪市は、一般窮民と区別して救助することとなる。(民生事業40年史)
10月 「教育勅語」



1891(明治24)年

長屋建築規則が「名護町」に適用される
3月末から4月末を期間とし、名護町の「不潔長屋」に住む「貧民」9,162人を立ち退かせ、2,410戸を「取毀ちて改築する」という大規模な事業計画(「石井十次が残したもの−愛染園セツルメントの100年」第6章268頁)
この頃、「幽霊長屋」天王寺村に「新台湾」として移転(?)
「この地方(大字天王寺小字辻堂前界隈)は、大阪商業会議所(当時は極めて小規模のものたり)阪堺=後南海鉄道終点恵比寿駅等ありと雖、西は木津、南は今宮、北は日本橋5丁目にかかる。大阪市南端に位し、所謂六道辻あり。且つ、長町と称せる貧民窟所在の陋巷たり。而して、その長町の窮巷も亦勢移転せざるを得ざるに至るや、その際、国分己之助氏は我が辻堂前の地約一千坪を劃して、此に八十軒の長屋=一戸約五坪許(かって幽霊長屋と称したりしもの)をその住民と共に移転せしむるに遇う。/是等の窮民は、概ね人力車夫、日傭、土方、蛇蛙捕獲、紙屑拾い等を営み、僅かにその生を送るものたり。−その所轄住吉警察署(注:住吉署の平野署からの分離独立は明治40年)の亦洵に困難を極めたりしといふ。時の人呼び手『新台湾』と唱え亦は『台湾長屋』と称せしもの、亦故なきにあらざるなり。」(天王寺村誌639頁)
12月 中之島公園 開園

1892(明治25)年




1893(明治26)年

日清戦争
大阪鉄道の開業
4月 学区制強制実施



1894(明治27)年

博愛社、大阪移転(児童・婦人保護)

陸軍死傷者給与規則 制定

4月 大阪市 紋章 制定



1895(明治28)年

質屋取締法 制定

6月 大阪市、「交通遮断窮民救助費支給手続き」を規定

1896(明治29)年

大風水害による凶作/明治29年社会政策学会創立
大阪汎愛扶植会、貧兒救済を目的に今宮に創設
(35年に東区林寺町に移転)
マッチ工場「電光舎」 舎宅つき工場として開設
▲電光舎稲荷と電光舎跡石碑。電光舎当時のものと思われる赤煉瓦の敷石がある路地。



1897(明治30)年

米価高騰/明治30年金本位制の採用(決定3月、実施10月)/「伝染病予防法」
英照皇太后崩御の際の下賜金(38万5千円)を「明治慈恵救済資金」として府県に配布
これに道府県費を加えて基金とし、その利子を救済事業にあてることにした
水害地租特別処分法、伝染病予防法 制定
4月1日 第1次市域拡張
(大阪市、接続する西成郡・東成郡の28ヶ町村を市域に編入。西浜町・難波村=全域。今宮村=大阪鉄道線路敷地南端以北。木津村=勝間街道より西は字高畑、字東開の北を通ずる道路南端以北、字開キ東ノ樋より開キ大樋に達する井路以北、勝間街道より東は大阪鉄道線路敷地南端以北。今宮村・木津村の残存部を併合して今宮村と称す=戸数200戸未満。)
今宮村立今宮尋常高等小学校(字馬淵字貝殻)は大阪市編入となり恵美須尋常高等小学校と改称。新校舎が出来るまで今宮村の義務教育は大阪市南区恵美須尋常高等小学校に委託されることとなる。
明治30年粉浜村、勝間村、及び、今宮村、津守村の残部は平野郷警察署住吉分署の所轄になる
村 名 区 分 田(畝/歩) 畑(畝/歩) 宅地(畝/歩) 国税(円) 地方税(円) 町村費(円)
今宮村(旧) 大阪市へ編入 706 2 3,270 10 2,247 25 2,956.43 2,497.80 4,140.52
残存部分(a) 328 2 10,501 18 157 22 1,698.94 459.907 674.039
木津村 大阪市へ編入 39 18 4,402 4 2,004 7 2,212.16 2,943.16 6,090.70
残存部分(b) 44 0 14,518 20 111 23 2,319.35 2,913.72 1,717.89
今宮村(再編)a +b 372 2 25,020 8 269 15 4,018.29 3,373.62 2,391.93
注:大阪市区域取調所『接近町村編入調書』(大阪市公文書館所蔵,配架番号230)より作成。島田克彦=都市文化研究Vol.10。2008年より引用

参考:工業化初期の都市政策と地域社会ー大阪市における接続町村の編入をめぐって 島田克彦 都市文化研究 Vol.10 2008年 p18.pdf

大阪港第一次修築工事開始 大阪市営港の歴史の始まり
明治30年、当時の市予算の20倍に相当する巨費を計上して着工。昭和4年に完成。(大阪市政年鑑・昭和25年版)

1898(明治31)年

10月 「社会主義研究会」結成
戸籍法改正=戸籍の所在地としての「本籍地」という考え方が導入され、現況主義が放棄された。
4月26日 大阪府告示第78号
本年6月1日より当府に郡制を施行し、10月1日より府県制を施行
4月26日 明治24年6月府令第36号宿屋取締規則左の通改正
第1条 本則において宿屋営業と称するは旅人宿、下宿屋、木賃宿を云う
第32条 木賃宿は大阪市、堺市(並松町を除く)に於いて営業することを許さず
第37条 従来大阪市及堺市(並松町を除く)において営業する木賃宿は其の営業主移動の際免許の効を失うべし
10月22日 勅令第259号「内務省官制」
(内務大臣は地方行政、議員選挙、警察、監獄、土木、衛生、地理、社寺、出版、版権、賑恤及救済に関する事務を管理し台湾総督、警視総監、北海道長官及府県知事を監督す=地方局・警保局・土木局・衛生局・社寺局・監獄局)
10月 市政特例廃止 田村太兵衛初代市長就任


1899(明治32)年

「北海道旧土人保護法(アイヌ及び色丹族の保護規定)」/罹災救助基金法(天災地変等の災害時における救助を規定した明治13年太政官布達の備荒儲蓄法に代わるもの)
7月 川口居留地廃止
12月 市庁舎 西区江之子島上之町の仮庁舎に移転
行旅病人及行旅死亡人取扱法
=行旅病人を救護し、死亡人の後始末をなすは、市町村長の責任とし、之に要した費用は、被救護者乃至其の相続人扶養義務者の負担とし、若しその弁償を得ざるときは、所在地の府県の負担とせり。(「慈善」明治45年7月号−公の救済に関する現行制度)「行旅病人取扱規則(明治4年太政官布達)と「行旅死亡人取扱方規則」(明治15年太政官布達)を吸収して制定されたもの。
「罹災救助基金法」
=一府県の全部または一部に亘る非常災害に罹りたる窮迫者にたいし、避難所を設けて救済し、又は衣食を給与し、或いは治療を加え、或いは小屋掛けをなし、または小屋掛け材料を給与し、或いは就業の資料を給与する。(「慈善」明治45年7月号−公の救済に関する現行制度)