武田麟太郎 釜ケ崎 19330300/昭和8年3月 現代日本文學体系 70/『中央公論』(昭和8年3月/1933年3月) 小説
釜ケ崎
カツテ、幾人カノ外来者ガ、案内者ナクシテ、コノ密集地域ノ奥深ク迷ヒ込ミ、ソノ ママ行先不明トナリシ事ノアリシト聞ク――このやうに、ある大阪地誌に下手な文章で 結論されてゐる釜ケ崎は「ガード下」の通称があるやうに、恵美須町市電車庫の南、関 西線のガードを起点としてゐるのであるが、さすがその表通は、紀州街道に沿つてゐて 皮肉にも住吉堺あたりの物持が自動車で往き来するので、幅広く整理され、今はアスフ ァルトさへ敷かれてゐる。それでも矢張り他の町通と区別されるのは五十何軒もある木 賃宿が、その間に煮込屋、安酒場、めし屋、古道具屋、紹介屋なぞを織込んで、陰欝に 立列んでゐるのと、一帯に強烈な臭気が――人間の臓物が腐敗して行く臭気が流れてゐ ることであらう。
一九三二年の冬の夜、小さな和服姿の「外来者」が唯一人でこの表通を南の方へ歩い てゐた。冷い雨が降つて、彼のコーモリ傘を握つた指先も凍つて|痺《しび》れてゐる のに、別にここで宿を求めるでもなく、人を訪ねるけしきもなく、ゆつくりとした足ど りであつたが――その様子を、家の軒端に立つて、今まで首巻代りにしてゐた手拭で頬 被りし、腕組んでゐる宿なしたちも別に注意しなかつたし、交番所の年とつた巡査も怪 しまなかつたところを見ると、その外来者は、この土地に適した顔かたちをしてゐるの だらう。さう云へば、実は彼は東京に住む小説家であるが、批評家たちがいつでも口癖 のやうに「彼にはルンペン性があつて、どうもよくない」と眉をしかめてゐるのも思ひ 当るふしがないでもない。――しかし、彼はこの寒さに何の|気紛《きまぐ》れからし て、あんなに物思ひに沈んだ表情でこの地帯を行くのかと、人は問ふかも知れぬ。それ は過去をなつかしむ感情に駆られた結果である。と云ふのは、彼はこの街で生れ十二ま で育つたのであるが、ほんの三日前、ここで彼を手塩にかけて大きくした母親が急死し 、その追憶の念が彼の足を知らぬうちに、こちらへと向けさせたわけである。もとより 彼はまだ年少で、自分の激情を制するすべもわきまへぬ男故、要もないかうした夜歩き や感傷癖を許してやつてもよいだらう。
すでに、街から|醗酵《はつかう》する特殊な臭ひは聯想作用を起して、彼の胸に種 々な過去の情景を浮びあがらせ、彼はそれに簡単に陶酔して了つてゐたので、その尖つ てゐる眼もいつに似ず柔和に光り、何も見てゐないに近かつたのである。唯、去来する 思ひが――たとへば、袋物工場に通つてゐた母親が、夜も休まず石油の空箱を台にして (その箱の隅には小さな|蜘蛛《くも》が綿屑みたいな巣をかけてゐた!)セルロイド 櫛に、小さな金具の飾をピンセットで挾み、アラビヤゴムと云ふ西洋の糊でつける仕事 をしてゐる横に、新聞紙にくるんだ芋が置かれてある有様や、そして、その芋は彼女の 夕飯代りなのだが、夜更けると子供たちが腹をすかせるので、彼女は大半を残して置き 、子供たちがせびると「何云ふねん、こらおかんのや」と云ひながらも分けてやり、ま たは、その飾附けの出来あがつた櫛を十歳の少年である彼と共に大きな重い風呂敷包に して、大国町の問屋に運ぶ時の手だるさやら、そんな稼ぎものの彼女にも|係《かかは 》らず、ある夜は|鴉金屋《からすがねや》の親爺に|罵《ののし》られて(彼が今に いたるまで鴉金の名称を忘れずにゐるとは何と云ふ因果なことであらう。それは朝貸出 した金が夕方には利子をくはへて元の巣へ飛戻つて来る。――鴉のやうに、と云ふので 、さう呼ばれてゐた。一円を借入れると、先づ十銭は天引、手取は九十銭であるが、そ の後一円の五歩の利息を加へて、八日間に返済しなければならぬ)彼女はしかたなく、 片隅に積んであつた小便臭い家族たちの蒲団を頭にかついで外へ出て行くと、その頃流 通してゐた十銭紙幣の油じみたのを持つて帰つて来たが、その夜の明け方の寒さやら、 或はぐうたらな遊び好きの少年であつた彼が、尾上松之助の侠客物が見たくて、彼女に 嘘をつき金をねだり、すると彼女はまた思ひ余つて、巻いてゐた帯を解いて|絣《かす り》の前掛だけになり――帯は彼の入場料になつて、彼は活動写真に感激した余り、二 階の上りつぱなの壁に、墨で以て、|眇眼《すがめ》の屋上松之助の似顔絵を大きく書 いたり――
妙なもので、遠い以前の習慣を、足は忘れずにゐて思ひ出したものか、無意識にふと 立ちどまり、そこで小説家がはつとして眼を転じるならば、ちやうど彼が生れて育つた 家の、路地先まで来てゐるのであった。雨にベタベタに濡れて光る|浪花節《なにはぶ し》のポスターが、床屋の表にぶらさがつてゐるが、その横を折れて二軒目がさうであ る。――この床屋も代が変つたであらう、彼はいつも小僧のために「虎刈」にされてゐ た。今夜はもはや客がないと見え、ガラス戸を開めて、白い力ーテンを張りめぐらして あるので、内らは|覗《のぞ》けぬ。
路地に入ると暗がりで、軒並みの家々の影も、永い年月が経つてゐる故、古びて|歪 《ゆが》んでゐるやうに思はれ、しかもどこもしんとして静かなのが、少し小説家には よそよそしく感じられないでもなかつたが、懐しい場所に再び立入つたことで、彼の気 持はすつかり満足してゐた。――自分が十二年もゐた家に、今は如何云ふ人が住み、如 何云ふ生活がなされてゐるかと、想像するのは、甘い楽しみであつたから。
すると、彼はその家の戸口に女が出て来たのを認めたのである。それは恐らく、そこ のお神さんで、外出しようとするのだが、雨はまだ止まぬかと模様を見てゐるのだらう と、察した彼は、|迂闊《うくわつ》に|佇《たたず》んでゐたりして、不審がられる のを恐れ、わざと、もちろん軒燈もないから見えるはずもないが、隣家の表札に眼を近 づけたりするのであつた。だが、それは無効であつたと云へる。女は片足を踏出すと、 突然、彼の|袂《たもと》を――それから身体全体を抱へるやうに|掴《つかま》へて 了つたのである。そこには必死な抵抗すべからざるものがあつた。驚きと怖れから、小 説家は身をもがいたが、慣れた――たしかにさうすることに慣れた、特殊な技巧のある 女の両腕は強くて離れず、それではこの女は、とすぐに彼は気がつかぬでもなかつたも のの、まだ半信半疑のうちに、もはや土間にひきずり込まれてゐて――そこに、昔の彼 が顔を洗ひ水を飲んだ場所がちらと見えたかと思ふと、どんと揚板の上へあげられ、更 にむりやりに尻を押されてつまづきさうになりながら階段に足がかかる時には、やつと 一切を理解し得たので、少しの落ちつきも取りもどし「おい、さう押すなよ、危い」と 、女の方を――化粧した吹出物のある顔を振りかへつて云ひ、それからひよいと正面に 向き直ると――彼の眼には、二階への昇り下りにしめつぽい手垢ですつかり黒く汚れた 壁の上に、まぎれもなく彼の筆になる尾上松之助の似顔絵がはつきりと残つてゐるのが 、うつつたのである、うつると同時に一種の感慨に胸をせめつけられ、急に|酸《す》 つぱい気持がこみあげて来て、不覚にも尾上松之助はぼうつとぼやけて了ひ、女に|坑 《さから》つてゐた身体の力もそのまま抜けて了つたやうな気がした。
女は、まだ雨しづくの垂れさうなコーモリ傘と泥を歯の間に挾んだ下駄とを敷居の上 に寝かせてから、高くつつた黄色い電燈の光を裏から受けてゐるので埃の浮いて見える |歪《いび》つな日本髪の頭を傾け、彼の様子を――今にも泣出さんばかりのその表情 を、けげんさうに、打守るのであつた。もちろん彼女には訳はわからず、この何と云ふ 気弱な男であらう、淫売婦に有無を云はさず乱暴に引張りあげられたのを、どぎもを抜 かれ、後悔してゐるのかと、考へたかも知れぬ。そこで彼女も少し|呆気《あっけ》に とられ、ぽかんとした顔で、寒さに歯をガチガチも打鳴らしながら、 「すんまへん」と、云つた。――それから、気の毒さうに、彼の方へ掌を差出したので ある。
小説家は、彼がこの家で生れたこと、あすこに見えるあの落書こそは彼の手になるも のであること、しかも、思ひ出の積つてゐるその建物は、今は淫売婦の仕事場になつて ゐること――それらを、彼女の前に語り出したくなつたほど、感傷に溺れきつてゐた故 、女の請求をはねつけるだけの勇気もなく、一体何ほど与へればよいか、と細い声で質 問するのであつた。 「すんまへん」と、また彼女はあやまるやうに云ひ、――「五十銭やつとくなはれ」と 態度は優しく嘆願するのであるが、その精神には、今にも彼の懐中に手をさし入れるば かりの執念深さがあつた。
彼が、どうかして母や弟妹をこの窮乏から救ひ出レたいものと、来る日も来る日も考 へつめてゐたこの六畳の部屋は、薄い雨戸を真中に立てて、二つに区切られてゐ、あち ら側にも人の動く気配があつたが、ちやうどその時、その中から口争ひをはじめた男と 女の声が聞えて来たのである。
――女の声がののしるには「そんなあほらしいことできるかいな――そんなことはな ア、十銭淫売のとこでも云うとくなはれ、うちはちとちがふ!」と、云ひ、見そこなつ ては困る、あほたんめと、附け加へるのであつた。――小説家は、その言葉に気をとら れながら、それでは隣りにゐる女も五十銭の口なのであらう、だから、十銭のものより も格式を以て客に臨んでゐると云ふわけであらうと考へ、妙なところに、――人はどん 底まで来ても、まだこれより卑しい下のものが存在するのだと自分を慰めて、高い心を 失はないでゐることに、――感心してゐた。――しかし、相手の客は、|嗄《しはが》 れた声から察するとかなり年配らしいが、なかなか承知しないと見え、争ひは益{1} 烈しくなつて、果は彼らの身体が雨戸にぶつつかり、今にもその頼りなく、がたつくし きりは倒れさうに動くのであつた。――それをこちらの女は、実に無関心な表情で見て ゐたが、暫くすると、お前はどうしても暴れる気か、それならば、ちよつとこちらへ来 てくれと、別の男のへんに調子の低いおどかし声がして、ぐづねてゐたのは「よし、帰 つたる、帰つたら文句ないやろ、五十銭かへせ」と|喚《わめ》きちらし、女は女で息 をはずませて{2}高く――「一旦もろたもんが返せるもんか」なぞと叫びつつ、やが て、彼らはガタガタと階段をころがるやうに下りて行く音がした。――いや、階段は小 説家の坐つてゐる側にあるし、そしてこの小さな家にそれが二つもあつたはずはないと 、彼は怪しんで背延びをし、雨戸越しに、何やら取り散らけた喧嘩の現揚を見るのであ つた。すると、あちらの壁が無惨にくり抜かれてあつて、|洗《あら》ひ|晒《ざら》 しの浴衣地を力ーテンみたいにしたのが、汚く垂れさがつてゐ、隣家の二階と通じてゐ るのが分つたのである。では、隣りも同様かうした宿になつてゐるのかと、彼は、そこ に住んでゐた荒木と云ふ葬式人夫の一家や、恐しく出つ歯であつたが秀才で、今宮の職 工学校に通つてゐた息子のことを思ひ浮べるのであつた。
それから、女は小説家の顔をちらとのぞき、そこに敷きつぱなしになつてゐる薄く細 長い、浅黄の蒲団の上に倒れて見せた。――彼はそれには及ばぬと、幾度も繰りかへし て説明しなければならなかつた。しかし、女はなかなか承知せず、|執拗《しつえう》 に誘ひの言葉をかけるのである。彼女は、男とはそんなものではないと十分悟つてゐる やうにふるまつてゐたので、無為に金を払ふのを想像できなかつたのであらう。 「それではすんまへん――銭もろといて遊んでもらはなんだら」と、またも云ふのであ つた。それは労なくして賃銀を受取ることを恥しく思ふけなげな心持からと云ふよりは 、むしろ、彼が遊ばないのを口実に全額でなくとも、五十銭の何割かの払戻しを請求し はしまいかと、恐れたが故であつたやうだ。
「ほんまに、えらいすんまへんな」と、やつと彼女は納得して云つたが、それでもまだ ――「ほんまにかましまへんか」と、尚も云ひながら、そこに坐り直すと、バットの箱 から吸ひさしの煙草を出し、ちやうど彼がつけた|燐寸《マッチ》の火に、頭をかがめ て、吸ひづけるのであつた。赤つぽい髪の毛や、垢ずんだ首の皺や|襦袢《じゅばん》 の襟が近づき――しかし、その時、彼は何か発見したやうな眼つきになり、ぢつと彼女 の身体つきを|検《しら》べ、跳め廻したのである。
女の煙草は短かかつたので、すぐになくなつた。小説家は自分の箱を荒れた畳の上に 置いて、一本つけては|如何《どう》かとすすめるのであつた。だが、女は女らしく遠 慮して「五十銭ただもろて、その上、煙草のませてもろたりしては――それこそ、|冥 加《みゃうが》につきます」と、辞退して手を出さなかつた。それ位いいぢやないかと 、尚も彼が云ふと強情に身を引かんばかりにして、 「いいえ、いけまへん」と、しをらしい表情をして見せたが、急に彼は自分の観察が誤 つてゐるか如何かをためしたくなつて、何の悪い気もなく、 「あんたは、女とちがふな」と云つたのである。それを相手は随分と意地悪くきいたか も知れなかつた。どうして、そんなこと云ひ出したのだらうと、暫くの間、女は彼の顔 を見つめてゐた。それから、両手を揉むやうにして、下うつむいて、嘆息した。
「やつぱり――分りまつか」と云つて黙り込み、それでもまた勇気を取戻したのか、 「そやけど、今までに一ぺんも見現されたことはおまへなんだ、ほんまだつせ――兄さ んにかかつてはじめて――わやくやな」と、てれ臭さうに、力を入れて云つた。 思つた通り男だつたのかと、小説家はうなづいたが、何とも分らぬ変な気持になつて ――「ほう、そいで」と云ひ出すと、相手はその顔色を読んで、すぐ答へた。 「ええ、ちやんと、そいで商売してますねん、をなごとしてな」と奇妙な陳述をするの であつた。小説家は飽かず、この相手を見てゐると、そいつは、女でないと云ふことが 明白になつてから今までと著しく態度を変へた。すばめるやうにしてゐた肩も張り、 「ほんなら、一本いただきまつさ」と、遠慮を打捨て、手を出して煙草の箱を取つたが 、その指も骨ばつて来たやうにさへ思へたのである。そして、 「もうとしですよつてに、身体が堅うなつてしもて――」と云ひ、問ひに応じて、二十 歳であると云つた。
「まだ子供の時は、これでも綺麗や云うて、お客がたんとつきましてな――なんにも知 らんとな」と、女のやうに口へ手をやつて笑つたが、急に煙草を揉み消すと、 「あんまり、ゆつくり、ここにをられまへん――何やつたら、わてのホースにおいでや すな」。と、彼(女)は小説家が奇怪な話に興味を持ち出したのを知つてさう誘ひ、こ こでは部屋代をとられる故、散財をかけては済まぬ、自分のところへ来い、と云ふので ある。「ホース」と云ふは、「ハウス」か「ホーム」の|訛《なま》りであるらしかつ た。――
「すぐ、そこだす、第二愛知屋だす」 そこで、小説家は偶然なことから、彼の懐古心を満足させ得たことを思ひ起し、今更 のやうに、感慨深く部屋を見廻し、玩味し、|剥《は》げた壁や畳に、もはやかうした 宿らしく人間の汁液が浸込み|饐《す》えた臭ひがこもつてゐるのや、天井の薄い板も ところどころ外れて垂れさがつてゐるのを、認めるのであつた。そして、再びその部屋 を、楽書を見ることはなからう、と思つた。 れいの女装の男は階下へ、彼のために傘と下駄とを持つて行き、破れた障子の中へ首 を突込むと、中の者に何やら云ひ、それから大きな声で、「おほきに」と、挨拶して彼 を促して、外へ出た。
表通の方へは行かず「こつちから」と、路地の奥を突抜けると、木柵があつて南海鉄 道のレールが走つてゐ、ずつと遠く天王寺公園に当つて、エッフェル塔のイルミネショ ンが、暗い空に光を投げてゐる。――その黒い木柵の間を、彼(女)は着物も長襦袢も たくしあげて|跨《また》ぎ、危うおまつせ、と彼のために傘を持つてやつて、案内す るやうに云ふのであるが、もとより、小説家は子供の時に、そのレールの上に針金を寝 かせ、電車の車輪にしかせてペチャンコにしたり(彼はそれでナイフを作らうとしたの である)石を積みあげて、食物や道具を一ぱい載せてゐるにちがひない貨物車の|顛覆 《てんぷく》を企てたことがある位だから、必ずしも見知らぬ場所であるとは云へなか つた。北の方から電車が進んで来、警笛を鳴らし、|蒼白《あをじろ》く烈しいヘッド ライトはそれを避ける彼らの影を、雨に濡れた軌道の小石の上に大きく振廻すのであつ た。越えると空地があり――その暗い中に、何やら人のざわめきがし、群れ集つてゐる 気配があつた。
「|轢死人《れきしにん》があつたんか知らん」と、女装の男は云つた。―― (ここで、もう一度、小説家の|煩《わづらは》しい回想を許してやりたいと思ふ。か つて、このあたりではよく人々が|轢《ひ》き殺された、彼らの生命が安かつたせゐか も知れぬ。夜更けてけたたましい警笛が長く尾を引いて鳴り、急停車する地響きがある と、仕事をしてゐる手を休めて、彼の母親は「また誰ぞ死んだ」と云つたものである。 その時は身に迫るやうな寂しさを子供は感じた。そして、朝になると、今彼らの眼の前 にある広場に|蓆《むしろ》のかけられた血のしたたる屍骸が横たはつて、検死の済む のを待つてゐた。多くは無一物で、生きても死んでゐる者たちであつたが、ある冬の朝 、近所のお神さんたちは、咋夜の轢死人は懐中に十円もの金を持つてゐたと噂し、そん な大金を持つてゐながら、どうしてまた死ぬ気になつたのであらうと語つてゐたので、 それを聞いてゐた子供たちは大急ぎで柵をくぐり抜け、もしや、その不要な金を子供た ちに分けてくれはせぬかと、一散に走つて行つたことである。)
処々高低のある、雨で軟くなつた土を、ごばごぼと踏んで、彼らは、人だかりの方へ 近づいた。外套をすつぽり着た巡査が懐中電燈を照して色々と命令し、人夫風の男が、 ぐつたりした老人の大きな身体を、寝台車に担ぎ込まうとしてゐた。それはトルストイ のやうな顔をし、白い|鬚《ひげ》を長く延ばした爺さんであつたが、なかなか重いと 見え、人夫は白い息をふうふうと吐いて少し|手古《てこ》ずり、すると、人々の間か ら、白けた|絆纏《はんてん》の浮浪者が出て――「爺さん、しつかりせえよ」と声を かけて片足をかつぎ、黒い|布被《ぬのおほ》ひのある車へ載せるのであつた。そして 、力なくだらりと垂れた老人の足からは、竹の皮の|冷飯草履《ひやめしざうり》がぬ げて落ち、垢ぎれでひび割れた大きなその足裏が気味悪く、懐中電燈の光にうつし出さ れるのであつたが、れいの浮浪者は|逸早《いちはや》く、草履を自分の足に――彼は はだしだつたので、ひつかけた。すると、巡査は癪にさはつたやうに、「おい、おい」 と|顎《あご》を振つて注意し、 「そら、病院のや、いれとけ、いれとけ」と叱つた 。浮浪者はすなほに、その病院の名らしく焼印の押されてある草履をぬぐと、|肘《ひ ぢ》で拭ふのであつた。何故なら、すでに彼の足の泥がつき、濡れて了つてゐたのであ る。少してれて、それを老人の足指にはめようとしたが、すぐ落ちてダメなので、人夫 は黙つてひつたくり、車の底へ押込んだ。
「兵隊辰やな」と、女装の男は、癖で歯をガチガチ寒さうにならしながら、小説家に説 明して云つた。その声に、巡査はちらと、こちらを見たが、人夫が寝台車の梶棒を握つ て立ち上ると、「爺さん、もう戻つてくれるな」と云つた。さつきの浮浪者はそれに応 じて、「旦那、兵隊辰はもう二度とここへ帰つてけえしまへん――今さき、触つたらも う冷たうあました」と低く云つたが、巡査は苦々しい顔をした。――「困つたやつちや ――わしの責任になるがな」そして、今まで、爺さんの寝臥してゐた|蓆《むしろ》を 靴の先で蹴り飛ばした。 車はゆつくりと去つて了ひ、人々も散るのであつた。あとには、雨が再び寒く降りは じめ、女装は、 「おお寒むやこと、すつかり冷えこんでしもたわ」と、云つた。広揚はもとの静けさに 戻り、あちらこちらに火が燃え、雨の中に明るさが溶けて見えるのである。それは浮浪 者たちが、大きな穴を掘り、その中で物を――|塵芥《ぢんかい》を燃しながら、その 白つぽいむせかへるやうな煙の横に、うづくまつて、眠りをとつてゐるのであつた。 「今晩は」などと、その穴の側を通りながら、小説家の同伴者は声をかけ、 「降つて困りまんな」と云ふのである。
兵隊辰とは――歩きつつ、彼(女)が語つたところによると、以前は軍人で、日清日 露も両方とも出征して勲章を貰つたが、心臓を|患《わづら》ひ、子供身寄もなくて、 ここまで零落したのである。最近は殊に衰へ、寝込んでゐたので附近の宿なしたちが心 配して、慈善病院に入れるやう「旦那」に交渉し、そして入れたのであつたが、すぐと 、不自由な身体をひきずつて、この空地へ立ち戻つて来た、驚いて連れて行くと、また 、ひよろひよろと帰つて来、それを再三再四繰りかへしてゐたと、云ふ。 「なんでや」と、小説家はたづねた。彼は、さうした慈善病院の官僚的な冷い有様や、 堅い寝心地の悪い木のペッドよりも、弱つた神経のうちから馴れた野宿を思ひ出すあの 浮浪者魂のことを、考へてゐたにちがひない。 しかし、相手は、 「なんでだつしやろな」と無関心に答へ――「寒い、寒い、――兄さん、お酒はどうだ す」と、云ふのであつた。なるほど、広場を過ぎたところに、焼酎屋があつたが、彼は 、 「さあ、金があるか知らん」と心配すると、 「いや、大丈夫」と、女装は力を入れて「おます」と、勝ち誇つた。先程、小説家が彼 に五十銭与へた時、その財布の中を、のぞいて数へて了つたのだと云つた。それは商売 からして、無意識に行ふのである。――油障子を半分だけ閉めた中の、二すぢの長いテ ーブルには、人人が――ボタンのない外套の上から縄をしめたのや、羽織もなく寒々と した黄色い顔の男や、|絆纏《はんてん》にゲートルを巻いて、何か知らぬが大きな風 呂敷包を腰にくくりつけたのや、|眼脂《めやに》で|眼蓋《まぶた》のくつつきさう になり、着物の黒襟が汚れてピカピカに光つてゐる女やら、――みんなすでに酔払つて ゐて、頭を重く垂れ、時々あげてあたりを睨むと訳の分らぬ叫びをあげて会話し――一 切が不健康に濁り、空気は淀んで腐つてゐるやうに見えた。小説家と女装の男とは、あ いたところに腰をかけ、値段書のぶらさげてある背後の羽目板にもたれ急に冷くなつた 足先を土間で踏みならしながら、店のものが犬きなコップに焼酎をつぐ|手許《てもと 》をぢつと見るのであつた。透明な液体は溢れて、木目のはつきりした汚いテーブルの 上に流れると、女装は口を近づけて吸込み、舌なめずりするのである。更に彼は媚びる やうに小説家を見てから、艶つぽい声で店員に註文を発すると、豚の腎臓をそのまま薄 く切つたのが塩を|副《そ》へて持つて来られ、彼(女)は指でそのべろべろした血の かたまりみたいなものを、つまみあげて、彼に、 「どうだす、ひとつ」と云ふのであつた。――「ちよつと臭がしますけど、通人の食べ ものだつせ」 さうかも知れぬ。しかし、小説家は手を出すことをしなかつた。
やがて、簡単に酔ひが身体に廻ると、昂奮して女装は、多弁になり、ハンカチを出し て胸にあてたりして、口惜しがるのであつた。それは、またしても、彼(女)が今まで 本当は男であるのを発見されたこともなく、――また真実女であつて、その他の何もの でもないと、自分自身も永い間信じきつてゐたと云ふことで、|鏤々《るる》としてつ きなかつた。彼(女)はその日常生活の末々端々にいたるまで女子として行動し――そ して売春婦として存在することによつて、一家三人が第二愛知屋(木賃宿)に一部屋を 借り受けてこの数年暮しを立てて来、もちろん、その弟で十四歳になるのも昨年あたり から女になつて、客をとることを覚え、彼らの母親はかなり楽になつたが、―― 「やつぱり歳のすけないのは、骨がやはらかいし、肉もしまつてまへんよつてに、もう わてらと較べもんにならん位、よう売れます」と、感心して、彼は云つた。その弟が先 日警察の手入れであげられ――そこで、肉体を発見され、釈放される時には、折角延ば して結つてあつた髪の毛を短く刈取られて了つた。――「早う生えてくれんと、商売で けしまへん、ほんまに無茶しよる」と、彼は憤慨して抗議した。「そんなことする罰は 法律にはないさうだす」と、彼は知合の――同じく第二愛知星に宿泊してゐる弁護士( !)に聞いたと云つた。色々と話の末、彼(女)は今後も完全な「女」として生きる決 心を告げ、(さうした女としての暮し、その衣裳、殊に下着や腰にまとふものを身体に つける時の悦びを昂奮した調子で彼は語つたが、妙な商売の思ひつきから、すでに救ふ べからざる倒錯症にかかつてゐることを証拠立てた)――最後に、 「かうなつたからには、意地でも、どうかして子供を産んで見せます!」と、断言した のである。小説家は、その言葉が単に彼(女)の酔ひから無責任に放たれたものではな く、本当にさう信じてゐるらしいのを見て驚いた。
「なに、予供を産む――何ぬかしてんね、ど淫売の癖に、ふん、父無し子か!」と叫ん だものがあつた。奥の方にゐてボタンの一つもない外套を着た男であるが、とつくに酔 ひ倒れて、テーブルに両手を投出して眠つてゐたのに、さう|呶鳴《どな》ると立ちあ がり、彼らの方へ危げにやつて来た。 皮膚の上にもう一枚皮膚ができたやうに、垢と脂とで汚れきつてゐるが、|眼蓋《ま ぶた》や唇のぐるりだけ、黒ん坊みたいに|隈《くま》どつて生地の肌色が現れてゐた 。――彼はたしかに、さう声をかけたのを機会に、小説家の方へ来て、焼酎をせびらう としたのである。それは、すぐ「産むなら、なア、この旦那の子供を産めよ――ほんま やぞ、なア、旦那」と云つて歯を出してお世辞笑ひしたのでも分つた。ところが、彼は 今一ぱいの焼酎が|咽喉《のど》をよく通らないほどになつてゐて、酒はだらしなく、 口から|涎《よだれ》のやうに流れ、コップはぽんとテーブルの上に投げられ、ころが るのであつた。 「あア」と、彼は聯想するやうに云つた。「なア、ほかのやつの子を産むな、間男の子 なんか産んでくれるな」―― それから、彼は急に泣き出して了ひ、「わいの|嬶《かかあ》は、間男しやがつて、 そいつの子を産みやがつて」と|鳴咽《おえつ》したが、やがて濡れた顔をあげると、 「何もそんなこと、最初から分つてたんや、わいは、大体、女の癖に新聞読んだりする やつは好かん」と、そむかれた彼のお神さんのことを罵つた。
その云ふことは前後取りちがへてゐ、|呂律《ろれつ》も廻らず、そのまま文字にう つすこともならぬが、彼が若い時、郷里へ帰つて貰つた女房を連れ、大阪へ戻る途中、 花嫁である彼女が姫路のステーションで新聞を買つて、読んだと云ふのである。「わい さへ新聞みたいなもん読んだことあれへんのに」――そこで、実に被は癪にさはり、生 意気に思へたので、すぐにそのまま引返して、離縁しようかと一時は考へたが、せつか く人手を|煩《わづら》はし、世話して貰つたのにと、胸を撫でて我慢した――それが いけなかつた、やはり、新聞の一つも読まうかと云ふ女は「学問」を鼻にかけ、他に男 をこしらへて出奔して了ひ、自分の観測に誤りなかつたことを思ひ知らねばならぬやう な始末になつたのである。―― 「ああ、やけぢや」と、彼は結んだ。 「兄さん、大分廻つてる、苦しさうや」と、女装は云つた。すると、 「あたりまへや」と、何故か彼は「女」には荒々しく云ひ、もう二日も前から飯を食つ てゐないことを告白して、青い顔をした。小説家は、もしさうなら、如何に酒好きであ るにしろ、焼酎なぞ飲む金で何故腹をこしらへなかつたか、と責めるのである。ひよつ とすると、これは昔このあたりによく見かけたアルコール中毒かも知れぬ、と彼は考へ た。
すると、外套の男は腰紐代りの縄に手を入れ、しごきながら、 「ほんまのこと云うたろか」と云ふのであつた。小説家は云つてくれと云ふ顔をした。 「そりゃさうや、さうや、旦那の云ふ通りや、誰が銭持つてたら、空き腹に酒なんかあ ふるもんか、米のめしがほんまに恋しうてならんわ――をとつひも飯食うたんやあらし まへん、観照寺で接待ある云うよつてに、伊原つれて出かけたら、それが、うどんの接 待だす、伊原にお前わいに半分残しとけ云うたのに、あの狸め、ちよつとも余さんと食 うて了ひよる――なア旦那、大体伊原に、観照寺で接待あるよつてに行こか云うて誘う たのはわいだつせ、知らんとゐたらうどん一すぢも口に入らんとこや、なア、そやのに 、恩知らずめが、どうだす、礼儀の知らんこと、後輩の癖にわいより先にお汁をかけて 、ちよつと残しといてと頼んどいたのに、どんぶり鉢のはしも噛る位綺麗に食うて了ひ やがんね、――それからと云ふものは、まる二日、仕事もないし!」
彼の後輩である伊原が何ものであるかも、また彼の仕事がどんなものであるかも、酔 払ひは説明しなかつたが、そのたどたどしい独白に、この店の中で、強い焼酎に|痺《 しび》れた頭をかかへたものたちは、ひそかに白い吐息をして、耳を傾けたのである。
「わいは、何のはなししてたんやつたかいな、――そやそや、旦那は酒飲む金で飯食へ と説教してくれはつたんやつたな、どうも、おほきに」と皮肉に口を|歪《ゆが》め、 「そやけど、ほんまのことを云ふとやな」と、語り出した、――彼らはどんなに空き腹を抱 へてゐても、人にめしを食はせてくれ、とは云へないのであつた。何故ならば、誰も彼 も自分だけが食ふのが精一ぱいで余裕は更にないので、しかも頼まれたら、すぐに足り ないものも半分は分けてやらねばならず、――だから、そんな人の予定を狂はし迷惑か けるやうな依頼心を起すのは道徳的ではないと、されてゐる。そして、もしも誰かが景 気よくて(景気よくて!)すつかり気が大きくなり、おい、酒のませたろかと誘はれた 時にも「酒の代りに飯をおごつてくれ」とは云へないものだ、と外套はしみじみ述懐し た。それは一つには、虚栄心もあつたし、また折角相手が酒で愉快になつてゐる気分を ぶちこはすに忍びないからであつた。だから、今夜のやうに酒だけで腹をこしらへてゐ る時もある!
「兄貴、酒おごらんか、は云へます、そやけと、云へまつか、めし一ぱい頼むとは」と 彼が云へば、夜更けの酔払ひたちは口々に、「さうは云へん、云へんもんぢや」と、首 を振るのであつた。――小説家は、そこに浮浪者につきものの、さやうな貴族精神を見 て、悲しく思ひ――さう云ふはなしを俺にするからには、俺にめしをねだつてゐるのだ らう、と云ふと、 「あたりました」と答へ、なんでや、見栄があるやろ、とからかふと、「あんたは、旦 那やよつてに、かめへん」と、尚も小説家を悲しませるのである。
それから雨中に、のれんを|排《お》して出た女装の男は、頬に雨滴をあてて、 「おお、|冷《ひや》こ、ええ気持やこと!」と叫び、酒にまかせて外套の浮浪者にし なだれかかると――「ちつ! わいは女はきらひや」と、かれは|忌々《いまいま》し げに舌打ちし、その手を払つて、どんどん先に立つて行くのであつた。 「上等の店、おごつて貰ひまつせ」と、彼は云つて木賃宿の裏手の狭い道を――そこか ら薄暗い部屋に親子夫婦たちがくるまるやうにして寝てゐるのが|煤《すす》けた格子 窓越しにのぞかれ、また戸締りのしてない裏木戸からは、|列《なら》んだ便所の戸が どれも開いてゐるのが、陰気臭く見えるのであつた。
めざす店はまだ起きてゐた。
「|芋粥《いもがゆ》くれ、おつさん」と、外套は呶鳴つた。吹きながら、人々の手垢 で黒くなり、塗りの剥げた箸で、煮込のやうな粥を咽喉に通しながら――「なんやて、 明日ハ十五日ニツキアヅキガイ二銭モチ入アヅキガイ三銭――よし来た、おつさん、今 晩は旦那がついてる、餅入小豆粥一つ呉れ」と、壁に張つた紙ぎれを読んで云ふのであ つた。 |絣《かすり》の|筒袖《つつそで》を着、汚れてはゐるが白の前掛をかけ、茶つぽ い首巻をした主人は、媒の垂れさがつてゐる、釜の側で、|煙管《きせる》をくはへて ゐたが、 「こら、あしたや、けふはあかんしと、ぶつきら棒に返事した。 「あしたやて、ふん、あしたと云ふ日があるならば」と浮浪者は節をつけて応酬をして 、「こら、見い、もうぢき、十二時やぞ、そしたら、あしたや、待つてたろ」と、箸を あげて、棚に置かれてある、アラビヤ数字のいやに大きいニッケルの眼ざまし時計を、 指すのであつた。主人は冷く、相手にしなかつたので、彼はまた呶鳴りちらした。 「こら、わいの云ふことが分らんか、こら、人殺しめ!」 「なに云ひなはんねん、そんなこと」を、女装が驚いて制止すると、「うるさい、女は 黙つとれ」と、彼は|邪慳《じゃけん》に唸つた。それでも、主人は身動きもせず、白 い眼で見るだけで、――その眼が「このルンペンめ、そんなこと云ふと、もう、うちの 粥食はさんぞ」と云つてゐるやうに見えたので、外套は、がくりと首を垂れ、 「いや、ほんなら、芋粥お代り」とおとなしく云つて、うまさうに、かぶりつくのであ つた。――
彼が粥屋の主人に向つて、人殺しと罵つたのは,何も理由のないことではなかつた。 その店を出ると、そんなことを云ふなと止めたくせに女装の男が先に立つて、問ひもせ ぬに小説家に語つた所によると、――もう二年前にもなるが、その秋のちやうど夕飯頃 、あの店が粥を食ふ零落者で混んでゐた時、ある男が(外套は、あら、田辺昔松や、や つぱりわいの友だちや、と云つた)――その田辺が二銭払つて出ようとすると、主人は 三銭置いて行けと請求し、何故かと聞けば、一銭の漬物を食つたから、と云ふので、田 辺は驚き、いや、そんな覚えはない、と云ひ張り、この漬物皿は横にゐたやつが|平《 たひら》げたのやと述べたが、主人は更に聞ぎ入れず「食つた」「食はぬ」と争ひにな り、果は、田辺がどんと胸をつかれると、悪いことに空き腹がつづいて力の抜けてゐた 彼は、そのまま仰向けに倒れて敷石で頭を打ち――そして、もう二度と動かなかつたの である。調べた結果、頭蓋骨が折れたのが死因と分つた。もちろん傷害致死で主人は行 つたが、それも三四ケ月すると、もう店を開いてゐたと云ふ。――外套は力んで、「今 に仇をとつたる」と云ひ、「そやけど、あすこの芋粥はほんまにうまい」とほめて、そ んな店を潰すに忍びないと云ふやうな顔をした。
話が終ると、突然、外套は「おほきに、御馳走さん」と云ふなり、眠つた低い家々の 間を、そこには雨の中に傘をさして淫売婦たちが辻辻に立つてゐるのであつたが――駈 出したのである。 「待て!」と、小説家は呶鳴つた。寝るところがあるか、と心配したのである。 「今夜は、腹も張つたし、酒ものんで、ええ|塩海《あんばい》やよつてに、その勢ひ で|野宿《でんでん》する」と、相手は答へ、尚も走りつづけようとした。 「待て!」と再び小説家は云つて、幸ひこの「女」がすすめるから、一しよに第二愛知 屋に泊らう、と誘ふのであつた。 すると、不思議なことが起つた。――今まで、いやに辛く女装に当つてゐた外套は急 に叮寧な言葉づかひになり、 「姉ちやん、えらいすんまへんな、屋根代もなしに、|厄介《やくかい》になつたりし まして」と挨拶するのである。――思ふに彼は彼の逃げた細君以来、女にはよからぬ感 情を抱いてゐたので、自然、女装に対しても冷かな態度を取つてゐたが、今は彼(女) は|部屋主《まどもち》になつたので、その点から礼儀をつくしたのである。 その証拠には、彼が彼女の「ホース」に行きついてからは――大戸をガラリとあけて 女装が帳場に坐つてゐるキナ臭い中年の男に「頼んまつせ」と申入れた時も、うしろに ついて彼はぺこぺこと頭をさげたし、また広い階段の途中ですれちがひ、彼(女)から 、「今晩は」と、呼びかけた、赤い顔に|髭《ひげ》を蓄へた、しかし、口のあたりに 何やら卑しい|腫物《はれもの》の出てゐる、袴をはいた男にも、外套は腰を折らんば かりにお辞儀するのであつた。その袴の男を、あれが、弁護士だす、と女装は云つてき かせた。――
彼(女)の部屋では、浮浪者は益{1}小さくなつて隅の方に坐り、しきりとボタン のない破れ外套の前を合せ、巻いた藁縄をはづかしさうに触つて見るのである。そして すでに寝てゐる弟や(なるほどその髪の毛は最近に|散切《ざんぎ》りにされたあとが あつたが、少し延びかかつてゐ、ちやんと女風の長襦袢の肩を見せて眠り、日頃のたし なみを見せてゐた)また母親に(彼女は二人の外来者を無言のままじろじろと観察した )――突然夜半に訪れたことを、幾度も繰りかへして謝するのであつた。――
それほどだつたから、朝になり、みんなが眼ざめた時、すでに遠慮深い彼の姿は消え て、見られなかつたが、誰も不思議にも思はず、眠つてゐる者たちを驚かきないやうに と、|跫音《あしおと》を忍んで、部屋を出、やうやく白んで来た空を仰ぎながら、そ の「仕事」に出かけた彼を想像するのであつた。
――それは三畳に足らぬ部屋であつた。押入はなく、埃で白い二三の風呂敷包、バス ケット、土釜、鍋鉢の炊事道具の類、それに小さな置鏡、化粧水の瓶なぞが棚を吊つて 載せられてあり、壁にはりつけられ、一方の隅の破れてゐる新聞附録ものらしい美人画 は、彼ら兄弟の扮装のモデルであらう。
彼らと|雖《いへど》も労働者の子供たちであつた。「田舎から来た鍛冶屋だす」と 、小説家の問ひに対して答へ、父親の働いてゐた日の出鋳物工場は今でもこの近くにあ るが、彼は早く|火傷《やけど》で倒れ、母親も白粉工場に永年つとめ、そのために中 毒を起して片手はまるきり動かぬ、と云ふ。――地方から都会に出て来た労働者が、す でにその二代目に於て、貧窮と不衛生と無知とによつて腐つて了ひ、かうした人間の破 産状態のうちに生活してゐるわけである。
朝になると、小説家は、もはや彼らと別れを告ぐべきであると思ひ、猫みたいに荒い 銀色のヒゲの二三本生えてゐる老婆の顔を見ながら、女装の男に、昨夜の部屋代の一部 を負担しようと申出た。すると、彼女は手を振り、口を押へて笑ひながら、 「それはもう、ちやんと、兄さんがお|寝《やす》みのうちに、もろときました」と、 云つた。ひよつとして、小説家がそのことに気が附かずに帰られては、と彼(女)は恐 れたのであらう。 「いくら抜いた」ときけば、「五十銭」と返事した。
母親は「御飯でも食べて行つとくなはれ」と、お世辞を云つたが、それは嘘であらう 。 雨はあがつた、しかし、陽の光は射さなかつた。――小説家は表へ出ると、昨夜の 出来事や、逢つた人々を思ひ出さうとしたのだが、何だか、ぼんやりとしか浮びあがら なかつた。電車の狭いガード下で、そこは誰彼となしに小便すると見え、コンクリート は湿気で壊れ、白い|徽《かび》やうのものがひろがつてゐるが、烈しい臭気に彼も亦 、そのことに気がついて、小口貸金手軽に御用立てます、と云ふ広告を読みながら、排 泄するのであつた。そこを抜けると無料宿泊所があり、そのあたりには、午前中からも う夜の宿の心配をしなければならぬ浮浪者たちが、いつでも事務員が出て来て受附ける ならば、すぐ列を作つてならべるやうに支度をして――|蹲《うづくま》つて考へたり 、立話をわいわいやつてゐた。小説家は、そのあたりが|葱畑《ねぎばたけ》であつた 時のことを、思ひ出してゐた。――
それらの浮浪者相手に僅かの商売をする露店が立つてゐ――魚の骨や頭を、野菜の切 れ屑などと一しよに塩で煮込んだのやら――それは暖かさうに泡を立て、|灰汁《あく 》やうのものを鍋の表面に浮かべてゐたし、また、すし屋の|塵芥箱《ごみばこ》から 、集めて来たらしい、赤い|生薑《しょうが》の色がどぎつく染まつた種々雑多の形の |頽《くづ》れたすしやら――すべて、異臭を放ち、しかしその臭ひが宿なしたちには 誘惑である食べ物を一銭二銭で売つてゐるのである。それらにまじつて、古道具屋が二 三軒、店を――店と云ふならば、小さな薄べりを敷いて、庖丁、釘抜、茶碗、ズボン下 なぞをならべ、浮浪者の拾得物なぞも買入れてゐた。中には一昨年の運勢暦が講談の雑 誌と一しよに立てかけてあるのもあつた。さうした古道具屋の一軒では、主人が仔細ら しく老眼鏡をかけて、背の低い女が持つて来た風呂敷包を開いて、品物の値ぶみをはじ めたので、要もない浮浪者たちはその店先をかこんで、何や彼やと品物の批評をしたり 、おつさん、もつと出したれ、なぞと云つて、女は少し上気し、両掌を頬にあてるので あつた。――風呂敷の中からは、仏壇の掛軸やら、浮浪者はそれについては「こら、真 宗のもんには持つて来いや」と云つたが、道具屋はふんと鼻であしらひ、それから男物 の着物、さらし木綿の肌襦袢、軍手なぞが出、最後に、使ひかけの石鹸や褐色のハトロ ン紙の封筒が十枚ばかり出た時には、無一物の浮浪者たちも――「こんなもんまで売ら んならんとは、よくよくや」と、さすが|低声《こごゑ》で|囁《ささや》きあつたの である。家にあるもの、金になると思はれるもの残らず、総ざらへして、女は持つて来 たのであらう。――
彼女が金を受取つて帰ると、道具屋はもう一度、今の品物を一つ一つ手に取つて調べ てゐたが、満足して、それを、すぐ陳列するのであつた。それから、まだ立つてゐる小 説家の方を、めがね越しに見て、少し考へた後、 「その傘はもういらん、けふは天気になる、どや、買うたろか」と、云つた。小説家は 、この親爺がコーモリ傘だけを売れと云ひ、高歯の下駄のことについては言及しなかつ たことに、雨はあがつたが、このあたりの深い泥濘を顧て、苦笑せざるを得なかつた。 何か返事をしてやらうとした時に、ふいに、また彼を引張るものが――女であつたが、 煮込星の前まで連れて行くのであつた。――
見ると、それは大きな肩掛をし、片一方の眼のいやに小さな、|萎《しな》びた女で あつた。小声で――「兄さん、電車に乗りはりますやろ」と云ふのである。小説家は、 その質問の真意を捉へかね、横で煮込屋の釜の下の火にあたつてゐる宿なしたちがこち らを見てゐるのを意識しながら――「そりや、乗らんこともない」と云ふ風な返事をし た。と、その言葉の終らぬうちに、荒れた皮膚の女は、短い指の中に握つてゐた電車の 切符を、彼に押しつけて、六銭で買うとくなはれ、と云ふのであつた。 小説家はどうしたものかと思つたが、取りあへず、あすこの古道具屋に売つては如何 かと云ふ旨を彼女に伝へると、 「あいつら、無茶苦茶に値切りよりますがな」と云つて、きかなかつた。そこで、彼は 仕方なく十銭白銅を出すと、彼女は少しもぢもぢとして困つた様子であつたが、相手が 面倒臭くなつて、全部呉れはせぬか、と期待してゐるやうでもあつた。――だが邪魔者 が入つた――「両替したろか、赤銭やつたら、なんぼでもあるわ、重うてならん」と云 ふ声が―れいの煮込鍋の下に身体を暖め、時々いい気特にそこへ坐つたまま居眠してゐ た、髪の毛の薄い少年であつたが、腹巻の中から、新聞紙に包んだ銅貨を出すのである 。もちろん、彼は重いほど持合はせてゐるわけでもなかつた。
肩掛の女は六銭握ると、おほきにと礼を云ひ、考へて、少し離れた、屑のすし屋で買 物をし、小説家の方をちらと見てから、小走にガードのあちらへ、駈去るのであつた。 少年も亦、それを見送り、小説家の手に残つた、よれよれの市電切符を指して、 「ガゼビリめ、バス一枚でヤチギリやがつたな、――ほんまに不景気なはなしや」と、 説明するのであつた。 「ふむ」と、小説家は|咽喉《のど》をつまらせて、今の女の一生を思ひ、それから、 少年を――その顔は、|腫《は》れあがつて赤味を帯び、眼も細く、破れた着物の下に は|襯衣《シャツ》があるが身体中の|瘡蓋《かさぶた》のつぶれから出る血や膿にと ころどころ堅く皮膚にくつついてゐた、銅銭の紙包と一しよにボール紙を持つてゐて、 ――それには、この子は両親も身寄もなく、しかも遺伝の病気で困つてゐるからどうか めぐんでやつてほしい、と云ふ意味の文句が、同県人より、お客さま(!)と書き副へ て記されてあつたのを見ると、彼は繁華な通に出て号泣し、前に置いた箱の中へ、一銭 の喜捨を乞ふ少年にちがひなかつた。
彼は今の女に、不景気なと罵つた手前、自分が如何に景気がよいかを、誇り出すのであ つた。―― 「こなひだもなアイノリ(二円)になつた日があつたんやぞ――みんなオツチヨコチヨ イで、オケテしもたけどな」 オツチヨコチヨイとは、あすこで、ラツコの襟巻をし、金縁めがねをかけた冷い眼の 男が開いてゐるやうな、路上の賭博であると、彼はつけ加へた。 「へえ」と、小説家は感心してやらねばならなかつた。 「五十円もウネツテたまつたら、病院に入つてこまそと思ふんやけど」 「どこが病気や」 「どこが、悪いのかなア」と|他人事《ひとごと》のやうに少年は云ふと、 「ほんまに、はよ、治しときや、手おくれになつてしもたら、あかんさかいな」と、気 がよささうな煮込屋の主人は、横から忠告するのである。 「うん、さう思うてんねけどな」と、少年は、一銭ばくちで五十円を勝ち貯める日がな かなか来ぬことを考へてゐるやうな眼つきをし、それから――「おつさん、モヤ一本頼 む」と云ふと、「おいな」と、主人は胃散の大きな罐の中から、吸口をちやんとつけた バットを取出して、一銭で売つてやるのであつた。
小説家はその夜、難波で、新聞記者某氏に出逢ひ、釜ケ崎のはなしをすると、某氏は 先日もこんなことがあつた、と語るのであつた。――夜更けて、あすこの側にある警察 へ、女の行路病者が|担込《かつぎこ》まれて来た、医者に見せると重い肋膜で、すで に手おくれになつてゐ、遂に死亡して了つたが、その次の日、彼女を|扶《たす》けて 連れて来た男が来て、一度面会させてくれと云ふので、すでに、こと切れたと云ふと、 わつと男泣きに泣き、余りの愁嘆に、どうしてそんなに悲しむか怪しまれ、それでは何 か知合のものででもあつたかとの訊問に対して、実は、それは彼の女房であつた、と告 白したのである。彼は釜ケ崎の木賃宿に住んで磨き砂売りをやつてゐるが、もちろん、 稼ぎは思ふやうには行かず、それに女房が病気になつて寝て了ひ、日に日に重ることが 眼に見えつつも、施す手がなく医者も相手にしてくれず、瀕死の彼女は苦悶するし―― 遂に思ひ余つて、女房を行路病者にしたてたと云ふわけであつた。 新聞記者某氏は「ルンペンの夫は悲し、と云ふ物語や、どや、小説にならんか」と云 つた。 小説家は|狡猾《かうくわつ》に笑つて何とも答へず、家へ戻つたが、それと彼の昨 夜来の経験とを織りまぜ、小説に作りあげて見ようと、決心した。そこで、手許を探し て、市役所から出てゐる「大阪市不良住宅地区沿革」と云ふのを参考に読みはじめたの である。 ――現在の釜ケ崎密集地域も明治三十五年頃までは、僅かに紀州街道に沿うて、旅人 相手の八軒長屋が存在したるに過ぎない。 その後、東区の野田某氏が始めて、労働者向きの低廉なる住宅を建設して、労働者を 収容したるが、尚当時に於ても依然として、百軒足らずの一寒村に過ぎなかつた。 以後、大阪市の発展に伴ひて、下寺町広田町方面に巣食つてゐた細民は次第に追ひ出 されて南下し、安住の地を求め、期せずして、集団したるが、現在の釜ヶ崎にして、そ こに純長町細民部落を形成するに到り、下級労働者、|無頼《ぶらい》の徒、無職者は 激増し、街道筋に存在する木賃宿は各地より集まる各種の行商人遊芸人等の巣窟となり 、附近一帯の住民の生活に|甚《はなは》だしい悪影響を与へつつある。 児童の大半は就学せず、すでに就学せるものも、三四年の課程を終へれば登校せず、 金銭を賭して遊ぶ子供を所々に見受ける。 下水の施設なく不潔なること言語を絶するものがある。表側に於ては左程にも思はれ ぬとも、裏側に於ては、甚だしいものがある。上水の施設もないところ多く、井戸水を 使用してゐる。――云々。 (昭和八年三月)
[入力者注] {1}・・・・「二の字」「々」と同義 {2}・・・・「癇」の「月」の代わりに「日」