大阪市立更生相談所

前史

1945年3月14日
大阪大空襲のあと大阪駅構内に 大阪市 「戦時相談所」設置。その後、8月15日市民案内所、11月1日梅田厚生館となる。
基本計画に従い、国民学校等165ヶ所を罹災者収容所として開設、被災者28万9,358名を収容(注:ちなみに1ヶ所当たり約1,753名となる)。区役所および各ターミナル駅には罹災者相談所を設け、罹災証明書の発行等応急援護にあたった。(民生事業40年史)応急収容所に収容した戦災者も8日目には無縁故者2,980名を残し全員退所した。無縁故者は府と協力して滋賀県へ1,892名、奈良県へ1,088名を集団疎開させた。
1945年8月
大阪市 「戦時相談所」を「市民相談所」と改称
1946年1月 大阪駅市民案内所設置
(梅田厚生館前身)
1946年12月 「一時保護所」設置
昭和21年10月旧生活保護法の施行に伴って。(大阪駅構内高架下に開設、市民案内所を発展解消。住所もしくは居所なく、本市内において浮浪する者を一時収容保護するところ。保護期間は入所の日から5日以内を原則とした。一時保護所を鑑別機関として、浮浪者をそれぞれ適当な保護施設、病院等へ送致)「大阪市立一時保護所規則・昭和21年市規則119号」
1947年4月1日 大阪市収容保護委員会設置
「浮浪者の収容事業を適正円滑に遂行し、併せて収容保護事業の進展をはかるため」、収容施設の実務者、大阪市関係吏員その他を委員(委員長は社会部長)として設置。「(1)要保護者の鑑別及び収容所の決定に関する事項(2)被収容者の処遇の研究に関する事項(3)その他」について協議。(民生事業40年史)
1947年4月 浮浪児の収容は府の児童相談所が担当となる
(児童福祉法の施行により、浮浪児の収容は府の児童相談所がその衝に当たることになったが、なお、心中寸前の世帯や、夫に捨てられた母子世帯、家族の世話を受けない身体障害者等がぞくぞくと一時保護所につめかける状況であった。)
一時保護所(梅田厚生館)よりの施設送致数(昭和21年11月1日〜23年3月31日)
『左側の施設は児童収容施設。婦人施設は右側の朝光寮・成美寮であり、婦人厚生館・聖心隣保館・駒川ホーム・赤川ホームは母子寮である。老人施設悲田院に多数の児童が収容されているのは、異常な社会状態における福祉の柔軟な対応を示す例であろう。豊崎厚生寮・塩草勤労宿泊所・大阪自彊館・鴻和寮・青空の家は宿所提供施設であり、単身男性をそれぞれ多数収容している。弘済院は病院・老人施設・児童施設をもつ総合施設であり、長柄分院とあわせて 4,000人をこえる人々を収容している。浅香山病院・香里病院も多くの病人を収容している。ここに興味あるのは「北海道炭鉱」であり、当時エネルギー源であった石炭業に労務者が不足をつげており、大阪市では民生委員の代表をおくり、現地を視察し、その結果梅田厚生館からも 1,563人を送っているのである。』

1949年7月7日 一時保護所を梅田厚生館と改称


▲大阪市民生事業史1978年3月


大阪市戦災復興史」大阪市ホームページ(上の写真よりも後、昭和31年移転前と思われる。上の写真に見える看板のローマ字表記が、下の写真では無くなっているように見える)

1950年5月 長柄宿泊所の一部を長柄寮として開設

1955年12月 長柄宿泊所を民間団体に経営委託(委託先 大阪市民援護事業団)

1956年5月 大阪市立梅田厚生館大阪駅東側高架基礎補強工事のため近くの北区小深町11に移転

▲左写真は「大阪市民生事業史」。右写真は「民生事業40年史」。「大阪市民生事業史」にも同じ写真があるが、写真説明は、昭和31年移転梅田厚生館の内部となっている。

1956年5月 長柄宿泊所に長柄寮併設(定員160人 長柄寮は生活保護法による宿提施設)

梅田厚生館おける相談及び送致数の推移
『送致は21・22年に多く両年度で17,004人となっており、23年度からは半数となっている。これは引揚者、復員者、戦災者の問題は表面上ある程度解決したと理解できることをしめすものであろう。25年からはじまった朝鮮戦争によってこの数はさらに減ずるのであるが、戦争終結とともに不況時代に入って29年度には激増し、8,000人を超えている。
相談件数では21年22年ごろは送致件数をやや上まわっている程度であるが、 25年度と29年度では、収容保護以外の相談が多くなり、送致を行ったケースは 23年ごろから少なくなって、29年度に多くなっている。このことは 23年ごろから一応の戦災処理がなくなったことをしめすと考えられ、29年の送致の増加は不況によるものと推測される 』
『再保護ケース(2度以上保護を受けた人)は、昭和33年の9%が37年には38 %、40年末では50%をこえているのである。30年代における量的な安定と、30年代後半における再保護ケースの増加は、日常的な状況における大阪市を中心とした社会が生み出す脱落者層の実態を示すものであろう。』(336 頁)
『30年代になると大阪市の「浮浪者」はしだいに「釜ガ崎」に集中し、戦後いちはやく建てられた簡易旅館とこの周辺地区に建てられたかり小屋の居住者とともに、「スラム地区」を形成し、北の大阪駅周辺の整備とともに「浮浪者」対策の中心はこの南の「釜ガ崎」に移った。』
1960年9月 大阪・西成愛隣会結成
=関係諸団体が緊密な連携のもとに、地域住民の教養文化の向上及び福祉の増進を図るため隣保事業を積極的に行い、もって地域の環境浄化を図ることを目的として結成されたもので、当初市補助金30万円(35年度)。
1961年3月 西成愛隣会館竣工、事業開始
所在地=西成区甲岸町21の市民館に隣接した空地、木造2階建て、延100坪、第1愛隣会館(西成愛隣会館)を36年4月に建設した。この建物は生活指導室、婦人相談室、内職作業室、学習指導室、相談室、診療室など地域のニードを満たす機能を持った施設 建設経費 500万円)
1961年10月 西成愛隣会館西成保健所分室併設。20日より事業開始、西成区甲岸町21、同会館2階
(37年8月愛隣会館竣工に伴い同会館に移転)
1962年8月8日 愛隣会館竣工(当時西成愛隣会館との関係で第2愛隣会館とも称した)
事業開始=西成区東田町73-1 36年8月発生した「釜ヶ崎」事件後急激に高まった「地区改良、福祉対策拡充」の世論にこたえて設置したもので、地区における民生・衛生・教育などの各分野を総合した福祉センターの使命をもっている。主な設備は、西成保健所分室、相談室(婦人、戸籍、住民登録、防犯、生活保護、児童、更生保護)。西成警察署前の不就学児対策の「あいりん学園」を同会館の4,5階に移転、屋上は簡易運動場となる。
西成愛隣会館は愛隣会館付設授産場として再発足(生活及び学習指導の事業は、愛隣会館へ吸収)
開館式場会場の案内看板には「大阪市立愛隣寮」と「大阪市立愛隣会館」が併記されている。
間仕切り教室と屋上校庭。。。
1962年10月 愛隣会館に「ベビーセンター」設置
(運営主体は西成愛隣会。定員50人。保育料 月 1,600円)
1962年10月 馬渕生活館第1期工事竣工
(事業開始37.12 建設経費102,926,811円 浪速区馬渕・水崎両町のスラム街の環境改善と当該居住世帯の入居、更生施設として建設したもので、主な施設は、保育所、宿泊室、授産及び学習室がある。)

1962年10月 愛隣会館内に「あいりん貯蓄組合」業務開始=国民貯蓄組合法により設立(通称あいりん銀行

1962年12月 愛隣寮(37年7月9日「山田ビル」を買収)、改修終了し事業開始。市立愛隣寮(50.12.廃止)
=住宅に困窮する地区在住家族持ちの低所得者に宿所を提供し、自立更生をはかる。定員70世帯、買収及び改修費 53,832,777円 事業開始 昭37.12。1階に西成警察署東田町派出所、西成愛隣会生活指導員室(簡宿組合事務所=竣工した愛隣寮内に事務所を借用する件について再三交渉の結果8月1日付で大阪市より使用許可が出たので、同所に事務所を移転=簡宿組合20年の歩み)
1963年3月 愛隣会館「吉村資金」制度発足
=「吉村キタノ」氏の寄付金100万円を財源に、最高3口15,000円貸し付け、自立世帯更生資金(住宅の権利金・保証金・生業資金)に活用
1963年4月 愛隣会館ベビーセンター、同会館附設保育所として許可される
あいりん小中学校の独立(定員→ベビーセンター 30人、収容力→あいりん小中学校 160人)
1963年6月 馬渕生活館第2期工事竣工
(事業開始 38.8 建設経費 121,332,242円 浪速区馬渕・水崎両町の立ち退き、1期共 施設定員 342世帯
1966年2月 愛隣会館附設授産場跡を改修、あいりん保育園として発足
改修費 100万円 乳児 50人 運営主体は西成愛隣会。託児料給食費計100円(日) 徴収

1966年3月1日 大阪市立中央更生相談所設立
(旧梅田厚生館と更生施設豊崎寮、医療保護施設弘済院長柄分院を統合。大淀区長柄中通2-9へ移転)
1971年3月5日 中央更生相談所を愛隣地区に持って行く議論
【昭和46年2・3月定例会常任委員会(民生保健・通常予算)-03月05日】
 中央更生相談所にお見えになる相談者のほとんど7割から8割が、この地区の住民あるいは日雇い労働者である。ところが愛隣会館でそういうようにご相談になつても、措置権がない。そこで困つた人にはバス代をやつて中央更生相談所まで行かす。−日常の生活相談を措置ができる、福祉事務所や、あるいは中央更生相談所までいかなくてもここで十分こなせる。そういう権限を与えたものをここにつくつてもらわないと、やつている職員もやりがいがないし、また地域住民のそういう市に対する要請に対して答えることができない。こういうふうに思うんですが、この際、民生当局はそういうふうに愛隣会館を新しく権限を与えて拡張する意思があるのかどうか(内村作二委員)
 中央更生相談所は私がご説明するまでもなく、梅田更生館の伝統を受け継ぎまして、無宿者に対する施策を実施しておるわけでございまして、ご指摘のとおり愛隣地区の関係が大体七割程度占めておるわけでございます。したがいまして、われわれのほうといたしましては、この中更相の機能の重点を愛隣の地区にもつてまいりたい。愛隣会館にこれは集結をしてまいりたいこう考えておるわけでございます。

1971年6月5日 大阪市立更生相談所条例公布 6月17日施行
 市立中央更生相談所附属病院廃止。市立更生相談所附設一時保護所診療所開設。大阪市立中央更生相談所条例(昭和40年大阪市条例第77号)廃止。「昭和58年度事業報告」記載の沿革では、次のように書かれています。
 「当相談所は、昭和46年8月、愛隣会館(西成区太子1丁目)と中央更生相談所(大淀区長柄西1丁目を統合して、あらたに大阪市立更生相談所として発足したもので、愛隣地区における住居のない要保護者の福祉に関する措置を行うほか、地域庄民の生活向上と環境の整備改善を図るとともに生活保護法に基づく更生施設である一時保護所 (大淀区長柄西1丁目)を付設している。さらに地区隣保事業の中心である西成市民館(西成区萩之茶屋)、自立更生を目的として家族を有する低所得者を対象に宿所を提供する今池生活館 (西成区天下茶屋北)、馬淵生活館(浪速区恵美須西)の各施設を所管している。」
。。

1971年7月 あいりん貯蓄組合業務を民友会に委託

1971年8月16日 愛隣会館と中央更生相談所を統合し、大阪市立更生相談所として事業開始

1972年1月 市立長柄宿泊所が市立中央更生相談所旧館跡に移転

1973年7月 市立更生相談所内3階に生活相談室開設

1974年2月 結核相談コーナー、西成保健所分室に開設

1974年4月 あいりん地区内生活道路清掃事業の実施(萩之茶屋福祉会に委託)

1976年2月 長柄寮の一部を更生施設大淀寮に変更

1979年9月 市立長柄宿泊所の事業を廃止
1979年10月 市立長柄寮が市立長柄宿泊所跡に移転
1992年9月21日 市更相生活窓口に並んだ111名が「貸し付け金」(2000〜1000円)受け取る
24日、貸付金約600名(2000円)。釜日労は貸付金でなく、失業対策の窓口設置、ドヤ券・食券を要求
1992年10月1日 第23次あいりん地区暴動。1日午前11時、市更相玄関閉鎖。
午後3時市更相職員退去。あいりん騒動発生(応急援護資金の貸付の取り扱いをきっかけとして)

1995年4月 更生相談所の土曜閉庁実施

仕事量変化と市更相相談件数・人口等の推移
注:「仕事」=西成労働福祉センター把握求人数。「相談」=市立更生相談所受付相談件数。「人口」=国勢調査による地区内人口。「大阪市」=大阪市建設雇用男子の数。「西成」=西成区建設雇用男子の数
 1975年と1990年を比較すると、仕事量は1,55,1652人分増加しています。仕事量が大きく伸びていますので、相談数は、4,463 件減少しています。増加率は、511.7%で、減少率は16.2%です。地区人口の増加率は、16.6%、大阪市の増加率は、13.8 %、西成区の増加率は、114.9%(地区人口はすべて建設業男子の数字ではないのですが、95年までは生活保護世帯もそう急増していないので、今はこの数字で比較します。地区建設業雇用は1990 年14,559人、1995年10,035人。減少幅は、西成区と同じ)。バブル期の仕事増に対応して、地区人口も増えているのですが、あいりん地域外の西成区で仕事増に対応したと考えるのが妥当なようです。
 バブル後の変化が重要です。仕事は減少し、相談件数も減少します。地区人口も減少しほぼ1975年の数字に近くなります。西成区建設雇用者男子も減少しますが、 1975年の数字よりは高いままです。大阪市建設雇用者男子は1990年よりも増加しています。
 大阪市建設雇用者男子は、1990年では、西成区で増加した建設雇用者男子にほぼ見合う数字が増加したにすぎません。大阪市の増は西成区の増の反映と理解されます。しかし、 1995年には、西成区で減少しているにもかかわらず、大阪市では増加しています。これは、あいりん地区で把握される仕事量が落ちているにもかかわらず、西成区以外の区では建設雇用者男子が増加していることを示します。西成区の減少数は 4,152人です(地区人口の減少は3,102人)が、大阪市の増加は、1,785人ですから、単純に「西成区の簡宿・アパートから、他区の飯場への移動」では説明できない現象のように思えます。
 バブル後の仕事減少期に、西成区の簡宿・アパートから、中高年の日雇労働者が路上に押し出されたが、それは、仕事量の減少の要因のほかに、西成区外での建設産業への新規参入労働力によって加速されたと見ることもできます。
1996年以降の市更相相談数の異変、地区人口の安定と微増は、あいりんの福祉体制に親和性を持つ層が地区外に増え、困窮時にあいりん地区を頼るようになったことが一つの要因ではなかろうか、と推測することもできるように思えます。
大阪市立更生相談所 生活保護申請に伴う敷金支給件数推移
敷金支給件数 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 1月 2月 3月 合計
2010年度 窓口 174 84 121 78 42 28 25 552
施設 37 28 25 31 26 21 19 187
合計 211 112 146 109 68 49 44 739
2009年度 窓口 193 220 307 321 191 171 256 143 211 106 116 108 2,343
施設 38 32 51 49 42 48 36 29 30 14 32 34 435
合計 231 252 358 370 233 219 292 172 241 120 148 142 2,778
2008年度 窓口 36 26 16 27 21 22 14 21 37 9 152 100 481
施設
合計

2011(平成23)年12月 あいりん銀行新規口座開設停止、平成24年3月31日から事業廃止を広報

▲西成区広報紙「にしなり我が町」No.187 12月号(2011年12月15日新聞各紙朝刊に折り込み配布)

2012年4月1日 大阪市立更生相談所一時保護所廃止。指定管理に移行。みおつくし福祉会(大淀寮)の運営となる。
名称としての一時保護所は無くなり、「大淀寮」に統一された。
【 平成23年9月、9・10月定例会常任委員会(民生保健)-0926日−01号 】壺阪健康福祉局長 次に、大阪市立更生相談所条例の一部を改正する条例案についてでございますが、大阪市立更生相談所一時保護所は、あいりん地域の環境の変化に伴い、あいりん地域の要保護者に限定した受け入れをする更生相談所の附属施設としての社会的役割を一定終えたものと考え、平成23年度末をもって本施設を廃止するために条例の一部を改正するものでございます。

 ◇大阪市立更生相談所条例の一部を改正する条例1更生相談所の一時保護所を廃止することにしました。2この条例は、平成24年4月1日から施行することにしました。(平成23年大阪市条例第51 号健康福祉局生活福祉部保護課)
大阪市立更生相談所規則を廃止する規則    
大阪市立更生相談所規則(昭和46年大阪市規則第110号)は、廃止する。