長町関連年表

①先ず第一に、『労働調査報告 第36 (密住地区居住者の労働と生活)』中「調査地沿革」1925(大正14)年=参考:1=を年表化しました。
②それに、『大阪市史』(1913・大正2年)から関連情報を付け加えました。
③『大阪市史』を参考に、『触・達』も付け加えていますが、漢字や送り仮名などがいい加減です。要注意。
④今後、更に情報を付け加えていきます。上記は、2024年5月26日現在の前書きです。

1615(元和元)年 東町奉行 久貝因幡守 旅籠許可 (参考1)

南海道入り口 長町        10株(瓢屋・分銅屋・傳法屋・河内屋・大師屋・若江屋・坂井屋・伏見屋・輪違屋・鍵屋)

東海道入り口 片町八軒屋    8株

西街道入り口 曾根崎新地    5株  計23

大阪市史 第1巻(第3期 天明元年より嘉永6年に至る)481

旅籠屋株は相生東町に12株、曾根崎新地に5株あり。長町7丁目、8丁目の10株、八軒屋の11株も古くよりありしなるべし、確定せる支配人無し

1666(寛文6)年 町奉行石丸定次 道頓堀宗右衛門町、同立慶町及び長町に木賃宿合計106軒を許可

1666(寛文6)年128日新町遊廓から失火、2日間で1428,527軒を焼失、全市の四分の一を焦土と化した。よって、貧民をして雨露を凌ぎ正業に就かせると同時に取締りをさせるため。=参考:1

大阪市史 第1巻 374

(寛文六年)十二月八日新町遊廓の出火は、同日戌刻より翌日巳刻に及び、百四十二町八千五百二十七軒を焼失し、殆ど全市の四分の一を焦土たらしめ、市民の窮厄甚しかりき、-略-

石丸定次在職中道頓堀宗右衛門町同立慶町・及長町壹貳丁目に木賃宿合計百六軒を許可し、貧者をして容易に雨露を凌ぎ、正業に就くを得せしめたるは、其功長く没すべからざるなり。(御触及口達=明暦3年、徳川実記、大坂再興之事、日本災異志、徳川禁令考、比田氏諸留)

元禄年間(16881703年) 三郷町筋の最も長きもの七條

大阪市史 第1巻 906
地方役手鑑に元禄年間に於ける三郷町筋の最も長きもの七條を挙ぐ。即ち左の如し。
1)谷町筋 南北4428間余  
2)天神橋筋 南北5943間余
3)堺筋 南北3425間余 北は北浜1丁目より南は長町9丁目まで、但し橋共
4)京橋筋 東西 4010間余  
5)高麗橋筋 東西2942間余
6)南久宝寺町筋 東西 362間余   
7)天満濱側筋 東西5149間余
1655年 1662年 1680年 1693年 1792年
明暦元年 寛文2年 元禄6年 延宝8年 寛政4年
長町(?) 長町1丁目 日本橋1丁目
長町新助町 長町2丁目 日本橋2丁目
長町甚左衛門町 長町3丁目 日本橋3丁目
長町嘉右衛門町 長町4丁目 日本橋4丁目
長町毛革屋町 長町5丁目 日本橋5丁目
谷町(?) 長町6丁目
尾張坂町(?) 長町7丁目
南笠屋町(清助町?) 長町8丁目
長町筋茂助町 長町9丁目
『南区志』20頁から作表。(?)は『大阪府全志』を参照した。
『南区志』1928(昭和3)年12月 大阪市南区役所水帳の書き改められた年を記録したものと説明されている。
大阪市史 第5巻 61頁 
『初発言上候帳面写』(宝暦3癸酉年9月識・右酉9月言上候扣(控)帳三郷の惣会所と有之)
1 往古と名替候町々の分其の訳相聞伝の儀
  北組
1 長町 新助町 甚左衛門町 喜左衛門町 毛皮屋町 谷町 尾張坂町 清助町(笠屋町とも唱え候) 茂助町  
  右九町 今 長町九町に成る

1732(享保17)年 始めて家請人仲間53名を許可し、判銭を徴して借家人身元引請業を営ましむ

大阪市史 第1巻 587
平民市内に借家せんと欲せば請人を要す。故に請人となるべき親戚故旧を当地に有せざる者は、家屋貸借は勿諭、家主より家明渡を命ぜらるるに当り、少からざる不便あり。
是に於て享保十七年正月、始めて家請人仲間五十三名を許可し、判銭を徴して借家人身元引請業を営ましめ、彼等は亀井町(東区平野町5丁目)に家請曾所を建て、惣名代一人を置き、家明渡に関する家主との交渉を掌り、
又天満助成地観音寺屋敷(北区木幡町)に表口四間裏行十八間半の引取小屋を建て、家明渡を命ぜられたる借家人、老年又は病者にして他に引取人無き者を収容せり。
凡そ家請人が請判を為すに当りては、豫め借家人の親族若くは知己をして下請に立たしめ、然る後、請判を捺すを習とせしが、家請会所設立後も亦此制を変ぜず、家主より借家明渡を請求し來れば、家請人立曾ひて家屋の引渡を為し、家賃の怠納を家主より請求せらるる時、之を弁償し、引取小屋に収容せし者を養育する等は、家請人の免るべからざる責任にして、借家人が家請人以外に親戚懇意の者を請人として家屋を借受くることも亦自由なりき。
大阪市史 第1巻 696

三郷並びに近郷近在より出でたる非人にして市中を徘徊するもの6,000人余

1733(享保18)年5月 極貧堀(新入堀川=難波新川)工事開始

大阪市史 第1巻 699頁 
物価騰貴の時に当り、市人の普請遊山を中止するは敢て怪むに足らずと雛も、かくては窮民糊口の途を絶つに等しければ、諸事平年の如く為すべしとは、幕府が三府に令せし所なり。
されば幕府は米を出して窮民を賑はすと共に、彼等に職業を輿へて自活せしめんと欲し、難波村に米蔵(今の南区難波蔵前町煙草専売所に当たる)を、長興寺村(豊能郡中豊島村大字長興寺)に鉄砲合薬蔵を建てたり。
(享保)十七年十一月、神谷久敬両地を見分し、米藏は大工頭山村與助の縄張にて、東西七十間南北百八十間の地に八棟を建て、翌年5月より道頓堀川より新藏に達する運河長さ四百四十三間半幅八間、船入堀二十間四方を穿ち、貧民をして土沙を運搬せしめ、即時に労銀を交付し、同十二月より此米藏に城米を出納することとなれり。運河は新入堀川、一に難波新川と呼び、極貧堀の異名あり、又鉄砲合薬藏は長さ六十間幅二十間の地に二棟を建て、

1744(延享元)年 長町が預地から町人請地に

幕府は大阪川部三郎兵衛、京都青木庄兵衛の願いを入れ、預地長町を同人等が任意に家屋敷を建設する事を許した。地子銀、長町12丁目は一坪につき25厘、9丁目は一坪につき1分を徴収=参考:1

1750(寛延3)年 「棄児」の取り扱い

大阪市史 第1巻 850
本期間棄児の多かりしは事実なり、是故に町中に於て出生あらば、必ず人別帳に記入すべしといひ、又夜番に令して、棄児を為せる者は勿論、挙動胡乱の者あらば直に捕縛すべし、油断して棄児を成さしめなば、夜番の無念なりとまで厳達したれども、物価騰貴世上不景氣の年柄に於ては、遂に全く之を絶つ能はざりき。棄児は何人にても之を貰受けんというものあれば、届出の上差図を受けしめ、養育中は病気の度毎に届出で、万一、十五歳以下にて病死せば検使を受け、検使以上無しと認めたる後埋葬するを得たり。(御触及口達=寛延3年・宝暦5年・安永3年)

1751(宝暦元)年 家明け渡しに当り 幼年子女を有せる極貧者を保護すべし

大阪市史 第1巻 846
生歿・移天・婚嫁・抱入を問はず、凡そ人口の増減に関するものは、其事ある毎に町人は直接年寄に、借家人は家主、又手代下人は主人の手を経て年寄に届出て、之を人別帳に記入すべき筈なるに、無断にて市内より他所へ移住するあり、
或は家請人が借家人を引取るに際し、引取証文の不完全なるが為、無宿の子女の街路に彷徨する者筈だ多かりき、
仍って令して曰わく、
家持・借家人・同居人を問はず、一旦当市内にて身上を持ちたる者、他所へ移住せんと欲せば、必ず年寄町人差添ひ、町奉行所に断出づべし、
家請人が借家人を引取り、更に之を下請人に引渡すに際しては、家内人員を調査して引取証文を取るべきに、単に証文を授受して人員を検せず、故に無宿の児童を生ず、是等は或は父母並び死して頼る所を失ひ、或いは夫死して妻生計に苦み、其子を放棄するに基づくと雖も、
要するに家明渡に際し、引取方の疎漏によるものなれば、自今制規を嚴守し.家主・家請人・下請人等協力して、幼年子女を有せる極貧者を保護すべしと。(御触及口達=宝暦元年・同12年・安永元年・同3年・同6年・天明3年・天明5年・天明6年)

1758(宝暦8)年 「新地」における家請業の認可

大阪市史 第1巻 846頁 
三郷家請人は当所五十三名ありしが、其後減じて四十六名となり、此の少数を以て多数借家人の身元を確実に調査せんこと、到底不可能なりければ、更に下請人を要することとなり、而も判賃は旧によりて家請人の手に之を収めたり。是に於てか家請業を競望する者続出し、或は下請無き者をも引請けて、借家人の便を計らんというあり、或いは著しく判賃を減じ、最初借請の節、表店三十文裏店二十文の判賃を徹し、爾後は毎節季表店八文裏店四文を徴せんというあり。在来の家請人等座視する能はず、自ら進んで判賃の軽減を出願し、表借屋十畳以上の分一年九十文、裏借屋九畳より六畳まで六十五文、同五畳以下四十文とし、以て渡世継続の許可を得たり。宝暦十年六月なり。
巳にして堀江川・江戸堀川・古川両岸新築地成るに及び、家請人仲間は是等新地に於ける家請業をも併せ掌らんことを請ひ、冥加として毎年銀五十枚を上らんといひ、是歳八月許可を得て請書を提出し、同八年十二月更に冥加銀十枚を増納せり。蓋し前記の新地に引績き、市内諸川の沿岸に成れる新地多く、是等新地に於ける家請業も、亦先例により彼等の掌る所となりしによるべし(御触及口達=宝暦9年・同10年、株仲間名前帳前書き)

1750(寛延3)年 「棄児」の取り扱い

大阪市史 第1巻 850
本期間棄児の多かりしは事実なり、是故に町中に於て出生あらば、必ず人別帳に記入すべしといひ、又夜番に令して、棄児を為せる者は勿論、挙動胡乱の者あらば直に捕縛すべし、油断して棄児を成さしめなば、夜番の無念なりとまで厳達したれども、物価騰貴世上不景氣の年柄に於ては、遂に全く之を絶つ能はざりき。棄児は何人にても之を貰受けんというものあれば、届出の上差図を受けしめ、養育中は病気の度毎に届出で、万一、十五歳以下にて病死せば検使を受け、検使以上無しと認めたる後埋葬するを得たり。(御触及口達=寛延3年・宝暦5年・安永3年)

1767(明和4)年 奉公人請状の空印を禁止

大阪市史 第1巻 849頁 
奉公人請状には必ず本人の宗旨を祀入する制なりしに、時として之を欠けるあり、奉公人請状其他賃金銀貸物類証文の連名中、婦女幼年者の氏名の下に、筆の軸又は有合の物を印形に代へて押し、或いは本人の印形を連判者中無判の者の氏名下に押すもあり、後証の為に取置く手形としては、不取締甚しければ、明和四年四月、令して之を禁じぬ。男女奉公人の斡旋を業とする者を口入といひ、三郷約五十名あり。口入は奉公人雇入の契約成りし際、乳母茶立女の類は主人及奉公人より各、給銀高の一割を徴し、半季極奉公人は其度毎に奉公人より銀三匁の口入料を徴せしといふ。(御触及口達=明和4年・同8年)

1773(安永2)年6月 行倒人の「高原小屋」収容を決める

大阪市史 第1巻 851
同じく非人と称ふと雖も、非人頭即ち長吏の配下に属するあり、又属せざるあり。
属せざる者は市中に往来して食を乞ひ、其数平時千一二百人に上れり。而して是等乞食の飢餓疾病によりて往来に行倒となる時は、其町々より非人頭に療養を依頼し、恢復するまでの費用を共町々にて負担す、故に乞食中富町を見掛けて故に行倒を装ひ、金銭を得ざれば立去らざるあり、町人の迷惑甚しかりき。
安永二年六月、官 月番惣年寄を召し、是等行倒人を高原小屋に収容し、小屋建築費・行倒人運搬費・敷筵代(一人二枚宛)及番人昼夜一人宛の賃銭を三郷の負担とし、粥代・薬代・油代を公儀より支弁せんとするを以て、町々の意見を聞糺し、可否の返答に及ぶべしと達したり。町中にては固より異議ある筈無ければ、悦んで之に応じ、八月より実施せしが、小屋は新に建築することを止め、在来の明小屋を充用せり、
然るに爾後十年を経て小屋は大破し、且つ番人も昼夜一人宛にては、食事用事等の節差支あれば、新に銀四貫八百九十五匁八分を以て小屋を作り、又番人を二人宛とし、毎一人賃銭百五十文を支給せられたき旨、長吏共より出願に及びたり。
仍って町奉行所は右建築費の支出及番人賃銭の徴収方につき、天明三年十一月、再び三郷町々に諮りしが、其結果明ならず。然れども翌月町々の間に従来官費を以て支弁せる粥代・薬代・油代の中へ、毎年銀三貫目を上納せんといへる内議ありしを、翌春に至り改めて粥代負担とし、一人一日銀四分五厘の割合を以て、員数及日数に応じ、行倒人ありし町々より一年二回に分ちて上納せんと、惣年寄に上申したる程なれば、非人小屋新築費も番人増加費も、容易に町々に於て承諾せしなるべし、
尤も手鑑に
「南瓦屋町続元瓦土取場の内に 有之 高原溜所 貳反九畝拾歩、右同断非人小屋 壱ケ所 貳反三畝、右同断壹ケ所 九畝貳拾八歩」とあれども、年代の記入無ければ確証と為し難し。(虫附損毛-留書、御触及口達=明和7年・安永2年・天明3年・同4年、手鑑)
参考:大阪市史 第2巻 167
29)高原溜取締役 10名(同心) 高原溜は南河原屋町続元瓦土取場にあり、出獄したる軽罪人病気にして引取手無き者を扶持す。(以上旧市制記、旧東組与力関根一郷氏談話、同心三宅榮親氏談話)

1788(天明8) 「棄児の弊と非人の跋扈」の件

大阪市史 第2巻 3738
棄児の弊と非人の跋扈とは依然として止まず、天明八年九月の町触に、「近来別して町々に捨子多有之」といひ、寛政二年十二月の口達に、「去月中捨子数多有之」といひ、町々夜番に命じ、特に監視を厳にせしめたり、
棄児は其の町中にて養育すべきこと、元禄年間既に規定する所なりしが、町中之を嫌ひ、棄児ありし場所の家持町人一人をして養育せしむるもの多く、貧民之に乗じ、富有なる町人の宅前に放棄するに至れり。
仍って棄児養育法を定め、縦令己人の宅前若くは路次内に捨てられたる者と雖も、町中一統より養育を加へ、取扱方は甚だしく鄭重なるを要せず、餓寒に迫らざる範囲に於て衣食を給与し、
引取りて養育せんと謂う者あらば、穢多非人を問はず、町奉行所に届出の上之に応じ、棄児十歳以下にて死亡したる時は、養育者より、又一且引取りたる棄児、十歳以下にて更に他に引取人出来したる時は、前後の引取人より町奉行所に届出づべしとせり。
又町家に於て吉凶・宿替・年回法事等あるに際し、多数の非人其家につき、金銭酒食の施与を強請し、施物少ければ悪口罵言至らざる無く、又小児の宮参髪置等にて神社寺院に参詣せんとする時、途中に一行を要して銭を強請すること、不届至極なれば、見当次第捕縛すべし、
是等は畢竟町々に雇置ける垣外番の取計方不行届によるものなるを以て、其頭領たる長吏を戎飭したり、但し、非人多勢にて一人の坦外番の力に及ばざる場合は、町共助力して非人を追払ふベく、若し抵抗に及ばば捕縛の上月番奉行所に訴出づべしと令したり。(御触及口達=天明8年・寛政2年・同4年)
参考:大阪市史 第2巻 162
26)定町廻方四名 東西定町廻方四名は、一名毎に同心一人並びに長吏下小頭等を具し、昼間三時許、夜間二時許、刻限を定めず、三郷其外町続村々寺社法会は勿論、都て群集せる場所を巡廻し、叉失火の時は現場附近を巡廻し、盗賊或いは挙動胡乱なる者を発見次第捕縛す。捕縛の上其の所の年寄町人より役所に召連れしむるもあり、或いは直に役所に引立つるもあり、
毎年二月廿二日の四天王寺聖霊会、四月十七日九月十七日の川崎御宮神事、六月の諸社神事には、両組立會の上、下役同心を増加して取締に任じ、又寛政十年六月、練物太鼓等を役所に集めて見分することを廃してより、町々に於ける衣裳・飾事・幟地等の制令に違背するや否やを視察することも、亦定町廻方の職務の一となれり(定町廻り方勤書)
参考:大阪市史 第2巻 171
城内又は町奉行所附の者と称し、或いは無銭にて酒肴を呼び、芝居を見物し、或は市民を脅迫して金銭を強請すること、依然として存し、渾名を毛六と称せる仲間輩の銭緡押売が、町家にとりて迷惑なるは言う迄も無く、
又組与力同心の手先と為りて、之に随行せる役木戸・長吏・小頭等の跋扈に至りては、其弊殆ど堪ふベからざるものあり。官令して是等軽輩の不法を禁じ、手先と称し、与力同心に伴はずして猥りに通行人の懐中物を検査するか、或いは城内町奉行所附の者と称し、無銭にて飲食見物する者あらば、猶予無く告訴すべし、
後難を恐れて不問に附するは、悪徒を増長せしむるに等しといへること、文化文政間十回に殆し、而も不法は独り仲間手先に止らず、与力同心も亦出役先に於て例の如く謝銀を受納し、酒肴茶菓の饗応に与れり、
文政十二年三月、東組与力吟味役大塩平八郎、西組与力地力役弓削新右衛門の私曲を発き、薄りて自殺せしめ、又天満長吏作兵衛・鳶田長吏久右衛門・千日長吏吉五郎を死刑に処し、其の臓する所の三千金を散じて窮民に賑恤せしは、頗る著名なる事件なるも、今其の内容を詳にする能はず。平八郎自ら記して、「歴世之官司 非不知之、蓋  有所 怖且憚而遁乏歟」とあれば、町奉行と雛も容湯に新右衛門等の専横を制御し得ざりしが如し(御触及口達=寛政9年・同11年・享和元年・文化2年。同4年・同6年・同7年・同9年・同11年・同14年・文政2年・同4年・同11年・天保2年・同7年)
201
町家の吉凶に際し非人乞食の金銭を強請するは甚だ厭ふべし、
是等は習性となりて、今更正業に復帰し難き輩なれども、世には老衰して子無きあり、幼少にて親に離れたるあり、扶養すべき子孫多くして、努力すれども支へ無く、又之を助くる親類縁者も無く、止むを得ずして他人の愛憐を侍つ者無しとせず、
文政十二年十月、東町奉行高井實徳(山城守、文政311月 彦坂和泉守紹芳に代わる)演説書を以て旨を町々に伝え、
前記の如き不幸なる良民に対し、相当の手当救助を与へんとするを以て、調査上申すべしといひ、其の後一再ならず之を促せり。御触書之留に右演説書は、東御奉行より被仰出候て大塩氏(平八郎)掛かりとあり、平八郎が弓削新右衛門及長吏等を糾察し、其臓金三千両を没収したることの是歳なるより推せば、之を以て不幸の良民賑恤の資に充てしなるべし

1789(寛政元)年 家請人への礼金を制限し、家請人の「機能」を明確化

大阪市史 第2巻 34
 三郷家請人に身元引請を依頼したる借家人は、一年五回の判賃の外、家主家守の変動する毎に、之に祝儀袋を贈進するを要し、少からざる苦痛なりしかば、官三郷家請人三十七名を召して、其の減額を計らしめ、表借家は毎節季三文宛一年十五文を、裏借家は毎節季六文宛一年三十文を減し、又家主家守に祝儀袋を贈るを廃し、最初借受の時に限り、制規の如き祝儀袋を受くるを許し、寛政元年十月より実施せしめたり。
而して是等借家人に対し、家主より家明け渡しを欲する時は、家請会所に交渉し、家請人組合の者立会にて速に明渡を行ひ、借家人を引き取るを通則とし、若し借家人不法我が儘にして之を拒絶する時は、家主より家明追願を町奉行所に提出するものとす、
然るに家主より追願を出すは少く、概ね家請惣名代より数口を一紙に認めて追願し、家請人にとりては各自出庭の手数を省けるを以て便利なるも、家主及借家人の迷惑少からず、
抑、家請人は借家人が家明願を請けざるは勿論、町内の迷惑を生ぜざらしめんが為に設けたるものなるに、惣名代より追願を出すが如きは、家請人設立の本旨に違背すといふべし、
是を以て同八年十月令して家請惣名代の追願を禁じ、自今家主家明渡を欲する時は、家請会所に申し入れ二十日以内に明渡すべしとの差紙を会所より請取り、限日に至り尚解決せずんば、差紙を証拠として家主より出訴すべし、
若し家請人組合の者、借家人に明渡を迫り、借家人之を肯ぜずんば、同じく奉行所に出訴すべく、差紙の日限を加へ、都合百日以内に立退かずんば、直に借家人を捕縛入牢せしめ、入牢中の牢扶持は家請人組合より差出さしむべし、
家主家明追願を等閑にし、借家人借銀の目安を請くるに及び、家明届中なりと称し、願人と相争うこと稀なりとせず、
今度前文の如く規定したるを以て、追願を怠る勿れ、若し二十日の期限を過ぐるも追願を出さずして、他より借銀滞出人願あらば、家明の分を中止し、右出入訴状を受理すべし、
又借家人に於ても家明を延引すること無く、一己の不所存によりて無宿となり、妻子を路頭に迷はすが如き振舞あるべからずといへり。(御触及口達=寛政元年・同8年、株仲間名前帳前書)

1792(寛政4)年 長町一~五丁目が日本橋一~五丁目となる(『南区志』)

1794(寛政6)年 奉公人金品横領の処理の確認

大阪市史 第2巻 36
奉公人主家手元の金品を拐帯せる者は、金十両以上死罪、十両以下は入墨敲に、又使先掛先の金品を取逃したる者は、金一両以上死罪、一両以下は入墨敲に処せしが、入牢中敢逃の金品を償却するに於ては、主人の出願により、大阪三郷所払いに処するに過ぎざりき。然るに主家にては自家より重罪人を出すを快しとせず、拐帯者親戚より弁償したりと称して宥恕願を出し、其実或いは一部の弁償に止り、或は単に返済証文を徴するに過ぎざるあり、恩恵に過ぎて懲罰の意を失い、併せて公儀を詐るに当れば、宥恕願は軽々しく差出すべきにあらずとし、寛政六年七月其の旨を三郷に伝へ、今後右願を差出すに方りては、当番所に於て全部弁償したるや否やを糺し、猶風聞を聞取りたる上、聴許の沙汰に及ぶべし、万一弁償せざるを弁償したりと言うに於ては、主人雇主の越度たる間、この旨を会得すべしといへり。(科條類典、御触及口達=寛政6年)

1795(寛政7)年 奉公人出替期、年1回にもどす

大阪市史 第2巻 35
男女奉公人の出替期は、寛文十一年の触書により、三月五日に限りしを、元禄八年に至り、三月五日九月十日の二回に定めたり、但し、当時は人情実体にして、仮令判季の定なりとも、主從の礼儀正しく、季を重ねて奉公するを面目とせしに、近年は半季毎に出替るを恥とせず、仮に三月に住込むとせば、二三ヶ月間は其家の勝手に熟せず、漸く事に熟するに及べば、既に九月に近き、出替の心底あるを以て、奉公に丹念ならず、故に当世の人氣にては半季極は弊風助長の嫌いありとし、寛政七年2月、三月五日一回の旧制に復したり、然れども奉公人出替の頻繁なるは彼等をのみ責むべくもあらず、之が周旋を為せる口入は、出替わり毎に口入れ料を得るを以て、却て出替の頻繁なるを歓迎する傾向あり、殊に女奉公人の如きは、口入方に滞留中悪風に染む者多し、前期以来奉公人口入一手引請を出願する者数名に及び、皆差支ありて許可とならざりしが、現在の口入の弊害は官憲に於ても明に之を認識したりしかば、口入料の減額を命じ、又奉公人の風儀改善に尽力すべしと諭したり(御触及口達=寛政7年・同10年)

1797(寛政9)年 奉公人の請状・人別帳への書き加えの励行

大阪市史 第2巻 36
奉公人を召抱ふるには請状を取り、且つ速に人別帳に書加ふベきものなるに、諸職人の弟子奉公人並び手間取を抱入るるに方り、概ね此の手続きを踏まず、故に彼等は給銀前借りを申込み、承諾を与へざれば就業せず、主人をして巳むを得ず先貸を為さしめ、甚しきは給銀を前借したる後、病と称して休業し、他の同職に雇れて二重の給銀を貪る者あるも、主人より制裁を加ふるに由無し、此の弊仕入染形付紺屋職に最も多く、鍛冶屋・煙管地金職・建具職・箔職にも少からず行れたりとふ。弟子手間取の不埒言ふまでも無けれど、畢竟主人が定法に背けるの致す所なれば、自今必ず請状を取り、且つ早々人別帳に差加へ、万一不埒の輩あらば、町奉行所に訴出づべしと定めたり。(御触及口達=寛政9年)

1813(文化10)年  日雇の荷持駕籠舁きの無作法を戒め

大阪市史 第2巻 220
三郷町中及町続在領往還に於て、荷持駕籠舁き出づる無宿同前の輩、又は家業の助成として日雇に從事する者、当初約束の賃銭以外に増銭を強請するあり、梅田・千日・濱・霞原・小橋・鳶田の六墓所は、葬式ある毎に其家より送捨つる駕籠野道具等を受納するを例とせしに、駕籠舁共之を無視し、請無く駕籠を損ひ、晒布覆等を強奪し、卒塔婆墓印を蹂躙するあり、殊に葬儀を至急に行はんとするに乗じ、貸物を周旋して口銭を貪るり、又寺院の供廻にして不法嵩高の振舞に及ぶもありしかば、文化十年四月令して、固く彼等を戒めたり。

1831(天保2年) 御救浚及堤防増築を行ふの議

大阪市史 第2巻 422
町奉行所内に於ける調査は如何に進行せしやを明にする能はずと雖も、結局町奉行所貸付銀四朱利銀(貸付銀の種類を詳にせず、或いは欠所銀という)の内六百貫目を以て、御救浚及堤防増築を行ふの議を立て、御勘定方と打合の上、御勝手方勘定奉行に上申せしに、勢田川・宇治川・淀川を一時に浚渫すべく、且つ淀川の儀は町奉行手限にて取計ひ、費用は四朱利銀の中より支出すべしとの命ありき、

1837(天保8)年 細民飢餓に逼り、救助を要する者多し。仍って彼等をして船溜の開墾に従事せしめ

大阪市史 第2巻 430
市中船乗場より安治川を乗下れる小廻船、天候又は沖手風波により出帆し難き時は、海口に船掛を為すを得ずして乗戻りしを以て、其際往々難船覆没の変あり。
船方の者常に之に苦み、船溜所の開墾を希望するや切なり。曾々、天保八年米価騰貴して、細民飢餓に逼り、救助を要する者多し。仍って彼等をして船溜の開墾に従事せしめ、之に食物を与へなば、一挙両得なりとし、位置を目印山の上手附洲葭生場の内に定め、六月中旬より開墾に着手し.老若男女を問はず砂持に出づる者には、一日三回粥を給し、就役時間を早朝より九ッ時限とせり。此の如くにして長さ五十間幅四十間を有し、石垣堤を以て囲める船溜は高燈籠と同時に竣成の触書を見るに及べり(御触及口達=天保8年、手鑑)

1838(天保9)年 四ヶ所長吏・小頭・及役木戸への戒め

大阪市史 第2巻 551
四ヶ所長吏・小頭・及役木戸は一種の賤民なりと雖も、手先と称し、組与力同心の出役に伴ふを以て、威甚だ重く、常に市民の憂を為せり、天保九年六月官令して日く、
1)近年役筋手先と偽称し、鉄刀脇差を帯して町会所に至り、或いは代銭を支払はずして酒食を差出さしめ、或は猥に差紙を発して町人を会所に召喚し、不法の行為に及ぶ者ありと聞ゆ。差紙は同心出役の上差し出すべき筈なれば、手先の真偽如何を問はず、同心出役無きに、会所にて差紙を取次ぐべからず
2)時宜によゆ手先の者途中にて盗賊又は悪党を逮捕し、町会所に至りて同心の出役を待つことあるべしと雖も、一且捕縛したる者を、出役以前手先の独断にて釈放する筈無し
3)手先の者煮売屋等に立寄り、酒食したる上、同行せる掏摸に右酒飯代を支払はしむる者ありと聞ゆ、不埒千萬といふベし。
4)役木戸公儀の威を假りて金銀米銭を強請するとも、一切貪著すべからず。
5)四ケ所長吏配下の非人等、町家の古凶に際し、其家々より米銭の施興を受くる慣例ありと雖も、施物の多少は施主の勝手次第なれば、強いて其増加を乞ふことあるも、一切貪著すべからず、
若し是等諸項を犯す者あらば、月番非番を問はず、速に附近の奉行所に届出づべし、従来縷々此種の令を下すと雛も、嘗て訴出でたる者無きは、或は後日に報復せられんことを慮り、或いは吟味中役所に召喚せらるるを厭へるに因るなるべし、然れども市民が毎時金銭を出して、無事の解決を求むるによら、彼等益々増長して底止する所無く、度々の触書も全く無効に了れり、故に自今手先の者不埒の所業に及ばば、毫も斟酌する所無く即刻訴出づべし、萬一等閑の処置に及べること、後日に至り発覚すとも、当人は勿論所役人まで急度処罰すべしと。
反復細説頗る至れりと雖も、其の後尚役筋手先の跋扈並に非人の米銭強請を制する触書あるを以て見れば、其の弊依然として革らざりしなるべし。
又三郷端末並町続在方に於て、長吏配下の垣外番町六を番部屋の外町家に宿泊せしむるは、平人非人の区別を紊し、非人をして増長の勢を成さしむるものとし、且つ無宿非人の輩、町屋店頭に於いて、歌舞伎狂言類似の事を演じて金銭を請ふは、一には該家の営業を妨げ、一には風俗を害ふものとし、固く之を禁じぬ。(御触及口達=天保9年・同11年・同13年・同14年・弘化元年)

1842(天保13)年 人別改改正令

大阪市史 第2巻 545
都市人口の膨脹は市民の繁殖に由るよりも、地方人の流入に由ること多く、地方人の流入は町人の負担を増加すると共に、田園の荒蕪を来すを免れず、楽翁公の時既に陸奥外二国の御領私領中、荒地ある村々より奉公稼に出づべからずとの令あり。天保十四年三月、幕府人別改の制を布き、在方の者新に江戸人別に加るを禁じ、出稼を為さんとする諸職人は、其の筋より期限を附せる免許状を得ざるべからずとし、以て首大尾小の宿弊を矯めんとせり。
大阪に於ては同年閏九月本令を発布し、併せて取締細則を定めて曰く、
1)在方人民故郷を捨て、新に三郷並に兵庫西ノ宮に移住せんと欲する者あるも、之を人別に加ふベからず、現在借家人中一期住同様の者は帰郷せしむべし
2)在方の大工・左官・木挽・杣・其外諸職人出稼を為さんと欲する時は、期限を定め、村役人を経て代官所・領主・地頭に出願し、村役人の連印と代官所なれば手代、私領なれば其家臣の奥書捺印とある免許状を得て、之を持参し、右免許状によりて同居を許し、家屋を貸与し、其の免許状は家主之を保管し、期日に至り帰村せば返付すべし、出稼人の姓名身分は家持借家宗旨人別帳に登記せず、別に仮人別帳を作り之に登記し、毎年四月三郷は惣年寄、兵庫西ノ宮は名主庄屋の手を経て、月番町奉行所に提出すべし。奉公稼男女の出入之に準じ、免許状は主人にて保管返付し、下男の給料は一年二両二分乃至三両、下女は一両二分乃至二両たるべし。
3)市中に於ては毎月人別の増減を改め、町人借家人の印形を徴し、生死・家屋敷譲替・転宅・改印・僕婢同居人の出入等は一々之を記入すべし。凡て人別の出入は宗旨手形により迅速施行すべきものなるに、漫然棄てて顧みず、十月宗旨改総人数改書を呈するに当り、一時に改削を加ふるあ、支障少からざるを以て、自今毎町家主借家人仮人別帳を作り、生国・住所・菩提寺・年歳等に至るまで巨細記入し、出稼人仮人別帳と同じく提出せしめ、町年寄の保管にかかる本人別帳には、四月以後の異同を怠り無く注記せしむべし
4)三郷並びに兵庫西ノ宮住居の者出家せんと欲せば、本人に町役人村役人附添ひ、師僧の氏名・寺号・所在地・宗派を届出でて許可を請ふべし。廻国六部巡礼等に出づるに当り、従来菩提寺より出せる往来手形には、何地にて病死するも、其の地の慣例に従ひ、死体を処置し、別に通達に及ばざる旨を記せり。自今手形には廻国の年限を定め、及死去の節は必ず通達ありたき旨を明記し、町役人連印し、又之を人別帳に記入し、惣会所に上申し、期月に至り帰宅せざれば、再び惣會所に上申し、其の後数月を経ても音信無く「不 立帰 欠落」と認定せば、月番奉行所に届出づべしと。
天保七八年の凶作と兵火とによりて、一旦三十二萬二千人余に減じ爾後年々増加し、同十三年には三十五万人余となりたる三郷人口が、翌十四年十月の調査に、急に減じて三十三万二千人余となりしは、本令の結果なるべし(御触及口達=天保13年、嘉永2年、三郷並穢多村兵庫西ノ宮盬飽島人数高帳)

1851(嘉永4)年 「穢多」と「四民」との区別強調の触

大阪市史 第2巻 555
穢多は渡邊村の一廓に住し、天保嘉永年間男女合計四千数百人に及ぶ死罪・獄門・火炙り・磔等ある毎に其の雑役に任じ、叉非常の大火あれば消防に任じ、平素は太鼓の皮・雪踏・革鼻緒等、凡て皮革に関するものの製造販売叉は修繕を業とす、但し、下駄歯入業は別に其の人ありて、穢多のなし得る所にあらざるなり、
四民は穢多を目して人外とし、之と応対するをも避けたれば、彼等は勢に乗じ、履物類の売買修繕に不当の代銀を要請し、道路に職用の道具を散乱して通行の妨害を為し、煮売屋小酒屋に入りて飲食を恣(ほしいまま)にし、偶々之を詰る者あれば、罵詈雑言を以て之に応じ、甚だしきは町家に飼育せる犬猫を竊取撲殺し、悪徒を宿泊せしめ、贓物売捌の周旋を為すあり。
嘉永四年十一月、官穢多村年寄に其取締を命じたる旨を三郷に告げ、若し町々に於て法外の所業に及べる穢多あらば、直に月番奉行所に出訴すべしといひ、次いで叉穢多に下駄の歯入を依頼するを戒め、平民穢多の身分を混同すること無からしめたり。(御触及口達=嘉永4年・同5年)

1859(安政 6)年 触書 長町四ヵ町木賃宿以外にて無宿空人別の者等為致止宿間敷事

当時長町に木賃宿30株があったが、それ以外に市中や端々町続在領の旅籠屋、奉公人口入、煮売渡世の者または旅籠屋仲間に加入せぬ小宿において無宿者を宿泊させるものが続出したので禁令を出した。

大阪市史2巻(下) 806
長町六・七・八・九丁目に木賃宿を許可したるは、独り旅人のみならず、身代を分散して無宿袖乞いとなり、或は日々市在に出でて日雇となり、荷物持となり、搗米屋・酒造屋・絞油屋の働人足となれる者等をして、些少の金銭を出し、容易に雨露を凌がしめん為なり。
而して是等無宿者中には盗賊悪党あらんも知るべからざるを以て、木賃宿は一方に其取締に任ぜしに、市中並びに端々町績在領旅籠屋・奉公人口入・煮売屋渡世の者、又は旅籠屋仲間に加らざる小宿に於て、無宿者を宿泊せしむるもの出でしかば、安政六年令して之を禁じ、向後犯す者あらば厳重の処分に及ぶべしといへり。
然るに木賃宿を四ヶ町に限りては、搗米屋・酒造屋・絞油屋の所在により、働人足往復の労少からず、仍って四ヶ町木賃宿年行司の請願を容れ、働人足溜所を設けしが、未だ幾ならずして再び働人足溜所以外に無宿者を止宿せしめ、親請となりて三商に働人足を供給する者あるに至れり、之をほうひきといふ。
万延元年ほうひきの営業を禁じ、三商は長町足溜所以外の人足を使用すべからず、市在裏借屋等に座敷貸の名を以て、無宿者を置くこと固く制禁たる旨を公布せり。
而して三商中絞屋尤も能く此の命を奉ぜしが、搗米屋の多数と酒造屋とは、依然無宿空人別の者を長町以外より雇入れ、宿屋渡世の衰微を惹起すのみか、盗賊悪漢の取締にも差支へしを以て、文久二年再び戒飭を加ふる所ありたり。(御触及口達=安政6年。万延元年・文久2年)
大阪市史4巻(下) 2272
【触】6208  安政6己未年
三月九日、長町四ケ町木賃宿以外にて、無宿空人別の者等為致止宿間敷事、
長町六丁目・同所七丁目・同所八丁目・同所九丁目、右四ヶ町旅籠宿木賃宿之義、前々より旅人之宿致し候斗に無之、難渋人共身上相仕廻、可手寄方無之、無宿相成、野宿軸乞いたし、或いは日々市在に日雇働歩行荷物(持)、搗米屋・酒造屋・絞油屋等へ働に罷越候者共の類、雨露を爲凌候ため、右四ケ丁宿屋共に限、聊の宿賃取之、差泊遣候仕来に付ては、盗賊悪党共取締方の義も、右宿屋共へ追々厳重申渡置候趣有之処、近来市中・並端々・町続在領旅籠屋共の内は勿論、奉公人口入煮売屋渡世の者、叉は小宿等と唱、旅籠屋仲間にも不加者共方にも、無宿空人別者等を、長町四ケ丁宿屋同様の振合を以、猥に為致止宿候者不少由相聞、自然盗賊悪党共身を忍び候手寄に相成、一体に取締方並に風俗にも拘わり、以ての外の事に付、早々相改、以来右体の者等為致止宿申問敷候、若又此後も右申渡不相用、長町四ケ丁宿屋共同様の稼方致候者相聞候はば、吟味の上急度可令沙汰候間、聊心得違無之様可致候、
右の通三郷町中可触知者也  (触 6269を見よ)
未三(次の令と共に、端書に329日 御触となり、)
山城 佐渡(御触書承知印形帳)

1860(万延元)年 触書 「ほうひき」の営業禁止、三商は長町足溜所以外の人足を使用禁止、市在裏借屋等に座敷貸の名で無宿者を泊めることの禁止

木賃宿を長町69丁の四ヵ丁に限ると、搗米屋、絞油屋、酒造屋の所在によっては力役人往復も労が少なくなかったので、四ヵ丁木賃宿年行事の請願を容れ、力役人足溜所を設けたが、程なくそれ以外に無宿者を止宿させ、親請となって三商に力役人を供給するもの(「ほうひき」という)が増えてきたので禁令が出された。=参考:11862(文久2)年にも同じものが出されている。

大阪市史 第2巻 806
長町六・七・八・九丁目に木賃宿を許可したるは、独り旅人のみならず、身代を分散して無宿袖乞いとなり、或は日々市在に出でて日雇となり、荷物持となり、搗米屋・酒造屋・絞油屋の働人足となれる者等をして、些少の金銭を出し、容易に雨露を凌がしめん為なり。
而して是等無宿者中には盗賊悪党あらんも知るべからざるを以て、木賃宿は一方に其取締に任ぜしに、市中並びに端々町績在領旅籠屋・奉公人口入・煮売屋渡世の者、又は旅籠屋仲間に加らざる小宿に於て、無宿者を宿泊せしむるもの出でしかば、安政六年令して之を禁じ、向後犯す者あらば厳重の処分に及ぶべしといへり。
然るに木賃宿を四ヶ町に限りては、搗米屋・酒造屋・絞油屋の所在により、働人足往復の労少からず、仍って四ヶ町木賃宿年行司の請願を容れ、働人足溜所を設けしが、未だ幾ならずして再び働人足溜所以外に無宿者を止宿せしめ、親請となりて三商に働人足を供給する者あるに至れり、之をほうひきといふ。
万延元年ほうひきの営業を禁じ、三商は長町足溜所以外の人足を使用すべからず、市在裏借屋等に座敷貸の名を以て、無宿者を置くこと固く制禁たる旨を公布せり。
而して三商中絞屋尤も能く此の命を奉ぜしが、搗米屋の多数と酒造屋とは、依然無宿空人別の者を長町以外より雇入れ、宿屋渡世の衰微を惹起すのみか、盗賊悪漢の取締にも差支へしを以て、文久二年再び戒飭を加ふる所ありたり。(御触及口達=安政6年。万延元年・文久2年)
大阪市史4巻 2305
(触 6269) 万延元庚申年
 閏三月廿一日 働人足溜の外にて、無宿空人別の者取扱申間敷事
右の通去未年二月相触(触 6208を見よ)其後右宿屋年行司依願、前書搗米屋・酒造屋・絞油屋方へ、日雇働の者稼先の方角に寄手遠にて、日々急入用叉は急病代り雇入等無手支(多悪)、稼方方角にて働人足溜所の義さし免候処、右触面の趣忘却の者も有之哉、近頃ホウヒキと唱え、無宿空人別の者引込為致止宿、親受等に相成、右三商売人方へ奉公に差遣、宿料判代等取之、ヌは裏借屋等に座敷借の姿にて、無人別の者差置き、右働いたし候者も有之哉にて、無宿空人別の者致散乱候ては、宿屋仲間に致止宿、働候者共凌ぎ方差支、其の上万一悪党者入紛候ては、兼て右宿屋共へ申渡置候取締りにも拘わり、以の外の事に、猥りに無宿者を引込、宿料判代等取之、奉公に差遣候義は勿論、右足溜所の外にて、無宿室人別の者取扱申間敷候、右三商売人方にても、全在町人別有之者雇入候義は無子()細候へ共、長町足溜所の外より無宿空人別の者雇入間敷候、尤市在裏借屋等に座敷借の姿にて、無人別の者差置候義は有之間敷筋に付、向後急度相改、前段触渡の趣無違失相守、猥りの所業決て致間敷候、若叉此後も右触渡を於相背は、吟味の上急度可令沙汰候、
右の趣三郷町中可触知者也(触 6375を見よ)

申閏三月(町中家持の承知判形日付は廿一日なり)

山城・佐渡        (御触書承知印形帳)

1861(文久元)年 長町より救小屋願い出る

大阪市史 第2巻 796
(文久元年)米価騰貴による苦痛は諸国一体なり、大都に赴かば、或いは衣食の途を得るあらんかと思惟して、近国近在より大阪に流入する無宿野非人甚だ多く、嘉永四年と同様の有様を呈し、老幼病者は飢渇に苦み、壮者は商家の店頭に集りて米銭を強請し、甚しきは窃盗を働くに歪れり。
長町四ケ町木賃宿等町奉行所に出願し、救小屋を建て、老幼病者を収容し、右宿屋に止宿せる無宿空人別の者を、搗米屋・酒造屋・絞油屋等に周旋せる口入世話料を以て、救助費に充てんと申出でたり。
官之を納れ、補助銀を下付して其の設立を助け、又町々に令し、行倒にも及ぶべき難渋人を見ば長町宿屋年行事に通じて引き渡さしめき。(御触及口達=文久元年)

1862(文久2)年 働人足溜の外にて、無宿空人別の者を雇入申間敷事

大阪市史 第4巻下 2389
(触 6375) 文久2壬戌年
 八月廿七日 働人足溜の外にて、無宿空人別の者を雇入申間敷事
長町六丁目・同所七丁・同所八丁目・同所九丁日、右四ケ所旅籠宿木賃宿の儀(中略)向後急度相改、前段触渡の趣無違失相守、猥之所業決て致間鋪旨、去々申年閏三月中尚又触渡置(触 6269を見よ)候後、絞油渥の義は右の次第相守、厳重取斗罷在、搗米屋の内にも同様厳重相心得、取斗候者も有之趣に候得共、右は纔斗(わずかばかり)にて、其の余の分並酒造屋抔者、今以無宿空人別のものを、長町四ケ所宿屋外より雇入、為働居候ものも有之由にて、前同様四ケ所宿屋方に止宿致し候同体の者働方者勿論、宿屋共渡世取続方差支、自然盗賊悪党とも取締方にも拘わり候趣相聞、重々如何の事に候條、早々相改、是迄触れ渡しの次第厳重可相守候、若し叉此後も相背候族相聞候はば、無用捨吟味の上、急度可申付候間、一統その旨を存、聊かも心得違い無之様可致候、
右の通三郷町中可触知もの也、
戌八月(年寄の副書日付は廿七日なり)
越前・壹岐   (御触帳)

1865(慶応2)年12月 玉造岡山町の御救場に窮民を収容

大阪市史 第2巻 953
(米価高騰)仍って玉造岡山町の小屋を御救場に充て、同月11日より窮民を収容したりしかば、町々有志諸仲間の内米金銭の差加を願出づる者多く、
大阪市史 第4巻下 2582
(達 2770) 慶応2寅年129
玉造岡山町於御小屋、御救場取建、難渋人共差置御救被遣候事
近来 米価其外未曾有なる高値にて、町々末々の者難渋の由 相聞候所、当年の儀諸国大風水損にて、新穀

1866(慶応3)年12月 玉造岡山町の御救小屋 米価下落につき閉鎖

大阪市史 第2巻 971
(米価・綿・酒など)安値を呈しき、是に於いて去年12月以来、玉造岡山町に開設せし御救小屋も、1020日限之を閉鎖し、収容中の窮民を旧居に立戻らしめ、町々有志諸仲間より義捐せる差加銀中より、取続手当として相当の銭を与え、更に其の残額を町中に下付し、今回の配分に与らざる貧民に適宜分与せしめたり。(御触及口達=慶応3年、近来年代記)
大阪市史 第4巻下 2625
(達 2801) 慶応3寅年113
玉造岡山町御救小屋の儀、当1020日限引き揚げ相成り候に付ては、町人共差加相願候銀銭残額は、右御救に相洩れ候難渋人共へ割渡し遣り候事

1867(慶応4)年7月達 旅人宿営業取締規則

類聚大阪府布達全書第1編-10・旅人宿営業取締規則(258頁)
難渋人木賃宿の儀は長町6丁目より9丁目までの宿屋に限る処 近来 市中にて無宿無人別の者共を止宿 為致候趣 以の外の儀に付 以来有様の儀 不相成 等の達
長町六丁目並同所七丁目八丁目九丁目 右四ヶ所旅籠宿木賃宿の儀は 前々より旅人の宿致し候計りに無之 難渋人共 身土相仕舞可手 寄方無之 無宿相成 野宿袖乞致し或は日々市在へ日雇働 歩行荷物 搗米屋 酒造屋 絞油屋等へ働に罷越候者共の類 雨露を凌候ため 右四ヶ所宿屋共に限 聊かの宿賃取 宿泊遣候仕来りに付ては 悪党共取締り方の儀も 右宿屋共へ其筋より 追々厳重申渡置候趣有之処 
近来 市中並端々町続在領旅籠屋共の内は勿論 奉公人 口入れ煮売屋渡世の者 又は小宿等と唱え 旅籠屋仲間にも不加者共方にて 無宿の空人別者等長町四ヶ所宿屋同様の振合を以 猥りに 爲致止宿候者 不少由相聞く 自然悪党共 身を忍び候手寄に相成 一体の取締方並風俗にも拘わり 以の外の事に付 早々相改め 以来右体の者等 為致止宿申間敷候 若し又此後も右申渡不相川 長町四ヶ所宿屋共同様の稼方 致候者相聞候はば 吟味の上 急度 可令沙汰候間 聊か心得違い無之様可致候
右之趣 三郷町中並町績在領迄 不洩様 可触れ知者也

1870(明治3)年2月達 木賃宿屋業は長町の外 不相成 及び 奉公人請判等に係る件

類聚大阪府布達全書第1編-10・旅人宿営業取締規則(259頁)

長町四丁に限 木賃一夜泊りの儀 差免有之候処 近頃本町並近在に於て右同様の渡世致し候者有之 取締に拘わり候間 以来 長町四丁の外にて右渡世致し候儀 差止候間 転商難相成者は 右四丁の内へ引越可 相営候萬一背く者有之候はば 其者は勿論 所役人迄も厳重の処置可致候
一當所へ奉公稼に罷出候 身元不慥(不確か)遠国の者等を ポン引 又は 金判と唱へ 渡世致侯者共儀 猥りに請判致し 礼金等請 奉公に爲 住込候趣相聞 取締に拘わり候間 自今停止申付候間 早々改業可致候 且奉公人相抱候者は右之趣相心得 身元篤と相糺し 遠国の者に候はば當地の身寄 懇意の者を請人に取可甲候 自然相背侯はば厳格の沙汰に可及侯
右之趣四組町中 無洩相達するもの也

1872(明治5)年 日本橋筋と改称=参考:1

1886(明治19)年 長屋建築規則発布=参考:1

1895(明治28)年 下寺町3丁目、云うところの「八十軒長屋」建築される=参考:1

1898(明治31)年 大阪府公報 明治31426日 号外

大阪府令第36
明治246月府令第36号宿屋取締規則左の通改正す
宿屋営業取締規則
1条 本則において宿屋営業と称するは旅人宿、下宿屋、木賃宿を云う
3條 営業者は同一家屋内に於いて貸座敷及雇人口入営業を兼ぬることを得ず
4章 木賃宿
32条 木賃宿は大阪市、堺市(並松町を除く)に於いて営業することを許さず
37条 従来大阪市及堺市(並松町を除く)において営業する木賃宿は其の営業主移動の際免許の効を失うべし

1902(明治35)年 天王寺に於ける内国勧業博覧会

1926(大正15)年1025日 府令第157号宿屋営業取締規則

1条 本令に於いて宿屋営業と称するは旅人宿、下宿屋、簡易宿を営業とするものを謂う
「木賃宿」の名称を「簡易宿」と改め、新市内に於ける営業許可地が定められる。(東成区中道町/西成区東入船町・西入船町/住吉区平野元町6丁目/東淀川区本庄町(中津川以北を除く)・南長柄町/西淀川区伝法町1丁目・2丁目・大和田町)。前記地域外に於いて簡易宿を営業しているものは、その用途に供する家屋の改築または大修繕を済ますまでは適用しない、と。
大阪府公報 大正151025
大阪府令157号 宿屋営業取締規則左の通定む
1条 本令に於いて宿屋営業と称するは旅人宿、下宿屋、簡易宿を営業とするものを謂う
4章 簡易宿
35条 大阪市、堺市、岸和田市に在りては左記区域の外簡易宿営業を許可せず
  1.大阪市の内
    東成区   中道町
    西成区   東入船町、西入船町
    住吉区   平野元町6丁目
    東淀川区  本庄町(中津川運河以北を除く)、南長柄町
    西淀川区  伝法町12丁目、大和田町
  2.堺市の内
     並松町・東湊町・舳松町
  3.岸和田市の内    並松町・下野町