花園公園(旧 四条ヶ辻公園)

 花園公園は、今宮中学校(現在は『いまみや小中一貫校』=今宮中学校・新今宮小学校)の南にある公園です。戦災復興事業の中で公園が整備されることになりましたが、いまだに諸処の事情により一般開放されていない公園です。
 この公園の歴史を辿ることは、居住問題を辿ることでもあります。行政的に一言で言えば『不法占拠』問題。
 1945(昭和20)年の敗戦後は、戦災で住むところを失った人々の住居が建ち、その「整理」が完全に片付かないままに、1970(昭和45)年からは、野宿を余儀なくされる人々のテント・仮小屋が存在するようになり、長く尾を引く事態となりました。

戦前、公園の場所は工場だった

 上の地図は、1940(昭和15)年7月付けの 「本市における密集地区調査」(大阪市社会部・社会部報告246号)に所収されている「釜ヶ崎地区」の地図です。地図の中に今宮第3尋常小学校とある場所が、もと萩之茶屋小学校の場所です。四恩学園とある場所が、大阪自彊館三徳寮のある場所です。
 南海鉄道本線をはさんで左側に見える「日本防水布工場」の北部分が「いまみや小中一貫校」、南部分が「花園公園」になります。
 「日本防水布工場」は、日本防水布株式会社の工場だったと思われます。
 朝日加工株式会社のホームページ(会社概況書・沿革)によると、1943(昭和18)年企業整備統合令により、朝日紡績株式会社(現敷島紡績株式会社)草津工場染色防水部・同社稲葉工場・日本防水布株式会社・寿染工株式会社・阪和染工株式会社の5工場が合併統合、朝日加工株式会社を設立。綿帆布染色防水加工の生産を開始したとあります。
 
1945(昭和20)年3月の大阪大空襲で釜ヶ崎とその周辺は焼け野原となりました。その様子は二つの航空写真を見比べるとよく分かります。

今宮中学校

 今宮中学校は、1947年(昭和22)年4月1日、大阪市立西成第2中学校として創立されましたが、弘治小学校の一部を借用し開校式を行い、今宮小学校内にも分校を開設していて、独立した校舎はありませんでした。1949(昭和24)年にようやく新校舎(現在地)に移転。まず、今宮小学校分校が廃止されて、大阪市立今宮中学校と改称。その後、増築校舎完成して弘治小分校も廃止されました。1948年米軍撮影空中写真時点では、今宮中学校は、整地中あるいは建設途中と思われ、定かには見定めることができません。

復興計画中の都市公園

 上は、1951(昭和26)年4月付けの「西成区政誌」所収の土地区画整理萩之茶屋工区地図。「都市計画公園」が4ヶ所示されているように見えます。南から三角公園(東萩町公園-萩之茶屋南公園)、四角公園(海道公園-萩之茶屋中公園)、花園公園(四条公園)。
 西入船町に小さな丸で示されているところがあります。一時、遊園地として使われていましたが、1961年から釜ヶ崎暴動が相次ぎ、計画が見直されて労働福祉センターが建設されることとなり、代わりに仏現寺公園(甲岸公園-萩之茶屋北公園)が造られました。
 都市公園の造成については、1945(昭和20)年1230日閣議決定された「戦災復興計画基本方針」で、緑地面積の目標が市街地面積の10%以上とされていたことに対応したものだと思われます。
 
 1953年(昭和28)の航空写真を見ると、今宮中学校の東、南海本線との間、現在は道路となっている所と、中学校の南、現在の花園公園の場所に家が建っているように見えます。その場所は、戦災復興計画では、公園や道路の予定地です。1942年の航空写真では、戦火で焼け野原となる前は住宅の密集していたことが見て取れます。その場所に、住宅が再建築されただけのように見えます。
 1953年の航空写真から10年たった1964(昭和39)年の住宅地図を見ても、今宮中学校の東側の路上にある町会や花園公園予定地にある町会を確認することができます。戦災復興の都市計画で予定されていた公園が、萩之茶屋小学校の北に整備途中ながら供用開始されていたことがわかります。
 『定点観測釜ヶ崎所収写真・1965年

緊急避難とバラック

 計画と異なる状態になったについては、当時の住宅不足対策としての緊急・臨時措置に原因があるとする考え方があります。
 一つに、1946(昭和21)年529日に公布された「臨時建築制限令」があります。料理店、劇場、映画館等、そして床面積が50㎡を超える住宅、店舗、事務所の新築、増改築を原則として禁止したものです。これにより1945(昭和20)年から1950(昭和25)年までの間に全国で200万戸以上の住宅が建築されましたが、この間にヤミ建築、粗悪建築が横行したとされています。
 今ひとつは「罹災都市借地借家臨時処理法」(昭和21827日法律13)。細かいことは省いて、一言で言えば、土地の所有者は、建物所有の目的で自ら使用する必要があるなど「正当の事由」がなければ、罹災建物借主による借地の申し出を拒絶できないとされ、いってみれば、「建てたもの勝ち」、この法律によりバラックが数多く建築され、都市の中心部に新たに借地が設定されることになったといわれています。認められた借地権は、基本10年、更新されると更に20年。一度建物が建つと整理するには時間がかかる事になったということのようです。
参考:一般財団法人 不動産適正取引推進機構-機関誌「RETIO20161月 100号「不動産政策史概論 4回 第4章 昭和戦後復興期の不動産政策明海大学不動産学部教授 周藤 利一(すとうとしかず)http://www.retio.or.jp/attach/archive/100-042.pdf
参考:スラムの形成とクリアランスからみた大阪市の戦前・戦後 水内俊雄 立命館大学人文科学研究所紀要 83号 2004年  http://www.kamamat.org/yomimono/ronbun/no83_02.pdf

新聞記事に見るバラック

 1960(昭和35)年29日~20日、 朝日新聞に大阪・柴田俊治記者の「大阪のどん底・釜ヶ崎に住んでみて」が連載されています。その中で西成区西入船町、東四条町の密集バラック地域」のことが書かれていますので、紹介しておきます。(写真は、上畑コレクションから)
 
 アベノ近鉄百貨店前から西へのびる舗装道路。南海本線が高架でこの道をまたぐ。ここで目をガードの真下に落とすとコンクリートの側壁にへばりつくように並んだ小屋、小屋・・・。犬小屋をやや大きくしたというか、牛小屋を半分に割ったというか、ひょこゆがんだ老朽バラックが折り重なるように連なっている。ガードの脚と脚のとの中には、小屋の上に小屋をのっけた二階建てもある
 ここ西成区西入船町、東四条町の密集バラック地域には約300軒の小屋、2,000人近い人たちが暮らしている―。
 日雇、立ちんぼ、拾い屋、モク拾い、クツみがき、ダ菓子屋、ワンタン屋・・・・。おかゆ、ぞうすい、イモ・・・戦争中の食生活が、ここではまだつづいている。
 窓がない。あっても小屋がくっつきあっているので昼でも電灯をつけねばならない。なかはまず三畳。たまに四畳半のがある。三畳といっても衣類を入れる小箱、ナベ、カマ、食器類などを置くと二畳しか残らない。ここに平均45人、最高7人の家族が住んでいるのである。
 水道が30軒か40軒にひとつしかない。夕飯前は戦争だ。
 これらの小屋は、ほとんどが不法建築である。市の道路予定地などへ勝手に建てたものだ。それではここに住んでいる人たちはみんな不法者か? 半分以上はレッキとした借家人なのである。家賃は日払い、三畳で100円から120円が相場。月にすると3,000円から3,600円。窓ひとつなし、電灯が二軒にひとつ、ベニヤ板の仕切りで隣の声まる聞こえちゅう小屋が3,600円。
 借家人の他は持ち家だが、建てた人から買ったのが多い。一軒が3万円とか4万円という。ただの市有地に、古材木とトタン板の寄せ集め小屋をたてて、貧しい人たちから住宅公団でも目をむく家賃をとっている家主。この一帯から浪速区の南部にかけて、小屋、アパートの持ち家三百余り、一日に家賃だけでも56万円ははいるだろうといわれる“貧乏町の大尽”が何人かいる。
 ジェーン台風の時だった。他の町には避難命令が伝達されたのに、ここへは来なかった。区役所はここを人間の住んでいる町とは認めていなかったのか。住民たちは怒った。そして町内会の組織をつくった。いまは番地ごとに(ひとつの番地に3040世帯ある)互助会とか宝会とかの町内会がある。
 さきの伊勢湾台風のときには、西入船町三番地の互助会で、1,620円の見舞金が集まった。家をなくしたときの悲惨さを身にしみて知っている人たちが、5円、10円と持ちよったのである。
 子どもは町内会で学校へ通わせるように世話をし、不就学児を出さない努力を積んでいる。ところが、いまガード下はひときわ暗い気分に包まれている。
 就職できない。学科試験は通ったのに、面接で落ちる。会社は理由をいわないが、親たちは家庭調査でここの住所がわかればダメなのだと信じている。げんに近くの有名な工場でも、この町の子は一人も採用されたことがないという。「あそこの子もあかん」不合格のニュースが次々つたわるたびに、卒業期をまえにした親たちはいらいらしだした。
 ガード下には空がない。空がないばかりか、家賃に締め上げられ、就職は断わられ、八方ふさがりだ。』

バラックの後にテント村

1971年12月31日 「日刊えつとう」掲載
四条ヶ辻公園に、図のような配置でテントが張られていた。(12月25日~1月4日)
これは釜ヶ崎越冬対策実行委員会が、釜ヶ崎の労働者で、年末年始に仕事がなくなることによりドヤ(宿)代にことかく人達の寝所とするために建てたもので、釜ヶ崎越冬対策実行委員会は、同公園で炊き出しも併せて行った。
テントを張っていた期間中、同公園には常時100人以上の人間が住んでいた。
よって、テント村と称する。
左記は、テント村を開くにあたって越冬対策実行委員会が打ち出した六つの目標である。

1.一人の仲間も殺させない
1.労働者同士のみんなの力で越冬をやりきる
1.応援に来た仲間は釜を真に理解する場にする
1.行政糾弾のため、苦しい冬の実情を記録する。
1.何よりも先ず、資本主義批判としてやる
1.新たな出発のため、今までの闘争を話し合う場にする


1972
(昭和47)年1225日~197314日釜ヶ崎越冬対策実行委員会のテント村(四条ヶ辻公園)1973129日「ヤジ馬」掲載
1973(昭和48)年14日大阪市役所に座り込み・あいりん地区の労働者(朝日新聞夕刊)
  民生局の話によると去年12月中旬、あいりん地区に釜ケ崎越冬対策実行委員会が生れ、5百万円の越冬資金、無宿者救護用の物資、宿泊所の整備、今宮中学校講堂の開放などを要求していた。

 しかし、市側は「無宿者の収容対策は大阪府・市で行う」と援助をことわり続けてきた。市では年末の29日から3日までに、自彊館、市立労働会館など4施設に計57人の無宿者を収容した。
 一方実行委員会側は、あいりん地区内の公園にテントを張り無宿者のたき出しなどを続けてきた。

公園の名称変更

197311月 西成区住居表示変更に伴ってあいりんの公園名称を変更
1)
萩之茶屋南公園(旧、東萩公園〔通称三角公園〕)
2)萩之茶屋中公園(旧、海道公園〔通称四角公園・炊き出し公園〕)
3)萩之茶屋北公園(旧、甲岸公園〔通称仏現寺公園・グランド公園〕)
4)花園公園(旧、四条公園)
 
 197312月上左写真の入り口右に「第四回越冬闘争実行委員会本部テント」とある。
1975(昭和50)年111日 「仕事なく凍る路上へ・日雇い宿泊所閉鎖・退去拒む2人逮捕」
 大阪市民生局は、無料宿泊所の期限が切れる11日朝大阪府警機動隊と関係各署の出動を求め、5ケ所の宿泊所を予定通り閉鎖した。
 この朝、天満臨時宿泊所では約30人の労働者がはち巻き姿で同玄関ホールに座り込み、「ワシらはこれからどうすればいいのだ。市に行けば府の労働部へ行けといい、府へ行けば国に言えというし…」と演説。
 しかし、退去時間の同9時には、府警機動隊と曽根崎署員が排除にかかり、外に押し出した。また屋上から垂れ幕を降ろし、マ・イクで呼びかけていた2人が、下りてきたところを建造物侵入現行犯で逮捕された。
 同市民生局ではこの朝、差し当たっての“生活の糧”として、労働者ひとりずつにカンパン1袋(5個入り)、即席めん1個、ハイライト2個、菓子パン3個、交通費百円を渡した。(朝日新聞)
1975122日 途方にくれる労働者・市・あいりん地区の“テント村”に退去通告・療養施設に入れぬ病人
 公園は地元の人が「年末年始に子どものたこあげをしたい」と先に借りていたが、地元と交渉して労働者が相乗りのかたちで借り、12日までは市公園局も黙認していた。
 テント村は4年前から年末年始につくられている。暮れの28日から街頭カンパなどで集めた金を資金に3食のたき出しをし、多いときは約200人がテントに入った。いま3つのテントにふとんが35人分ある。夜、深夜、未明に分け4時間交代で計百人が寝ている。
 市立更生相談所でも「ことし医療相談は1日平均百30人と、例年の3倍近い。市の療養施設(4カ所、約700分)は満員で、待ってもらっている状態だ」と頭をかかえている。(朝日新聞)
小杉邦夫 釜ヶ崎写真集「泰平の谷間の生と死」より
1975131日朝日新聞夕刊 「テントにバリケード・あいりん撤去めぐり緊迫」
 30日夜から301日朝にかけ、周囲約50メートルにベニヤ板、廃材などでバリケードを築いた。
 今月中旬以降、大阪市公園局から「公園の目的に反す」と2度にわたり退去通告が出されており、同テントの存続をめぐって緊張が高まっている。
 同越冬委は、東京・山谷地区の同様な公園内のテント村が30日強制撤去されたと知り、抗戦に出た。
 同夜、「テント村防衛決起集会」を開いたあと、労働者たちと公園の東側を中心に、立ち木や公園の遊具なども利用して高さ2メートルのバリケードを張りめぐらした。
1976227日 あいりん・テント村ついに撤去・抵抗の住民14人逮捕・機動隊出動させ代執行・2カ月ぶり
 大阪市は26日午後、テント村を行政代執行により2カ月ぶりに強制撤去した。しかし、労働者ら約80人がたてこもって抵抗したため大阪府警機動隊千百人が出動、投石などした14人を公務執行妨害などの現行犯で逮捕した。
 越年のためのテント村は今度で5回目だが、市が強制的に撤去したのは初めて。
 労働者と支援学生ら約80人は、赤いヘルメット姿でバリケード内にたてこもり、撤去作業に対して石や汚物をビニール袋に入れた「黄金爆弾」を投げて抵抗。
 強制撤去に伴い、同市はテント村内にいた病人4人を病院に収容、40人を同市更生相談所で受け付け、更生施設へのあっせんと宿泊代(千円)の支給などをした。
 同市が行政代執行に踏み切った理由①ー略ー②テント村から病人や死者が出ているにもかかわらず、収容の呼びかけにも協力的でないので、人命上このまま放置するのは適当でない③ー略ー

「抜本策なく追いたて」

 テント村が長引きそうになって市民生局は頭を抱えた。
 テント村を強制撤去した場合、住人をどこに収容するかー要保護者をあずかる更生施設は不況のせいで入所者が急増している。大阪市内4施設、定員7百人のところへ千人の超満員。
 あいりん地区に多い結核患者を収容してくれる病院も少ない。和歌山、京都の病院まで捜しまわっているのが実情。
 「今年の暮れは、もう公園は貸さない。再びこのようなテントはつくらせない。」代執行終了後、大阪市公園局管理部長は断言した。
 しかし、十分な施設と病床はあるのか。
 「更生施設は50年度に急いで2カ所を新設する計画ですが、場所や時期はまだ…」と市民生局福祉部長は口ごもった。
 就労対策となると民生局は大阪府労働部の責任範囲だと逃げ、府労働部の現在の対応も民生局から「とても満足のいくものでない」と批判されている有り様なのだ。
1975 CKK748(部分)-国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより
撮影年が「1975年となっているが、テント村が見えず、住宅は見えている。ひょっとして、74年か76年の記載間違いか??
1976(昭和51)年614日 機動隊つき撤去・あいりんの“無料休憩所”
 花園公園に釜ケ崎仕事保障闘争委員会が5月初めから開いていた労働者の“無料休憩所”を都市公園法違反の不法占用として作業員を動員して撤去した。大阪府警の機動隊ら3百人が警備ー略ーこれに対して仕事保障闘争委員会は約30人が休憩所の中にスクラムを組んで座り込み「強制立ち退きをゆるさないぞ」などとシュプレヒコール(朝日新聞夕刊)
1976年6月 大阪市、花園公園退去勧告。14日強制排除
 1976年616日 
 大阪市は「釜ケ崎仕事保障闘争委員会」の休憩所・食器などを撤去したが、この措置に反発する同闘争委は公園内に屋台を持ち込んで無料の食事提供を再開、15日も労働者の列が続いた。
 市公園局は再び撤去する構えだが、撤去作業はすでに6回。屋台での食事提供が再開されたのは、撤去作業から間もない14日午後1時半。他の場所で作った雑炊を同公園に持ち込んだ屋台の上で食器に盛り、従来通り朝、昼、夜の3食を提供。夜には野宿用のふとんを貸すなどしている。
 撤去で食事が中断したと思った人もあり、1415両日に食事を受けた人は以前よりも少なく、1回につき20人から30人。
 同闘争委では、去年12月から労働省・府・大阪市の3者に対し「特別公共事業・特別求人を出すなどして1カ月に14日の仕事を保障せよ」などと失業者の救済を強く要求したが、実りある回答はなかった。(朝日新聞

1976年11月 花園公園鋼板塀で囲われる。炊き出しは仏現寺公園へ

 
 
19761221日 たき出しや巡回も・日程は「日刊越冬」を見て下さい
 支援活動はこれまで冬季に限られていたが、同労組が今春以降もたき出しを続けているので、今年はたき出しなどの規模を拡大しようと、同地区の労働者らに実行委への参加を呼びかけてきた。
 計画によると援助活動の期間は228日まで。(1225日から)炊事班の食事提供は西成区萩之茶屋1丁目の萩之茶屋北公園(通称仏現寺公園)で、朝・昼・夜3食各23百人分を作るほか、無料で寝具も提供する。夜間パトロールは午後8時と午前2時の2回。(朝日新聞)
19761225日 あいりん冷雨・雑すいに行列黙々・支援活動始まる
 越冬実があいりん総合センター前の軒下で雑炊のたき出しを始めたのは午前9時、1泊約4百円の宿泊代が払えずにふとん1枚で夜を明かした人たちが、それより12時間も早く集まり列ができた。3年目の“不況寒波”をかぶってことしも厳しい年の瀬を迎えた。
 同地区でこの1年間、仕事にあぶれた人に、たき出しを続けている同実行委の母体である「釜ケ崎日雇労働組合」や関係機関の話だと、同地区の労働者の求人状況はことしのお盆すぎから秋にかけて前年より約4割ふえた。
 しかし、万国博や列島改造ブームの当時と違って、老人や病弱者向けの軽作業は数えるほど。
 救護施設にも入れないまま凍死や病気で路上死する人が50人を超えた。今月中旬ごろからは建設現場などが相次いで仕事休みとなり求人数も減少した。(朝日新聞夕刊)
1977(昭和52)年47日 仏現寺公園越冬仮設テント強制撤去。公園閉鎖
197748日 市・テント村を撤去
 釜ケ崎日雇労働組合などが去年6月中旬から仕事にあぶれた労働者に無料で食事を提供、泊まらせていたテント村を、大阪市は7日午後、都市公園法に違反した不法占用として行政代執行による強制撤去に踏み切った。
 府警警備部と西成署の約200人が出動、340人の労働者が見守るだけでトラブルなし。テント村にいた病人1人が入院、5人を更生施設へ収容、宿泊・食事代千円を支給。この日労組のメンバーの姿はほとんどみられなかった。(朝日新聞)
19781213日 萩之茶屋中公園封鎖。炊き出しは市民館前で 
 19789月 萩之茶屋中公園のカギが外され、炊き出し公園へ戻る
    1222日 海道公園が施錠され、再封鎖。三公園が封鎖状態となる
    1225日 越冬闘争突入、炊き出しは市民館前。布団敷きは医療センター軒下
 大阪市越年対策=1979年(昭和54)年1229日~1982(昭和55)年110日(1213日)、1,744人収容(延べ13,363人)、収容施設(大阪自彊館414人・南港1,316)、処遇内容(朝昼夕3食、日用品、おやつ、煙草、)
1982(昭和57)年425日 “越冬テント”撤去正当・大阪地裁判決・あいりん活動は評価
 51年末から524月にかけて越冬活動をしていたメンバーが、テントなどを強制撤去した大阪市を相手取り「その後の運動に支障が出た」などとして損害賠償を求めていた訴訟の判決が24日、大阪地裁民事7部であった。
  乾達彦裁判長は「日雇労働者の雇用・健康問題がとくに深刻な時期に、行政の施策の足りないところを補っている越冬活動の評価を惜しむべきではない」としながらも、「この活動で一般市民、児童が公園を利用しにくくなったり、夜間の騒ぎで付近の住民に安眠できないなどの迷惑をかけた」として市のテント撤去を正当と認め、訴えを棄却した。(朝日新聞)
 1983(昭和58)年2月横浜寿町野宿者殺傷事件明るみに
         5月 南警察署による青カン者強制指紋採取現地聞き取り調査
1982(昭和57)年7月25日 釜ヶ崎夜間学校ニュース より
1985(昭和60)年CKK851(部分)-国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより
 1945((昭和20)年から40年経過。公園予定地が、完全に公園の姿となった。しかし、フェンス囲いの中、施錠のまま。
 
釜ヶ崎子ども実態調査報告書(19861215日・新今宮小中学校跡地利用を考える会)より
1989CKK892X(部分)-国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより
1994CKK941X(部分)-国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより
 公園内の大部分が整地されているように見える。大阪府警西成警察署の建て替えに伴う仮庁舎が建っていたのはこの前か、後だったか? 記憶にない。
1985年の航空写真から9年。公園らしくなっていた場所は、振り出しに戻ったことになる。
 『定点観測釜ヶ崎』所収・1994年3月
 『定点観測釜ヶ崎』所収・1996年撮影か?

1998(平成10)年1228日 今宮中学校南側道路のテント強制撤去、花園公園へ移動

 
2007(平成19) CKK20071(部分)-国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより
花園公園北部分に仮小屋。南西部に町会会館が見える。

http://www.city.osaka.lg.jp/nishinari/cmsfiles/contents/0000183/183061/01-2.pdf より
 2014(平成26)年花園公園の北部
 2016年 花園公園北歩道に残るテント
2016年大阪市が花園公園の二つのテントに対し除却命令 https://mainichi.jp/articles/20160330/k00/00e/040/238000c

あいりん地区で行政代執行…テントなど撤去 毎日新聞2016330 1315(最終更新 330 1343)
 大阪市は30日、西成区のあいりん地区にある花園公園と公園前の市道を不法に占拠しているとして、路上生活者らが設置したテントや小屋を行政代執行法に基づいて強制的に撤去した。同地区での行政代執行は1998年12月以来という。
 市によると、公園や周辺は、2002年にはテントなどが約30件あった。市が交渉を続け、大半は自主撤去に応じたが、市道上のテントや公園内の小屋、看板の3件が残っていた。テントには男性1人が住んでいる。向かいには小中学校があり、保護者らから撤去を求める声が出ていた。
 市職員が午前8時20分、行政代執行を宣言。抗議する約50人を引き離し、道路を封鎖して作業に着手。「反対」などと怒号が飛び交い騒然となった。【念佛明奈】
2017CKK20174(部分)-国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより
 グーグルアースから。画像は少し古いようだ。
写真の左が今宮小中一貫校、右が花園公園。2017年の航空写真でも判ると思うが、花園公園は3つに分かれている。