愛徳姉妹会

 社会福祉法人愛徳姉妹会は、宗教法人聖ビンセンシオの愛徳姉妹会を、母胎とする法人である。
 日本における聖ビンセンシオの愛徳姉妹会の歴史の1ページには、1933年(昭和8年)5月、聖心会小林修道院の初代院長マザーマイヤーが、大阪教区のカスタニエ司教様を通じて、パリーの本部に姉妹派遣の依頼を出された。それは聖心学院の学生、裕福な人々と力を合せて、貧しい人との間に愛の関係を結びたいとの意向で、大阪の貧しい地域に、事業を起したいためだと記されている。本部では3人のシスターを派遣することとなり98日、マルセーユを出港し、1025日神戸港に到着した。
 一行は小林の聖心会に案内され、歓迎を受けた。2日後、大阪市東住吉区山坂町3丁目83番地の日本家屋に落付いた。
 愛徳姉妹会のシスター達は、昭和811月、先づ大阪のスラム釜ケ崎において、隣保事業を始めた。これが聖心セッツルメントである。当初シスター達が落付いた大阪市東住吉区山坂町3丁目の家は、手狭であったので、同区山坂町5丁目に土地を購い、ここに修道院を建て、ここから釜ケ崎に通った。釜ケ崎で仕事をしている間(昭和13年)に棄児があり、これらの子供達を聖母修道院で養育した。
 シスター達は、早速大阪市西成区東萩町30番地に、木造2階建洋館風の建物とこれに隣接する木造平家建を借受け、昭和8111日に開設した。これが最初の聖心セッツルメントである。聖心セッツルメントの名づけ親はマザーマイヤーであった。

大阪における愛徳姉妹会の社会福祉事業50年史より紹介 補足若干あり

社会福祉法人 愛徳姉妹会
目次
発刊のことば 理事長 村山美栄 お祝いのことば 大阪市長 大島 靖
序 大阪における愛徳姉妹会50年のあらまし 1
第一章 聖心セッツルメント 5
第二章 聖母病院 15
第三章 聖母託児園 29
第四章 聖家族の家 45
第五章 聖母整肢園 87
第六章 聖母整肢園港分園 111
第七章 法人の分離(愛徳福祉会の設立) 131
半世紀の思い出 シスター ジャンヌ カッタン……139
聖母整肢園の思い出 梶浦一郎……141
聖母病院の思い出 甲斐 博……143
大阪の思い出 シスター ジエヌヴィェーブ マックブライト……146
        シスター マーガレット メリーブリン
聖家族の家16年間の思い出 シスター メリー バトリック……148
創業の心を今後に 中田 浩……149
あとがき 冨田一栄……150       目次から第1章のみをpdfにした。
 
聖心セッツルメントの事業
 欠食児童に対する給食は最も緊急なものとして採り上げ、昭和81113日から始めた。開始前学校を廻り貧困家庭の児童は給食を受けに来るようにと先生に頼んで廻ったところ、そのような子供は居ないとことわられた由である。給食を始めて見ると給食を受ける子供が少なかったことや、母親が子供と一緒に給食を受けに来る等のことがあったので少時で打切った。
 診療事業は外人であった故か仲々許可がもらえず困った結果、マザーマイヤーの紹介で信者で実業家の稲畑二郎氏を責任者になっていただき漸く許可があり、昭和922日から開始することができた。診療所は2階建で2階を診療室に、1階を待合室に使用した。
 診療は週3(月木土)の午后で診療科目は、内科、外科、小児科であった。ここには方面委員の紹介で診療を受けに来るのであるが、不潔で例外なくシラミを持っていたため、医師も看護婦もシラミを移されて困った。
 家庭訪問、シスターテルミエとシスターカッタンは、熱心に貧しい人々や病人を訪問した。2人は事情をよく知らないので、どんな地域にでも出かけて行ったので忠告を受け、その後は、誰かにつれて行ってもらうことにした。
 「花咲く島へ」に家庭訪問の様子が次のように書かれている。「この頃は貧しい人達が自分の家へ私達に来てほしいというのです。子供達も私達をよく見ようとして、泣いていたのを止めてしまいます。殆んど知覚を失っている病人でも、コルネットが自分の上に傾くのを見て、嬉しそうに微笑するのです。人々は皆畳の上で、蒲団という綿のはいった大きな夜具に寝ています。聖心の院長のお蔭で、毛布の配付も出来たのでした。丁度初代の愛徳童貞会員のように、私達は冬の長夜に、殺風景な所を重い小梱を持って、一軒一軒歩きました。」
  
 1934(昭和9)年812日発行の田辺カトリック教会発行の会報に聖心セッツルメントの活躍の状況が記載されているので転記する。
 19331029日 教会に初めて愛徳会童貞女を5名迎え歓迎の意を表しましたが内3名は山坂町3丁目83に定住され専ら西成区今宮の所謂釜ケ崎スラムに聖心セッツルメントを設け、貧民の霊肉方面に愛の手をのばされていますが、未だ日浅きにも拘らず、各方面より感謝と讃辞をうけていられます。
因に現在までの事業を数字で表して御参考に入れます。
欠食児童給食 5,027
衣類給与
蒲団 40
着物 680
古着 250
診療所
診察 2,476
施薬 10,333
患者訪問
童貞見舞 740
医師往診 44
方面委員会長の評価
 当時地区担当方面委員会長門清太郎氏の報告書の一部を掲げる。
「前述の通り我々の調査に於て、本件に対して自己の無力を悲しんだのでありますが、偶々昭和
812月聖心セッツルメントと称する愛徳童貞会の経営にかかる診療所が、私の担当区域に現出したのであります。貧困者に緊急に何が必要であるかを徐々に考慮し、診療所、病人訪問、児童保育、救血品分配、これはすべて、我々の感謝と賞讃の的であります。然して更に感嘆を忘れてならぬものがあります。愛徳童貞会診療所にある所のものは、宗教的根底を有する組織から生ずる凡ゆる行為に伴う温情であります。童貞方の実践方法を見るに及んで、我々はこの柔和温情こそ、不幸な同胞を救う唯一の道であることを了解したのであります。従いまして我々も亦、我々の活動原則としてこの温情を、絶えず持ち続ける決意をした次第であります。」
子供会
1934(昭和9)年108日から、児童の情操教育と土地柄多い犯罪の誘惑から守るために、放課後の児童を集めて、子供会を始めた。主として土曜、日曜に催し、毎日五、六十人の子供が集まった。
聖心会聖心学院の協力
 マザーマイヤーは、聖心セッツルメントの事業運営には全面的に協力された。経営上必要な経費は聖心会が負担されたし、時々バザーを催し、その収益金を寄附して下さった。又聖心学院の学生や卒業生が実によく仕事を手伝って下さった。上流家庭に育った聖心学院の学生や卒業生達の上品な言動が、釜ケ崎の子供達や庄民を驚かせたり感心させたりしたことも少くなかった。同様に彼女達にとって、釜ケ崎の住民の生活は、その悲惨さにおいて想像を超えるものであったであろうし、得難い体験であったろう。マザーマイヤーは、学生達が子供会に加わることを望んでおられたし、子供達も度々聖心学院を訪問して、マザーマイヤーに喜ばれた。
 
新しい聖心セッツルメントの建設
 昭和108月、稲畑氏夫妻から亡くなられた子供さんの記念として、マザーマイヤーに、土地(西成区海道町36番地の1)が寄附され、そこに診療所と子供の家が建てられた。木造瓦葺2棟であるが、面積その他詳細は分らない。昭和1174日新しい診療所の祝別があり78日落成式が行われた。
大阪市社会部報告に見る聖心セッツルメント
 昭和12年に発行された大阪市社会部報告第218号「大阪市に於ける隣保事業」は貴重な資料である。この報告は昭和10年度を基準とし必要に応じて昭和11年中のものを附加したとされている。
 当時大阪市には29の隣保事業施設があり、公営7、社団法人7、財団法人12、会員組織5、個人2、宗教管理1である。これを宗教の上から見れば、宗教色なきもの16、キリスト教9(新教8、旧教1)仏教4、となる。
 次に聖心セッツルメントにっいて記述された部分を転記する。
1.隣保地域の概況
所在地、西成区海道町
地域該当方面 今宮第一方面
地域居住世帯 15,126世帯 人口65,870
カード者数   1,542世帯 人口6,043
地域居住世帯に対してカード世帯の占める割合.19%
(註)世帯人口は昭和1010月の国勢調査による。
   カード者数は昭和10年末の現在数による。労働者(自由)拾い屋等が多い。
2.職員
医師無給3(薬剤士を含む)
小使、雑役、給仕有給2
その他、無給7
合計 有給2、無給10 計12
(註)シスターカッタンの記憶によれば医師1人有給、薬剤士1人有給、門番1人有給、雑役1人有給で、看護婦はシスターで無給、事務受付等は聖心学院の卒業生や信者の娘さん達が無給で奉仕して下さっていたとのことである。
3.事業
児童保護事業子供会、食糧補給
保健救療事業診療
物品給与
4.保健救療施設
診療、内科、外科、小児科
5.食糧補給
事業主 体自営
給食品目 給米券、牛乳、ミルク、昼食
人員種別 極貧者、母乳なき乳児、栄養不良の乳児、欠食児童
託児所の開設
 昭和127月支那事変が勃発し、我国は戦時体制を強化した。事変の進展は大きな労働力を必要とするに至り、工場をはじめ各種の職場に婦人の進出が行われた結果、託児所の必要が叫ばれるようになった。このため聖心セッツルメントは、昭和134月託児所を開設した。特に貧困家庭の児童を対象に、時間を長く、金額は安くして給食も行った。保育は2組に分れていて、各組30名程度であった。
 
不在家庭児童の保護事業
 昭和1812月大阪府庁に聖心セッツルメントのことで呼び出され、今後は聖心隣保会に改めるよう指示された。又両親が働いている家庭の子供達を保護するための事業に切替えるよう要求され、子供達は放課後から夜7時まで来ることになった。その後警察と府庁の命令で建物を譲って診療所と託児所を閉めなければならないことになったが交渉の結果託児所の建物を午后不在家庭の学童のために使用するという条件で事業は継続できることになった。
 昭和193月聖心隣保学園(不在家庭児童保護事業)を開設した。開設の当日は80名の子供が来た。
 学童達は放課後から午后7時頃まで居たので、間食用に乾パンの配給があった。帰りのおそい夜シスター達は暗い夜道を山坂町の修道院まで歩いて帰ったことも度々あった。
 
左写真は地図にない町の歴史」広瀬久也著・1974年刊所収
邦寿会 今宮診療所
1921(大正10)年 現サントリーHD(株)創業者・鳥井信治郎によって邦寿会を創設する
 釜ヶ崎の地で今宮診療院を開設し、無料診療及び施薬を行う
1941(昭和16)年 財団法人鳥井邦寿会設立する
1952(昭和27)年 邦寿会が社会福祉事業法により社会福祉法人に変更となる
1970(昭和45)年 愛徳姉妹会シスター3人が、通いから今宮診療所に住み込むようになる
1973(昭和48)年 今宮食堂跡に修繕の店開く
1976(昭和51)年 国民皆保険の時代を迎え今宮診療所を廃止する
1977(昭和52)年 今宮診療所跡に聖ヨゼフ・ハウス、ふるさとの家建設