あいりん銀行(あいりん貯蓄組合)
1.あいりん貯蓄組合10年のあゆみ
釜ヶ崎貯蓄組合が設立されて満10年余を迎えた。宵越しの銭は持たない釜ヶ崎気質の労務者にとって、組合員数も貯蓄残高も予想外に伸びをみせたことは、嬉しい限りといわねばならない。
(1)設立趣旨
昭和36年8月のいわゆる“釜ヶ崎暴動事件”後、急激に高まった地区改良、福祉対策充実の世論に応え、事件1周年後に(昭和37年8月)現在の愛隣会館(その後46年7月に更生相談所があいりん地区に進出したので、現在は、建物の名前で残っている)が設立されたものである。地区対策の拠点とし、民生、衛生、教育等の各分野の出先機関を包含する総合福祉センターとしての使命を負っている。従って、その取り扱う事務、事業は、すべて地区労働者の生活指導、環境改善、生活の安定をはかることを目的としている。
なかでも、貯蓄組合の設立は、その日暮らしの生活から脱却するための最良の手段として設立し、実施されたものである。
「あいりん貯蓄組合(通称あいりん銀行)」は、環境改善地区(あいりん地区)の居住者に対し、勤労意欲を啓発し、自力更生を促進する手段の一つとして、貯蓄奨励を促進する趣旨で大阪市が環境改善施設「大阪市立愛隣会館」における地区対策事業の一環として同会館内に設立したものである。
(2)設立の経緯
大阪市西成区の釜ヶ崎地区には、推定5万人の住民がおり、内約15,000人が簡易旅館等を宿所としている日雇労務者である(36年当時)。これらの労務者は、日当800〜1,500円程度(36年当時)稼いでいるが、ほとんどはパチンコ、かけ、酒などに浪費し、「宵越しの金」を持たないことを誇りとすら感じて、その日暮らしをしているため、所謂ドヤ街から抜け出ることができない実情である。
偶々36年8月発生した、これら労務者の欲求不満の爆発ともみられる釜ヶ崎騒動によって警察および府・市などの関係当局は、釜ヶ崎に対する理解と認識を深め、その対策に真剣に乗り出すこととなった。
特に市民政局では、労務者に貯蓄意欲をもたせることによって、更生への足がかりをつけさせることを念願とし、37年5月あいりん地区の労務者を対象とする夜間貯蓄機関の開設計画を発表した。
発表後、この夜間貯蓄機関の開設交渉は、当初、市公金取扱銀行(住友、三和、大和、富士の4行)に対し行われ、ついで地元相互銀行や信用金庫に、そして最後に大阪府の監督下にある信用組合に対して行われたが、何れも拒否され、開設は徒に延び延びの状態となった。
○金融機関の主なる拒否理由
1)ドヤ街のみを対象に支店を開設したのでは採算がとれない。
2)36年の大騒動もあって、金融機関として現金を安心して置けない。
3)大蔵省が店舗設置を認めない(37年当時)。
一方、この間同地域労務者の貯蓄心は、予想外にもり上がり、現金を手に持って夜間銀行を探す人も多くなってきたので、関係当局者は、切角出てきた貯蓄心の芽を摘むことは出来ないとして、簡単な預かり証を渡して預かることとなり、西成警察署防犯相談コーナーに36年8月末現在で、6万6千円余、愛隣会館に2万円余りの現金が預けられた。
このような労務者の貯蓄に対する積極的な熱意もあって、市当局はその責任において、8月29日から生活指導所としての「あいりん銀行」の開設に踏み切った。
その後、関係当局者の善意と熱意は、大和銀行、近畿財務局などを動かし、合法的な預金事務の取扱方法(注1)が考究され、当初は大和銀行が行うこととなった。
しかし、取り扱い開始直前にいたって、市公金取扱銀行3行(注2)の強力なまき返し(注3)があり、大和銀行を加えた公金取扱の4行と市当局の話し合いの結果、公金の取り扱いに準じ、4行が1年交替で取り扱うことに決定し、10月1日より住友銀行の手で貯蓄機関として、通称「あいりん銀行」が開設されるにいたった。
<注1>預金事務の取扱方法
当初は、愛隣会館が「あいりん銀行」の名のもとに、あいりん地区の住民のために、反覆して、継続して預金の受入及び払出の取次を行うことは、「出資の受け入れ、預り金及び金利等の取締等に関する法律」第2条の規定に抵触する懼れがあるので、適法に、この計画の趣旨を実行するため、国民貯蓄組合法の規定(第1条1項1号及び第9条)による国民貯蓄組合(地域組合)を、あいりん地区において組織し、その斡旋によって、代表者名義の貯蓄を行うという方式によって「あいりん貯蓄組合」を昭和37年10月に設立した。
国民貯蓄組合法は、「小額貯蓄非課税制度」の発足により、昭和38年3月31日で廃止され、歴史的には、「あいりん貯蓄組合」は、国民貯蓄組合法による地域組合の性格をもっていたが、現在はあくまでも任意組合であり、その内容は、大阪市の事業として、愛隣会館が実施している銀行預金と解すべきである。