164-参-経済・産業・雇用に関す…-2号 平成18年02月15日

 

平成十八年二月十五日(水曜日)

   午後一時開会

 

   参考人

       三菱UFJ証券株式会社チーフエコノミスト   水野 和夫君

       東京学芸大学教育学部教授    山田 昌弘君

       独立行政法人労働政策研究・研修機構労働経済分析研究部門研究員 勇上 和史君

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  本日の会議に付した案件

○経済・産業・雇用に関する調査

 (「成熟社会における経済活性化と多様化する

 雇用への対応」のうち、経済及び所得格差問題

 について)

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○参考人(山田昌弘君) 東京学芸大学の山田昌弘でございます。お呼びいただきまして、どうもありがとうございます。

 私は家族社会学かつ感情社会学というのをやっておりまして、本来なら経済、財政、雇用ということに関しては直接専門ではないのですが、家族生活というものから見て経済というものがどう見えているのか、特に若者がどう見ているのかという点、さらに感情社会、まあ社会心理学と昔は言ってたんですけれども、私、今人々の感情、意識というものがどういうふうになっているのかということについて主に御報告したいと思います。さらに、逆に、経済学の専門家ではありませんので、逆に社会学から見た場合に今の社会が経済的にどう見えているのか、どう変化しているのかというのを、逆に私、大胆に言える立場にあると思いますので、その点についても述べさせていただきたいと思います。

 最近、格差に対する関心が非常に高まってきたということがあります。さらに、ジニ係数等で見ればそれほど広がっていないというようなデータも出てきます。逆に言えば、社会学者としての関心としては、統計数字でそれほど広がっていないのに、これだけ人々が格差意識や将来に対する不安ということに関して強く、将来に対して強く不安を持つのは何かということに関して、私なりの解釈を示していきたいと思っております。

 済みません、研究所の方に比べて大学はローテクで、そういう意味での格差がありますので、紙資料でやらさせていただきます。大学というのは経済改革、そういうところから取り残されているところですので、こういう格差も付いてしまうという一つの見本、まあ私以外の先生はやっていらっしゃる方もいますけれども、やらさせていただきたいと思います。

 まず、格差に対する私の考え方を述べさせていただきますと、格差自体は良いものでも悪いものでもない。なければやる気がなくなるし、開き過ぎれば絶望を増すし、格差がない社会という、経済格差という意味で格差がない社会は存在しないわけです。問題は、人の格差に対する感じ方の問題なわけです。つまり、統計数字を見せられても、人は別に統計数字を見て、広がってないじゃないかと言われて、じゃ安心するというわけではないわけです。つまり、今の経済状況がどういう形で人々の感情に影響し、特に私が分析している若者の感情に影響し、さらにそれが集計されて社会的活力、秩序というものにつながっていくか、私はその点について御報告、御意見、陳述したいと思っております。

 そして、水野参考人も言われたように、私もいろんなデータを見てみますと、九〇年代後半が転換点だと思っております。水野さん、ポスト近代という形で述べましたが、私はロバート・ライシュの言葉を使って、オールドエコノミーからニューエコノミーへの転換点がどうも一九九〇年代後半に来て、その影響が人々の生活や社会意識に現れ始めたのが九八年、七、八年ごろからだと考えております。逆に言えば、戦後から一九九五年ぐらいまでは、非常に戦後安定した社会だと評価しております。

 つまり、そのときに、ある時点で経済格差があってもいつかは同じ水準に達するという希望を持てる、こういう状況であれば、たとえ格差があったとしても人々は希望を持って生活できるわけです。今はテレビがない、隣はテレビがあるというようなものに格差を感じたとしても、来年になってボーナスが出ればテレビは買えるねというふうに考えれば、つまり成長の中で同じ水準に達するという期待が持てれば、格差があったとして、その時点で格差があったとしても時間によって格差が解消されるというふうに思えることができたわけです。

 そして、九五年ぐらいまでは生活というのはローリスクの選択肢というものがあり、さらに中流化ということで皆、みんなが同じような生活を目指しました。そして、後で述べますが、だれでも努力すれば、つまり、すごいことをしなくてもだれでもこつこつ努力すれば中流の生活で報われるということが可能だった社会であるわけです。そして、制度というものはその生活の向上と安定を前提に組み立てられていたわけです。

 しかし、一九九五年ぐらいから起こっていることは何か。今起こっている格差というものは、単に量的な格差ではなくて、私は質的な問題だと評価しています。つまり、通常の努力では乗り越えられないような格差が出てきて、それは、一つは生活、社会生活の低成長化とか不安定化に伴って生じている意識だと思っています。そして、これは別に日本だけの問題ではなくて、一九九〇年代以降、先進諸国は同様の問題に直面しているわけです。

 では、具体的にどういう不安かというと、将来不安が伴う格差拡大が起こっているわけです。つまり、それは将来中流生活から転落してしまうという不安、つまり、何かリスクがあったら立ち直ることができずに、今維持している人並みの中流生活というものができなくなってしまうのではないかという不安が広がっているということが大きいところです。そして、さらに、実際にそういうリスクが降り掛かってきて中流生活から現実に転落してしまう層というのが増え始めたのも実際に一九九〇年代後半でありまして、いわゆる普通に生活をしてても何かが起こると自分の生活も転落してしまうんだというような意識が広がれば、それは将来に対する悲観論となる、まあ悲観論というか不安となって現れてくるわけです。

 特に、私の調査等によりますと、若者の親が不安を感じているわけです。つまり、親自身はオールドエコノミーの中で生きて、時間的に生きてきましたので、五十代、六十代の親はそれほど不安はなくても、自分の子供がフリーターやニートになってしまうんではないか。まあ、私はパラサイトシングルの提唱者ですので、同居してなかなか結婚しないんではないか、そしてそのまま自分と同じような生活が送れないんではないかというような不安というものが今広がってきているわけです。

 下に図表として、東京と青森で調査して、青森と東京の数字は多少違って、それは後で参考人関連資料の方に別に載せてありますが、将来日本社会は経済的にどうなるかと二十五から三十四歳までの若者に調査をすると、今以上に豊かになると答えたのはわずか四%しかいなかった。六四・五%、三人に二人は余り豊かでなくなってると回答していますし、自分はどうなるかというと、多少は良くなるというのは増えるんですけれども、やはり五人に二人は今より豊かでなくなっていると回答しているわけです。

 さらに、親の不安として、中年親同居未婚者、三十五歳を中年と言うとしかられるかもしれませんが、やはり九〇年代後半から三十五から四十四までで親と同居して結婚していない人、もちろんこれがすべて不安定だというわけではありませんが、特に男性の中では不安定雇用なために親と同居して結婚していないという層が相当含まれているわけです。もう二〇〇四年の時点で三十五から四十四までで親と同居している未婚者の数はもう二百万人近くに達しております。

 つまり、そこが希望格差というところが出てきたゆえんだと思っております。つまり、希望格差というのは、努力が報われると思う人と努力が報われないと思う人が出てきたということで、才能がある人は自分の努力が報われると思って希望を持てるわけですけれども、余り恵まれない人は、努力しても報われる見込みが薄いと思った人は何かしらの夢を見る、そして、何度努力しても駄目だった人は絶望感に襲われる。そして、これは、まあそうですね、欧米でも同傾向でありまして、あるイギリスのロントリー財団のデータを見ますと、八一年には軽度の、ノンクリニカル・デプレッションですから、軽度のうつの人が八一年から九六年まで倍になっているというデータもあります。

 そして、希望と格差の関係について次に述べさせていただきます。

 つまり、社会の活力とか秩序の安定というのは、その社会に住んでいるすべての人々が希望を持って生活できるかどうかに懸かっております。すべての人が努力、つまり仕事をするとかルールを守るとか勉強するとか子育てするとか話をするとか、日常生活で行っている努力というものが何らかの形で報われる、それは周りの人々、もちろん神でもいいですし、宗教を信じている方は神が見ていてくれるでもいいですし、周りの社会が認めてくれる、国、職場の仲間、いろんな人々がいると思いますけれども、周りの人々が肯定的評価を受けるかどうかに懸かっているわけです。

 前近代社会というものは、宗教とかコミュニティーが希望を保証していました。つまり、経済格差は存在するし、それは固定化されているし、生存を脅かす貧困も前近代社会は存在していたわけです。しかし、宗教というものが信じられていれば、今やっている努力は神様が見ていてくれて、来世に報われるという意識を持つことができたわけです。さらに、コミュニティーが、生まれて育って亡くなる、同じコミュニティーが存在していましたから、周りの人々が自分の努力を見ていてくれたわけです。

 つまり、貧しい者には希望、さらに重要なことには、お金持ちには節制、節度のある生活、社会貢献活動などが行われる基盤になったわけです。多分、アメリカとかヨーロッパには格差は日本以上に開いている国もありますけれども、まだ余りそういう問題にならないというのは、まだアメリカには宗教的な基盤、ヨーロッパには階級的な基盤があって、寄附文化なりノブリスオブリージュなりがうまく機能しているというふうに考えています。

 これは内閣府の二十一世紀ビジョンのワーキンググループに参加したときもいろいろ議論になったんですけども、アメリカでは家計支出の二・二%が寄附で回っているのに、日本は〇・五%しか回っていないとか、あと、前近代社会には価値の逆転、つまり偉いとされる者、武士とか農民は質素な生活をし、お金をもうける人は身分的に下位に置かれるとか、貧しい人ほど、まあ聖職者、質素に暮らす貧しい人ほど尊敬されるというような文化が存在していたから格差が容認されていたという面があるわけです。

 しかし、近代社会になりますと、現世での経済的報いというものが社会の希望の原動力になったわけです。そして、日本では高度成長期から一九九〇年ごろはほとんどの人が希望を持てる社会であったと考えることができます。つまり、平凡な能力の人でも一定の努力をすれば将来豊かな生活が築けるという期待が持てたわけです。そして、私はそれを努力保証社会と名付けたわけですが、勉強して学校を出れば良い職に就ける、男性でまじめに仕事をこつこつしさえすれば終身雇用、年功序列で収入が上がる。男は仕事、女は家事で努力すれば持ち家、家電、子供の学歴が付く。つまり、賃金格差や生活水準に、到達点に差があったかもしれないけれども、質的には同じように努力が報われると思えたので、質的には一緒と思えたんだと思います。

 そして、一九九八年から社会の不安定化が始まっていきます。あっ、これは済みません。次ページと書きましたが、表が別に印刷されましたので表の方を、図表の方をごらんください。つまり、私は自殺者数が平成十年に突如増えたことに興味を、興味っていいますか、関心を持ちまして、いろんな統計を調べてみたわけですが、やはり九〇年代後半にいろいろなところで数字が悪化しています。ホームレスの人数、自己破産、生活保護数、さらにその次のページをごらんいただくと児童虐待数、少年凶悪犯の再増加、不登校数。

 さらに、子供の学習時間が低下し、そして全く勉強しない小中学生が増えている。これは、まあ多くの教育学者が言うところによると、やっぱり九六、七年ごろからの傾向でございます。そして、教育学者等、前回耳塚先生等も発言していらっしゃったと思いますが、つまり、九五年以前は学力の低い子も学力の高い子も同じように勉強していた。しかし、九八年以降は学力の高い子はますます勉強するんだけれども、学力の低い子はあきらめて勉強しなくなってくる。つまり、学力が低下が起きたんではなくて、学力の二極化が起きて平均した学力の低下が起きた。つまり、逆に言えば九五年ぐらいまでは学力が低い子であっても、一生懸命勉強すれば会社に入って終身雇用、年功序列でいい生活ができるという希望を持てたんだけれども、どうも九八年ごろからそういう学力の高低によって希望の持ち方というものが格差が出てきたと考えざるを得ない状況が生まれてきたわけです。

 では、それが何が原因かというふうに言いますと、ここは私は経済学者でないので逆に大胆にしゃべれるところだと思っております。これは、バブル後の不況が原因ではないというのは、九一年から九六年にかけてはこういう意味で社会生活上のことはほとんど安定、逆に一番安定していた社会だったわけです。そしてかつ、日本の政策失敗ではないというのは、あらゆる先進国で九〇年代に若者を中心とした不安定化、そして希望の喪失ということが議論されてきたわけです。

 それはやはりニューエコノミーが九〇年後半に日本に上陸した。つまり、IT化、グローバル化、サービス産業化、知識産業化、文化産業化というのが一気に上陸して、もちろんプラスの側面としては我々の生活をますます便利かつ快適にするという側面が出た反面、職業を不安定化させて生活の将来見通しが立たなくなり、希望を失う人が増えたというふうに私は考えております。

 それは元々、これはまあロバート・ライシュの説をほぼリバイズしているだけでございますが、つまり、オールドエコノミーというのは、オン・ザ・ジョブ・トレーニングで仕事に習熟するということが可能だけれども、商品やシステムのコピーが容易なニューエコノミーの下では、商品生産において生産性の高い人と低い人の格差が拡大していったと。そして、その影響を若者がもう真っ先に受けたのだと思っております。

 図表の最後から二番目はフリーター数の増大に関するものでして、さらに、図表の四の上半分が雇用者所得のジニ係数の推移を表していますが、特に男性を見ていただくと、昔は、若いころは格差がなくて、年を取るに従って格差が付いていくというような状況になっていたんですが、九七年から二〇〇二年のところに断絶がありまして、もう二十代前半、二十代後半から早く格差が付いてしまう。つまり、四十代、五十代の格差は余り上がらなかったけれども、若者の間での雇用所得格差というものがここ十年ぐらいの間に付いてきたというのが明白な図だと思っております。

 そして、それが、もう時間がありませんので、あとは短く要約させていただきますと、まあそういう状況にあって、能力がある者は希望を持って社会に入って、若くしても収入が高くなるというふうに希望を持てるけれども、能力がそこそこな者という者は、努力が保証されるということが失ったがために自分の人生をギャンブル化してしまう。つまり、ニューエコノミーから脱落してしまって、夢を見ながらフリーターをやっている人が増える結果になっているというふうに私は分析しております。

 済みません、多少時間を超過しまして、どうも申し訳ございませんでした。あと残りの部分は質問のときに答えさせていただきたいと思います。