釜ケ崎の状況認識を共有するために

 

まえがき

 釜ケ崎の現況は極端な「仕事不足」と多数の「野宿の固定化」で言い表せると思う。この現況の中で、日雇労働者の苦況を打ち破るべく、様々な団体・個人が多様な努力を続けているが、部分的成果はともかく、日雇労働者全体に関わる苦況を打ち破ることに成功していると言い難いことは誰しもが認めるところであろうと思う。そして、現況を変えようとする人々全てが、そのことに不満を抱いていることも事実であろう。
 では、どうすべきか。各団体・諸個人の釜ケ崎での「活動」にはそれぞれの「歴史」があり、基本的にはそれぞれの立場・方法は尊重されるべきであるが、現状にたいする基本的な認識を出し合い、検討を深めることによって、「先の見通し」をそれぞれが確かなものとして掴み、少なくとも「個別に闘って共に撃つ」方向を確認しあうことが、今、必要であろう。
 そのための参考文章を作成する。

釜ケ崎と「55年体制」 

 世間では、自民党が衆議院で過半数割れし、社会党を含める連立政権が成立する事態を55年体制の崩壊」と称して、マスコミが騒ぎまわっている。「55年体制」を最大限善意に解釈すれば、経済の拡大を重視する自民党と「大衆の利益」を代弁して自民党独裁を補完する社会党という役割分担がなされていた政治体制ということができよう。
 「55年体制下」の釜ケ崎は、1970年代前半を例外として人口的に拡大し続けてきた。釜ケ崎と結びつきの深い建設業の就業人口も1980年まで増加し続けた。1965年から1975年にかけて全産業の就業人口の増加率は9.5%増であったが、建設業は44.2%という急増ぶりであった。1980年には農林業の就業人口(532万人)を16万人上回るにいたり、全産業の就業者に占める比率は9.9%にもなった。
 誰しもが認めるところを言えば、「55年体制」は経済効率が悪いとされた農林漁業から工業へと労働力の配置転換を促し、産業基盤整備あるいは企業の設備投資また産業社会につきものの不況対策としての公共事業に必要な建設業も急成長をとげたということである。この結果、人口の都市への集中を生じ、地方の零細な商店の経営基盤までも奪った。
 釜ケ崎の労働者の出身階層が農林漁業や地方の零細自営層であることは、この日本社会全体の動きを反映しているのである。では、建設産業界全体のパイは大きくなり、大手ゼネコンは自分たちの代表を財界中央に送り込み、政治家と癒着するほど肥大することになったが、釜ケ崎にはどのような影響があったのであろうか。ほとんど、なにもない。人口の増大以外は…。
 釜ケ崎にも多くの求人があった港湾労働(仲仕)については、労働者の登録・就労日数の保障と就労日数によらないアブレの支給というアオ手帳制度ー港湾労働法ーが成立している。その原因は、日雇いの港湾労働者が人力に頼っていた荷役作業に一定の比重を占めていたこと、その労働力の短期・集中した補充が困難であったこと、日本の経済界にとって輸出入の荷裁きの円滑化が重大課題となっていたこと、総評参加の全日本港湾労働組合の運動があり、「55年体制」の補完勢力を活用できたこと。
 釜ケ崎のより大きな部分を占める仲仕以外の日雇労働者はどうであったか。率直に言えば、釜ケ崎の日雇労働者は代替可能な労働力として存在し、その量的な存在は財界にとつても必要であったが、新たな制度をこしらえてまでも確保しなければならないものではなかった。産業構造の変化・農村の解体などで限りなく補充されるからである。また、釜ケ崎は労働者の街ではあるが「労働」を軸にのみ形成されたものではないという事情もある。釜ケ崎は差別された街であり、住民と「体制」の関わりは薄かった。
 釜ケ崎の「55年体制」への組み込みは1961年から摸索され、1970年に組み込むための体制は整ったとみなされるにいたる。経緯は簡単である。「暴動」と「万博」が釜ケ崎への関心をたかめ、治安・労働両面からの対策が考えられる。治安面では警察以外に民生行政が担当し、労働面では「体制」補完勢力が一定の力をそそいだ。アブレ・「日雇健保」の定着はいささか効果があがったものの、就労構造そのものには手をつけず、就労・アブレの調整は「相対方式」の名のもとに放置されてきたのである。         

「1990年10月暴動」を区切りとして

 「9010月暴動」は、西成署の警察官が暴力団からワイロを受け取っていたことが表沙汰になったことに、釜ケ崎の労働者の怒りが爆発したもの、と表層的には言い表せるが、組織的ならざる集団行動の一定の持続・反復は、必ず集団の共同意志の形成が事前になされていたことをうかがわせるものであり、表層での説明が「暴動」の真の原因であるとは限らない。

 では、影で形成されていた集団意志はどのようなものであったのであろうか。

 1970年代の釜ケ崎の「55年体制」への組み込みは、「体制補完」勢力を仲介者として、制度の疑性適用によってなされた。雇用保険・健保の「みなし適用」がそれである。民生部門では「市更相条例」で生活保護法が疑性適用された。この体制の特徴はあくまでも一定の仕事量が存在すること、釜ケ崎の住民の平均年齢が一定に保たれ、労働力としての移動性を維持し続けることを前提とし、高齢・定着化や「不況期」のことを考慮にいれていない点にある。労働者の意見の代弁者という看板を持つ「体制補完」勢力は、仕事を前提とした制度運営にしか提言することはできず、仕事の保障は与党の経済政策にゆだねたもののごとくである。もちろん、このことは釜ケ崎についていえることであり、大きな労組が存在し、あるいは社会的注目を集めた地域・産業分野については別様の対応があった。民生行政も施設収容主義をとることによって、適用枠の天井を好況期を基準として設定し、不況期への対応から逃げ続けることになる。
 このような決定的な弱点を持つていたにもかかわらず、「行政担当者」はその潔癖性から、釜ケ崎にある制度の疑性適用を廃止し、法の条文通りの適用の実現へ向けて努力を続け、1980年代半ばには、現役労働者を軸とした経済効率の良い釜ケ崎の制度枠を完成させるにいたる。「55年体制」の経済効率重視の方針と施策によって他産業・地域から「切り捨てられ」釜ケ崎へ移動して来た労働者は、釜ケ崎においても、「55年体制」によって「切り捨てられる」ことから逃れることはできないのである。
 1990年に先立つ数年の釜ケ崎は、未曽有の活況を呈していた。しかし、その間に釜ケ崎に新しく釜ケ崎に入ってくる労働者が高齢者に片寄っていたこと(通産省が言っていたミス・サチコ問題の反映)、以前からいる労働者が高齢化したことから、釜ケ崎全体の高齢化が進み、仕事面の活況も真の明るさを産むことはなかった。なぜなら、「55年体制」の釜ケ崎における完成のもとでは、労働者に未来はないことが、身体的老いと共に日々切実なものとして実感されていたからである。
 「199010月暴動」は、「55年体制打破」を目的とする怒りの行動であり、「199210月暴動」は、具体的に「55年体制釜ケ崎版」の組み変えを要求する行動であったとみなせる。 

今後の展望

 今後、釜ケ崎労働者の平均年齢が劇的に若返ることは考えられない。建設業界が利用する新しい労働力としては外国人労働者ということになるが、釜ケ崎への大量集中居住は大幅な労働自由化が見込めない現在、想像することができず、釜ケ崎の部分的存在に留まり続けるであろう。新しく入ってくる人々は、労働を軸にしてではなく、日本各地から高齢によりそれまでの生活拠点を維持することが困難となり、行政の高齢者対策の不備から、その日その日の生活可能性を求めての移動を余儀なくされる層であると予想される。
 「センター」内外の現状は「寄り場機能の減退・野宿拠点化」と言い表せる。この傾向は強まることはあっても、90年以前の状態になることはないであろうと予想される。「寄せ場」は、飯場を中心とした分散型に限りなく近づいていく。
 以上から言えることは、仕事量の変化に関わらず釜ケ崎に大量の野宿・行旅死亡が出現する時代に入っているということだ。これは「社会的不正義」である。人が「社会」を形成し、「社会生活」を営み続けることの意味は、各個人・社会の諸制度がそれぞれの持つ力を使って、「社会成員」それぞれの平穏な生と死を保障しあうところにあるのだから。

 今後の考え方

①「労働者の街」としての位置付けは堅持すること

 釜ケ崎はやはり労働者の街であり、年齢に関わらず、働ける状態にある者が無為徒食することを求める場ではないこと。労働を通じての社会参加の道を常に求めている人々の街である。
 [現役・半現役に関わらず仕事保障の要求]

②地方行政の課題から国政課題へと「格上げ」すること

  釜ケ崎の歴史と現状が示すとおり、釜ケ崎の存在は日本全体の動きと連動しており、今後においても「影の部分の集積地」となり続けることが確実である。地方行政の枠や既存の制度では対応できない課題であることを差し示し、「日本全体の高齢化対策」の中に位置づけられる政策を提起すること。

③現場での日々の現実への対応・要求闘争を軸に、釜ケ崎への社会的関心の集中を図ること。

 近年の釜ケ崎の闘い(暴動を含め)は、確実に釜ケ崎への関心を高めた。衆議院選挙時のアンケートに対する回答状況はその一つのあらわれ?。しかし、それは持続したものでも、組織的なものでもなかった。釜ケ崎日雇労働者が日々直面する困難に対する釜ケ崎内部での「支援」活動(炊出しや労働・医療・生活相談)は、釜ケ崎が直面する課題を差し示す具体的な活動であり、それらの活動の積み重ねが釜ケ崎の課題解決に向けての勢力づくりの軸となる。しかし、そのためには、それらの活動が「自己満足的」におこなわれてはならず、それらの諸活動をしなくてもすむ社会環境の実現にむけた努力・活動を常に視野に入れてなされるべきである。

④釜ケ崎の労働者が集団として意志表示する「場面」がつくられるべきである。

 どのような活動も、労働者の集団の意志表示にまさるものはない。労働者がどのような立場に置かれ、なにを求めているかを、社会にもっともよく伝えるのは、やはり、労働者自身の集団行動である。時としては、現在の法の規制をあえて超えることも、要求や立場の緊急性を具体的に示すものとして必要であろう。いや、現実が、法を超えるのである。
 ただし、その「部隊」だけが突出すれば、単なる治安問題に解消されてしまう恐れがあるので、「実行部隊」を孤立させない体制づくりが必要である。

⑤現場の力量をうわまわる力を「政治勢力」の巻き込みにもそそぐべきである。

 釜ケ崎の諸課題の解決が、一面的には法制度要求の実現によって達成されることは明らかである。であるならば、市会・府会・国会での要求提示・実現にいたる道筋が追求されなければならないこともまた明白とされなければならない。この面でも、具体案を掲げた具体的な取り組みが開始されなければならないだろう。
 「55年体制」の崩壊は、一面では、「55年体制」下の「体制補完」勢力の体制内化であり、理念上だけであったかもしれないが、労働者利益代表であった勢力の解体現象でもある。しかし、実態はどうあれ、ここ当面は倫理と理想が軸となることは間違いなく、であれば、従来の保守・革新の色分けに関係なく、釜ケ崎の諸課題解決に向けた協力者出現の時代であるともいえる。今、政治的に、明白に「階級敵」といえる勢力は存在するか、逆に「階級の友」は。そのような色分けが意味をもたず、課題別共闘・連合だけが主軸となる時代となったのである。