文芸サークル「裸の会」 会報 「裸」

 文芸サークル「裸の会」は、196181日のいわゆる第一次釜ヶ崎暴動を間近に見た現職警官が書いた詩を契機に、当初5人が集まって発足した。会報の「裸」は、196231日付けで創刊号が発行されている。素人が集まってガリ切り、印刷製本し、150部だったという。10号から活版刷り千部発行になる。

 発行責任者は、一貫して西成警察署防犯コーナーの現職警察官松原 忍氏で、氏の定年退職を期に会が解散して、110号をもって廃刊となるまで変わることはなかった。

 編集は、「裸の会編集部」であるが、「編集責任者 田結幸雄」と奥付に表記されている号が幾らか見受けられる。奥付で確実に確認しているのは70号と71号。74号編集後記に「田結氏が会から去ったので、これからは僕と広野氏の二人で編集をすることになった」とあるから、奥付未確認の60号から73号までは「編集責任者 田結幸雄」の可能性がある。

96号からは「編集部」が取れて、単に「裸の会」となっている。

  
裸の会の事務所は、4回移動している。
創刊号~5号=西成区東四條3丁目50 西成労働分室内
6号~32号=西成区東入舟町4番地 喜楽荘内
33号~92号=西成区東萩町17番地 謝兆山アパート
93号~110号=西成区東四条1丁目2番地 松林荘内
定価表示は、15号奥付に50円、送料20円とあるが、16号から第三種郵便の認可を受け、定価50円、送料6円となっている。50号から100円に値上げ、送料6円。
会員数は、2ヵ月で80名を突破(3号後記)、8号では300名、41号では400名、47号では500名近いと記されている。

会員の構成

 19649月に発行された「ボロボロ人生の唄 : 釜ケ崎物語」(茂木草介著・秋田書店)のエピローグに

「世間に同人雑誌は多いけれども、同人450名というのはないであろう。
裸の会は、釜ケ崎人のために釜ケ崎で生まれた文芸サークルで、「裸」はそのサークルの会誌である。しかし、文芸や芸術を研讃するための同人誌ではない。まして文壇へ出るための梯子段や腰掛を意味するものではなくて、純粋に自分たちの生活を歌い上げて、ストレスの解消と、解消後の平安な心で目分とその周囲を反省しようとする「生活のため」の会誌である。
450名のうち8割が日雇労務者で、2割がその他の工員、公務負、会社員、商人、運転手、医師、会社重役らが占めている。・・・・・
西成署の相談コーナーへ来て、そこの相談員である松原さんに接して、その場所から裸の会へ横すべりする人もある。」と紹介されている。
 会員の構成については、先に挙げた賛助会員名簿ほどに整理された資料は、「裸」には掲載されていないようである。が、会員の構成を知る手がかりが、全くないわけではない。
 「裸」30号から68号に掛けて、顔写真・略歴・作品の三点セットの会員紹介が66人分掲載されている。ただし、書き手が三人であるのが原因であるかもしれないが、略歴の紹介内容にはばらつきがある。紹介数は、「松原」が最も多く30人、「広野」と「田結」は各18人宛、計66人。
 掲載時平均年齢は47歳。小学生が二人含まれているのを抜くと、1歳上がって48.3歳になる。現在と比べると、「若い」集団と感じるが、定年年齢も平均寿命も現在より低いので、高齢集団に近いのかも知れない。
 年齢が分かっている人で、現在時年齢、敗戦時年齢、掲載時年齢を算出し、一つのグラフに並べると、戦争との同時代性、現在との生存でのつながりの遠さを確認することが出来る。
性別では9名が女性(内1名は小学生、婦人警官2、宣教師1、露店商・行商3、日雇1、貸間業1
男性が57名(内1名は小学生、警官1、センター職員3、今宮診療所1、カメラマン1、登録日雇13、日雇24、職人2,露店1、バタ屋1、他5、不明4
「ボロボロ人生の唄 : 釜ケ崎物語」では、「450名のうち8割が日雇労務者」となっているが、ここでは、総数66から不明4を除いて計算しても、64.5%にとどまる。これは、転職者(12名)を含んでいるので、現在日雇(28名)で計算すると42.4%になる。
「無作為抽出」なので、全体の傾向を反映しているとは言えないが、活動的な部分の傾向は示しているといえるのかも知れない。物故者が8人含まれている点に注意すれば、そうとも言いづらいようだが、生前は活動的な会員であったから、取り上げられているとすれば、そういう理解でいいようにも思える。

釜ヶ崎に来た時期について判明している人は66人中40人であるが、19551959年が18人、1960年から1964年が13人、この10年間で判明分の7割を占める。

戦前から釜ヶ崎と縁があることが判っているのは一人で、郡昇作さんだけである。
大西祥惠さんの「日雇労働者を対象とした戦前の社会事業 : 今宮保護所を事例として」(経済学雑誌,1153,2015-02)によれば、郡昇作さんは、『今宮保護所の4代めの所長であり、19346月から19469月までその任についていた』そうだが、保護所での勤務はその前からのようだ。
 郡昇作さんの著作「釜ヶ崎:どん底の職業とその実態(複刻版)」の前書きに、この著作が、『主として、昭和421日から、昭和2199日までの-見聞した-報告書』であると書かれているから、所長となる5年前から勤務していたようである。
上記推測は根拠がない。訂正する。200241226日記
大西さんは、『釜ケ崎 : スラムの生態』(磯村英一, 木村武夫, 孝橋正一 編 ミネルヴァ書房 出版年月日 196112月)に、「初代所長の細川氏は二ヵ月、第二代の某伯爵は一年、第三代の内山氏は二ヵ年を勤め、第四代目の著者は昭和九年六月三十日から昭和二十一年九月九日まで、保護所がアメリカ軍によって閉鎖されるまで勤めた。」とあるのを根拠に上記を書かれたのだが、松繁は確認を怠り、郡さんの著作に、「見聞した-報告書」とあるのを鵜呑みにして、昭和4年から保護所で勤務していたと思い込んでしまった。
「見聞」という言葉の意味が、自身の体験としての「見聞」というだけでなく、「記録」を「見聞」するこという「疑似体験」も含む、ということであるならば、所長として過去資料を閲覧することも含み得る事になる。
そればかりではなく、大阪市の「社会部報告第139号」(19315月・大阪市役所社会部)は「今宮保護所の記録」と題されており、『昭和421日開所以来2ヶ年間当所に宿泊した浮浪者の生活の実状を調査記録したもの』である。これを情報源として組み込むことで、昭和4年からの見聞した記録=「釜ヶ崎:どん底の職業とその実態」が成り立ちえるという点も見落としていたことになる。
郡さんの言う「見聞」というのは、直接の見聞だけでなく、書類・伝聞という間接の見聞も含めるいう理解のようだ。
また、『大阪府市名誉職大鑑 第1編』(自治名誉職協会 1934 昭和8123日印刷 昭和9210日発行)に登場する前任神山春雄今宮保護所長との職歴比較でも、郡さんが平職員で保護所に勤務していたという推察が成り立ち得ないと判断される。
ただ、『大阪府市名誉職大鑑 第1編』418頁に登場するのは「内山」ではない。「大阪市立今宮保護所主任 神山春雄梶」と見える。「梶」は「氏」の誤植とみられるので、「神山」も「内山」の誤植の可能性がある。郡の記憶違い、あるいは『釜ケ崎 : スラムの生態』の誤植の可能性もある。参考までに、両者の職歴比較を挙げておく。
 郡昇作さんは、裸の会発足に当たって相談を受け、会の所在地として分室の住所を使うことを承諾している。裸の会とは緊密な関係にあることを覗わせる。このことは、郡氏の戦前保護所勤務の経験と関係があるように思える。
 裸の会は、会報の発行だけではなく、定例の研究会(詩・俳句・短歌など)や懇親会、年次文化祭や物故者合同慰霊祭、防犯コーナーとのソフトボール大会、地域内清掃活動、日帰り旅行など、多様な催しに取り組んでいる。
発行責任者が西成警察署防犯コーナーの現職警察官であること、発足時の会事務所の所在地が大阪府の施設であったこと、賛助会員の多さとそのメンバーから見て、「他」から期待される役割としては、「更生保護団体」としての活躍であったと考えられる。
「裸の会」の多様な活動(文化祭・物故者合同慰霊祭・日帰旅行等)は、文芸サークルとして想定される活動(詩や俳句の研究会)の枠をはみ出しているようにも思えるが、世に多く見られる「親睦団体」に共通の活動であるとも言える。また、警察の防犯活動の一環とも言えなくはない。
明治における「警察」の法整備からいえば、1874(明治7)年司法警察規則、1875(明治8)年行政警察規則と整備され、フランスの刑法(1795年)の規定(行政警察は国家及各地方に於ける公の秩序を保持し及犯罪を防止するを目的とし 司法警察は犯罪者を捜索し逮捕するを目的とす)を倣したものといわれ、行政警察規則第一條は「行政警察ノ趣意タル人民ノ兇害ヲ豫防シ安寧ヲ保全スルニアリ」と記されている。
また、行政警察を更に細分し、保安警察と行政警察にわけてとらえ、保安警察を一般警察と呼び、行政警察を特別警察と呼ぶこともある。以下に紹介する今宮警察署の報告書類が「特別保護」の名称であるのは、その分類によるものと思われる。
  西成署が今宮警察署と呼ばれていた時代の事業報告(昭和4年度特別保護時報・昭和6年度特別保護事業、共に大阪府今宮警察署編)を、国立国会図書館デジタルで読むことが出来るが、裸の会の活動と当時の今宮警察署の活動を比較して「行政警察」の共通性を見ることが出来る。
 昭和4年(1929)版「はしがき」に『大阪府下は勿論他府県から此今宮を指して流れて来る人々の多くは安宿を尋ね無料宿泊所を教えられ、モルヒネ患者は同類相集まると云う風で結局は当署が尻を引受ける形になつております。故に/当署では特に救済救護並人事相談其他凡ゆる方法で教化遷善を講じて居ります・・・・』と書かれているが、資金の多くは民間からの寄付に頼っていたようである。「裸の会」の活動も、民間・賛助会員からの寄付によって行われていたようだ。
  郡昇作は、今宮保護所の運営資金について、「市の予算は建物の維持費と三人の給与だけで、医師への謝礼、薬代、旅費、葬送費、食堂従業員その他の事務員の費用は全部互助会でまかないました。徴収会費だけでは足りないが、大方の寄付が沢山ありました。今宮警察署からいただいたお金が一番多かった」と語っており、市の社会事業が行政警察に支えられていたことを明らかにしている。(『職業安定広報』18(27)
 松原は、復員後間もなく大阪府警察官になり、1960(昭和35)年に西成警察署に着任したという。戦前の「行政警察」の実体験はないといえる。
しかし、復員時期が不明だが、南方方面からの復員は、「シベリヤ抑留」と言ったことはなかったので、戦犯容疑がなければ、遅くとも1948年には警察官になっていたと考えられ、西成警察署に来た頃には、10年以上の職歴を積み重ねていたことになり、「行政警察」の活動についても知見を得ていたであろう。「裸の会」の活動に踏み出すにあたり、「荒れた地域対策」としての「文芸誌を軸とした精神訓育活動」は全く馴染みのない話ではなく、郡の戦前の釜ヶ崎経験を直接に聞いて、励みとしたのではなかろうか。(『詩集 釜ヶ崎羅漢』-あとがき-より)
ここで取り上げた66名の会員紹介について、五つのグループに分けてpdfにて紹介する。一人見開き2頁。写真・作品・略歴寸評
1.11名分(裸の会会長・防犯コーナー職員・西成労働福祉センター職員等)
2.16名分(小学生を含み日雇以外と日雇から離れた人など)
3.10名分(日雇外・元日雇)
4.15名分(日雇で安定所登録と明記してあるもの。過去も含む)
5.13名分(職安登録と明記なきもの。過去も含む)