資料:615日編集拡大会議用  小川 信   1972.6.15

何故自連をつぶすのか。15
自分にとって 他者にとって 仲間にとって 状況にとって
順不同)
  当初の対象としてあげた70年は、すでに過ぎた。
だが、70年の問題は過ぎ去ったのでなく、なお、課題としてのこっている。のこっているからつづけるのでなく、のこっているからこそ、やめる、という対応での前進の仕方として
自連の編集発行はある意味で<安定>している。その<安定>は何か。70年をすぎてなお発行していることの問題。
つまり、現実には不安定な諸状況に即した、或いはコミットしたものに自連がなりえていないということの問題。
    安定は固定化でもある。
 それは、新しい創造的紙面つくりへの意欲、冒険、アイデアを欠乏させ、外から入ってくる新しい刺激的要素に対するカキ根を生み出して、自連グループ「派」化する。
    惰性としての発行。
 惰性ゆえにある程度のものがつくれる。それゆえに、尚更、新しいものを生まない。つづけるのはややしんどく、やめたら物足らぬという泥沼。
    もう三年以上たった。
 キズを受けることのない行動は、行動でなく、運動でない!<試行>はもうこれで十分である。これ以上は同じことだ。
    ここらで一応の結論を出すべきである。結論をいつ出したらよいか、思いたったいまで一向に差し支えない。真の結論はやめねば見えてこない。やめねばはっきりしないものもある。やめないことへの闘い。
    40号でやめては、という意見に、編集社員からの明確な反対は出なかった。(それはやめねばならぬ問題が積極的にないと同じに、つづけねばならぬ理由がないことである。)
    いまのままでの現行編集社員に新しい可能性はない。また、新しい社員の出現は、〇〇以外に期待できない。現行編集社員間の空隙-尾関君はじめそれぞれの在り方のちがいと連合、非連合、空隙の隠微性の表面化
(どんな可能性があるか。まだどれだけのことをなしうるか。何がのこっているか)
新しい社員-成長-つくり出すこと。
    向井自連をつぶすため。向井自連の仮棟性。そのことで向井自連にいよいよなる問題 A B つぶさねばつぶれない
    やめてどうするか、を考えるため。何もしないのか。するのか。どうも出来ぬのか。
    毎号毎号の何故出すのかの積極的目標がぼけてきている。存在証明だけではダメ。最初はあいまいでよい。しかし、もう。
    存在すること、出されているから、新しいものが出ない。自連が占めている空間をあけることで、その空間に新しい可能性が出るか、出ないか。
    つぶしたら何があるか、何がのこるか、何がおこるか、おこらぬか。そのかかわり方、つぶし方との関連
    あたらしいつぶし方を求めて-こんなつぶし方があってもよい。どうつぶしたらよいかを考えてみること。
 刺激・媒介・契機。残務整理の積極性から。(強者からの解放)
    自連がなくてはならぬ人のために、自連がどうでもよい人のために、自連がつぶれてよろこぶ人のために-解放の多様性とその可能性